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和布刈神事  門司区門司 和布刈神社  [2014/02/15]
 

和布刈(めかり)神社は、関門海峡の最も狭く、潮の流れの速い早鞆(はやともの)瀬戸に面した九州側に建っています。旧暦元旦の早朝、和布刈神社の神殿の前の干潮の海で、わかめを刈り取って、神前に供える和布刈神事が行われます。わかめは万物に先んじて芽を出すため、新しい年を祝い、福を招く神事といわれ、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
和布刈神社は神功皇后(じんぐうこうごう)により創建されたと伝えられています。比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、鵜草葺不合命(うかやぶきあえずのみこと)、豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)、安曇磯良神(あづみのいそらのかみ)の五神が祀られています。比賣大神は宗像三女神です。日子穂々手見命は火遠理命(ほおりのみこと)とも呼ばれ、山幸彦のことで、兄は海幸彦です。豊玉比賣命は山幸彦の妃で、海神の綿津見神の娘で、山幸彦の間に鵜草葺不合命が生まれます。鵜草葺不合命は、母豊玉比賣命の妹で、育ての親である玉依比賣命と結婚し、神倭伊波琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、つまり神武天皇が生まれます。安曇磯良神は安曇(阿曇)氏の祖神で、海人族の安曇氏の発祥の地といわれている志賀島(福岡市東区)の志賀海神社には綿津見三神が祀られています。安曇は海人津見(あまつみ)が転化したといわれ、津見は住みの意といわれています。安曇氏は遠く移住して行き、安曇・阿曇・渥美などの地名が残され、海辺だけでなく、内陸の安曇野(長野県)にも移って行ってます。

日本神話では、世界ができる天地開闢(てんちかいびゃく)の最後の神の男神イザナギと女神イザナミによって日本の国作りが行われます。しかし、イザナミは火の神を生んだことにより亡くなりました。イザナギは諦めきれず、イザナミを黄泉の国(よみのくに)まで訪ねて行きます。そこで覗いてはいけないとの約束を破って、死の国のイザナミの姿を覗いたたため、イザナミに追われます。やっとの思いでイザナギは黄泉の国から脱出し、穢れを洗い流すために禊をします。その時たくさんの神々が誕生します。その中に海の神、航海の神の住吉三神や綿津見三神がいます。最後に左目を洗うと天照大神(あまてらすおおみがみ)が生まれ、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)、鼻を洗うと須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれます。

イザナギは天照大神に高天原、月読命に夜、須佐之男命に海を統治するように命じました。しかし、須佐之男命はその命に従わないため、イザナギは須佐之男命を海から追放します。須佐之男命は姉の天照大神に別れを告げるために高天原を訪れます。その時の須佐之男命の勢いが激しいため、天照大神は須佐之男命が攻めて来たのではないかと思います。須佐之男命は疑いを解くため誓約します。その証の中で神々が誕生します。須佐之男命の剣から生まれたのが宗像三女神です。のち天照大神から宗像三女神は天孫降臨の際の道案内を命じられます。宗像三女神は宗像大社の祭神で、海北道中は朝鮮半島への海路で、三女神は海北道中の守護神です。須佐之男命は高天原に滞在を許されますが、乱暴狼藉を働きます。そのため天照大神は天の岩戸に籠り、須佐之男命は高天原から追放されます。天照大神と須佐之男命の誓約の際、天照大神の勾玉から5皇子が生まれます。その長男の子、天照大神の孫のニニギノミコトは、天照大神から葦原中国(あしはらのなかつくに、日本)を統治するように高天原から地上に降ろされます。これが天孫降臨です。ニニギノミコトの子が山幸彦です。

朝鮮への出兵から帰国した神功皇后は、豊浦宮に戻る途中、祖先の神々を祀り、朝鮮への出兵で、海路の安全に協力した安曇磯良の魂をここ速門(はやと)に鎮めたことから、和布刈神社はかって速門社(はやとのみや)・速戸社や速戸明神・隼人明神・早鞆明神とも呼ばれました。海上交通及び軍事上の要衝にあったため、時の領主であった大内・毛利・細川・小笠原氏に和布刈神社は崇敬されました。

「和布」は「にきめ」または「にぎめ」とも読み、「わかめ」のことですが、ここでは「和布」は和訓(わくん、漢字に日本語の読み方を当てはめて)で「め」と読み、「わかめ」を指します。わかめは万物に先んじて芽を出し、自然に繁茂するため幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として、新年最初にわかめを刈る和布刈神事が古より秘かに行われてきました。平安中期の醍醐天皇の皇子、重明皇子の日記「李部王記」(りぶおうき・りほうおうき、吏部王記とも記載され、皇子は式部卿であったので、その唐名に由来します)によれば、奈良時代の710(和銅3)年に和布刈神事のわかめが朝廷に献上されたことが記されています。この神事によってこの社は和布刈神社と呼ばれるようになりました。

神事は冬至の日に和布繁茂の祈念祭から始まり、旧暦12月1日、採取された竹を割って松明がつくられ、境内の棚の上で乾されます。旧暦12月25日からは、神事に関わる神職は穢れを嫌って別に火をきり出して料理に使い、酒肉を断って穢れたものに触れずに心身を清らかに保つ別火潔斎に入ります。旧暦大晦日、神前の供えものである神饌で、料理される熟饌が用意されます。新年になった早朝の3時頃、烏帽子・狩衣姿の3人の神職が松明・鎌・桶を持って、社前の石段を下りて潮の引いた海に入り、わかめを刈ります。刈り取られたわかめは、酒や熟饌と共に神饌として神前に供えられて祭事が行われ、夜明け近くにすべての神事は終わります。戦前まで和布刈神事は見学できない秘祭でしたが、現在は公開されています。

神事の日程は公式サイトでお確かめください。和布刈神社の公式サイトは次の通りです。
   http://www.mekarijinjya.com/ 
門司港市街地の国道3号線を北に進みますと、鎮西橋交差点を国道は右折して関門トンネル方面に向かいます。そのまま直進して、県道261号門司東本町線を北上します。旧門司1丁目交差点の先は道は狭くなり、片側一車線になります。その先を更に北上しますと、道路一杯に大きな和布刈神社の鳥居が建っています。
   
鳥居の先に踏切があり、左側に和布刈トンネルがあります。田野浦公共臨港鉄道の貨物列車が2004(平成16)年まで通っていましたが、翌年営業休止になりました。現在は、門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」が通ります。踏切の先の左手に、駐車場のある広場があります。ノーフォーク広場といいます。  
   
ノーフォーク広場の横の道路に、和布刈公園、和布刈神社の案内があります。右側の山手一帯は和布刈公園です。
和布刈公園については、「北九州のみどころ」の「和布刈公園」をご覧ください。
   
ノーフォーク広場の横を通って来た道路は、その先で右に大きくカーブし、そのまま直進と、右に曲がって坂を上る道に分かれます。右折の道は、車は一方交通で、和布刈公園の周回道路になります。直進すると、先方に関門海峡の早鞆瀬戸に架かった高速道路の関門橋の橋脚が見えます。橋脚の先に和布刈神社はあります。  
   
和布刈神社です。先方の山は、関門海峡の対岸にある下関市の火の山です。
   
和布刈神社の境内に入ると広場がありますが、その手前を左に行き、関門橋の橋脚の下から関門海峡を眺めています。対岸は源平の合戦で平家が滅びた下関市の壇ノ浦です。右手は標高268.2mの火の山です。
同じ場所から少し東方向を見ています。正面が火の山で、右手が和布刈神社です。手前に枕潮閣という建物があって、その奥が社殿です。社殿の前の海中に石灯籠が1基立っています。
広場の先の右手に社務所があり、その先に鳥居があります。鳥居の先の一段高い所に社殿があります。
   
社殿横の棚の上で、わかめを刈り取る時の明かりの松明の材料として、竹が乾燥されています。旧暦12月1日竹を割って用意されます。
   
社殿は早鞆瀬戸のすぐ側に建てられています。  
   
社殿の前の海側にも鳥居が立っています。その先の石段を、和布刈神事の時には、3人の神職が海に下りて行きます。
鳥居の手前の左右の石灯籠は、細川忠興が寄進した石灯籠といわれています。
   
社殿の前の鳥居をくぐった石段の先には、海中灯籠が立っています。この先でわかめは刈られます。明治期に門司の廻船問屋の永井力五郎が寄進したといわれています。  
   
社殿の北側に和布刈砲台跡の石碑が立っています。和布刈砲台は1895(明治28)年に竣工しましたが、その遺構はありません。和布刈公園内の古城山にある古城山砲台はその3年前に竣工し、その遺構は山頂付近に残っています。明治期に関門海峡沿岸に築かれた砲台や堡塁の一環でした。これらは下関要塞として管轄され、終戦まで一般の人の立入りは禁じられていました。
和布刈砲台跡の石碑の手前に、松本清張文学碑が立っています。清張の「時間の習俗」は和布刈神事から始まり、その内容が詳細に描かれています。「時間の習俗」は「点と線」の三原警部補と鳥飼刑事が活躍する推理小説で、雑誌「旅」に1961(昭和36)年から翌年にかけて連載されました。
   
旧暦大晦日の午後11時頃から、和布刈神社境内の広場で黒土神楽が奉納されます。式神楽前半の祝詞奏上、壱番神楽、花神楽が奉納されます。  
   
神楽が奉納されている境内からの関門海峡早鞆瀬戸の眺めです。上空に高速道路の関門橋が架かっています。
豊前市には現在6つの神楽組織があり、黒土神楽はその一つです。豊前の岩戸神楽は福岡県の無形民俗文化財に指定されています。式神楽後半が岩戸神楽です。豊前の神楽の起源は古く、約1,100年前といわれていますが詳しくは分かりません。この地方には求菩提山(くぼてさん)で知られる修験道が盛んな山があり、江戸時代初め修験僧から神楽が伝授されました。その後は、神道色が強くなって混合した神楽といわれ、旧豊前国上毛郡の社家神楽を伝承するものです。社家神楽は神官によって奉納されるものですが、明治になって禁止されました。その後氏子達の要望で、社家から氏子へ伝えられました。黒土神楽は、豊前市久路土の石清水八幡神社に奉納される神楽です。
   
午前0時を過ぎ、旧暦の元日を迎えました。黒土神楽の奉納神楽の湯立神楽が始まります。  
   
境内の広場に湯庭が設営されています。青竹の竿の横に湯釜が見えます。下で火が焚かれています。
   
境内に立てられた太い青竹の竿に登り、竿上から餅まきが行われます。  
   
竿上で花火に点火し、足を竹竿に絡ませて後に倒れます。アクロバットな神楽が行われます。
   
青竹の竿を支える紐を伝わって降りて来ました。  
   
湯立神楽は釜の水(陰)から湯(陽)が立つことから名付けられたといわれています。陰陽の交替、五行循環、三合の理に基づいた五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄、国家安泰を祈願する大規模な神楽といわれています。
   
旧暦元日の午前3時が近づいて来ました。1人が火が点いた竹を束ねた松明を持ち、1人が鎌を、1人が桶を持った3人の神職が、社殿の前に進んで来ます。社殿の前の鳥居をくぐり、石段を下りて、潮の引いた海中灯籠の先に進みます。  
   
左に海中灯籠があります。神職は、烏帽子に白の狩衣で、白足袋に草鞋姿です。
   
3人の神職は、松明の灯りを頼りにわかめを探し、わかめを刈って桶に入れます。  
   
和布刈神社の和布刈神事が行われている頃、対岸の壇ノ浦で住吉神社の和布刈祭が行われています。こちらはいまだに秘祭なので、見物人はいなく、中央の篝火だけを対岸から見ることができます。かすかに右側でわかめが刈られているようです。住吉神社は長門の一宮で、壇ノ浦の4km程北にあります。神功皇后の朝鮮出兵の際、住吉三神の教示を受け、守り神になったといわれています。神功皇后は帰国し、豊浦宮に戻る途中、その地に祠を建て住吉三神を祀ったといわれています。
   
3人の神職は、刈り取ったわかめが入った桶を社殿の神職に渡します。わかめは神前に供えられます。御神燈の間、右から二番目に供えられています。  


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