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小倉祇園    
小倉北区  [2014/08/02]
 

 
小倉は本州と九州を隔てる関門海峡に面し、紫川の河口部にある海上交通の要所であり、筑前と豊後への陸上交通の接点でもありました。小倉城が最初に登場したのは、鎌倉時代文永年間(1264-75)といわれています。戦国末期には高橋鑑種(あきたね)が小倉に入ります。豊臣秀吉が九州を平定すると、鑑種の養子の高橋元種は日向延岡に移され、豊前の企救(現在の小倉北・小倉南区とほぼ同じ区域)・田川二郡を秀吉の家臣毛利勝信は与えられ、小倉城に入りました。

1600(慶長5)年関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡(検地39.9万石)を細川忠興は与えられました。当初入城していた中津城から、1602(慶長7)年築城していた小倉城に移りました。細川忠興は紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。足立山を発し、船場町で紫川に合流する寒竹川(のち神岳川、現在は神嶽川と記されることが多い)を利用し、三本松付近(古船場町の南)に水門を設け、そこから北の海に濠を掘り、寒竹川の水を流しました(現在の砂津川)。寒竹川とその水を利用した外濠と紫川に囲まれた内側を新しく開いて東曲輪としました。従来からの紫川西岸を西曲輪としました。新たに開いた東曲輪は京都の町のように碁盤の目の町割りにしました。板櫃川が西流する所の北側は沼沢地でした。そこの海に面した個所が埋め立てられた帯曲輪といわれる個所に鋳物師町(いもじまち)をつくり、近国から集めた鋳物師には賦役を免除しました。この鋳物師町に忠興は祇園社を創建し、京都の祇園祭を取り入れました。

小倉南区の長尾に祇園神社があります。平安時代初めの870(貞観12)年、疫病が流行ったため祇園社が勧請されました。中世この地が長野氏の支配下になると、その保護を受けましたが、長野氏が衰退すると、社殿は荒れ果てました。細川忠興が鷹狩に来られた折、戯れに杖で祠の扉を開きますと、忠興の両目が見えなくなりました。このため忠興が詫び、片目を開かせてもらえれば、祇園社の社殿を造営しますと願いました。目は治り、忠興は月毎に参詣しました。その後、祇園社の分霊を片野村に祀りました。忠興の目については、不動山の祠から鷹が出てきて蹴られたという話も伝わっています。西曲輪に近接する所に藩主忠興の野菜園があった所から、菜園場(さえんば)の地名が付いたと伝えられています。この地に不動山がありましたが、忠興が小倉城築城した際、ここに愛宕神社を勧請しました。それ以来、愛宕山と呼ばれています。

1617(元和3)年、細川忠興は片野村の祇園小祠と不動山の祇園小祠を移して、領内総鎮守として鋳物師町に祇園社を造営しました。祇園祭は1618(元和4)年に忠興が参籠祈願したのが始まりといわれています。初期の祇園祭は神事の性格が強く、竹で4本の柱を立て、榊でつくられた祠を4人で担ぐ、簡素な神山が城下を巡るようなものでした。1632(寛永9)年細川氏は肥後熊本に移封され、小笠原氏が入国しました。この後、城下の商人達が力をつけ、財力を背景にした江戸時代の爛熟期を迎えると、祇園祭の御神幸に趣向を凝らし、傘鉾、飾り山車、踊り屋台、三味線・笛・鉦のお囃子、踊り子が随伴しました。当時の祭礼日は6月11〜13日でした。藩主が祭主であるため祭礼の作法、格式は厳しく、藩主が小笠原氏になってからはさらに厳しくなったといわれています。祇園祭を統括する行事役が任命され、行事役は祭の内容、段取りを記した書類を町奉行に提出し、町奉行は町方役と相談して、その筋書きを家老に提出しました。

江戸時代は5月末日、祭礼当日の衣装を着てのリハーサルが行われ、行事役は下検分を行いました。神山は、神輿の性格を持った、特異な山車といえます。江戸時代祇園社を建立時、須賀大神を勧請した際に、馬借町が初めてつくり、須賀大神を守護したといわれています。勧請した時より時代が下ると、神山は白木の神明造りになりました。神山を馬借町が、次に鋳物師町、更には船頭町、博労町、新魚町が引き受けました。この日は宵祇園といい、太鼓祇園になりました。6月11日の祭礼の初日、神山の御神幸行列があります。神輿は鋳物師町の本殿を出立し、一体は三本松へ、一体は愛宕山に神幸しました。後、愛宕山への神幸は中止されました。各町内は常盤橋東橋詰に集まり、山車の先頭は西魚町の天下泰平の山車で、行列をつくって進み、神輿は三本松で一泊しました。第二次長州征討戦での三本松の浮殿の焼失で、馬借町引受けになりました。12日の二日目、前日と同じように各町内は常盤橋東橋詰に集まり、神輿、神山は浮殿から還幸しました。13日の三日目は、祇園社で湯立神楽の奉納がありました。このような行列をつくって城下を巡る祭り次第を廻り祇園と呼びました。これに対し、自分の町内に山車を据えて、太鼓を打ち鳴らすのを据え祇園と呼びました。

幕末、尊王攘夷派によって再び藩の実権が握られた長州藩を、幕府は四方向から攻撃しました。これが1866(慶応2)年6月の第二次長州征討戦です。そのうちの小倉口の戦いは、6月17日未明に始まり、長州藩の攻勢に幕府軍は後退します。8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。企救郡は幕末からの騒乱で農村は疲弊し、小倉の町からも人々が逃げ出し、さびれていました。また、長州藩の占領下で腐敗と無法が横行し、1868(明治元)年には、天候不順で飢饉となり、1869(明治2)年も不作が続き、企救郡で百姓一揆が起こりました。翌年1870(明治3)年2月、長州藩は藩兵を引き揚げ、企救郡を日田県に移管することになりました。1871(明治4)年11月、豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県が置かれました。この際に企救郡は小倉県の管轄下に入りました。幕末以来疲弊していた小倉も、ようやく再興の機運が出てきました。1876(明治9)年4月太政官布告により小倉県は廃止されて福岡県に合併されました。

幕末から維新の戦火や混乱の中で、小倉祇園の山車などの祭礼用具は滅失し、それまでの形式は失われ、次第に現在の太鼓を主体にした祇園祭へと移っていきました。明治中期以降は太鼓を中心とする祇園祭になりました。太鼓は両面を打ちます。表は高い音が出るように、裏は鈍い音が出るように張ります。表は本またはカンと、裏は元またはドロと呼びます。大正期になると祇園祭は7月10〜12日に行われるようになりました。現在のような太鼓を載せた山車は、明治の末から大正にかけてつくられ、それ以前は六尺棒で太鼓を担いで歩きながら打ったといわれています。鋳物師町の祇園社は、明治になると八坂神社と変わりました。1934(昭和9)年八坂神社は鋳物師町から小倉城北ノ丸跡に遷されました。

山車の前後に太鼓を据え、その二つの太鼓の両面に4人の打ち手が配されます。ジャンガラと呼ばれる擦り鉦に配される者が2人で、1台6人のチームで構成されます。ジャンガラで調子を取り、カンとドロの打ち方の違いが渾然一体となり、豪快な太鼓の競演となります。岩下俊作原作の「富島松五郎伝」は、戦前「無法松の一生」として映画化され、小倉祇園は太鼓祇園として有名になりました。人力車夫の松五郎は、陸軍大尉吉岡小太郎の未亡人良子と息子の敏雄を思い、生涯純粋な愛を貫きます。明治後期から大正にかけての物語です。

旧制高校の夏休みに、祇園太鼓が聞きたいという先生と一緒に帰省していた敏雄を前に、松五郎は飛び入りして太鼓を打ち続けました。その後、思いを断ち切るように松五郎は良子に別れを告げました。酒に明け暮れた松五郎は、敏雄との思い出の小学校の校庭で死んでしまいます。残された行李の中に、良子からの毎年のお年玉が封を切らずにあり、自分名義の他に良子・敏雄名義の預金通帳が残されていました。映画は稲垣浩監督、阪東妻三郎主演で1943(昭和18)年に封切されますが、戦時中のことで、検閲でカットされました。戦後はGHQ(占領軍総司令部)によってカットされました。そこで、1958(昭和33)年、同監督の手で、主演は三船敏郎でリメークされました。ベネチア映画祭でグランプリを得ています。この後、主演三國連太郎や勝新太郎でも映画化されています。

子供達は、昔は山車の後ろについて行きましたが、大正の中頃からは山車の引綱を引くようになりました。その時、小倉祇園ばやしを歌います。現在の小倉祇園ばやしは郷土の詩人阿南哲朗(1903-1979)が、子供達に作詞したものです。阿南哲朗は永く到津遊園(現在の到津の森公園)の園長を務めました。児童文学者の久留島武彦(1874-1960、大分県出身)に師事し、詩、民謡、童話をはじめ、郷土に多くの文化的足跡を残しました。

小倉名物太鼓の祇園 太鼓打ち出せ元気出せ あっやっさやれやれやれ
小倉祇園さんはお城の中よ 赤い屋根から太鼓が響く あっやっさやれやれやれ
太鼓打つ音海山越えて 里の子供も浮かれ出す あっやっさやれやれやれ
笹の提灯太鼓にゆれて 夜は火の海小倉の祇園 あっやっさやれやれやれ
八坂祇園さんに揃うて詣れ 揃い浴衣でみな詣れ あっやっさやれやれやれ

小倉祇園太鼓は福岡県無形民俗文化財、江戸末期から明治にかけてつくられた山車5台が同有形民俗文化財に指定されています。これを伝承するのが小倉祇園太鼓保存振興会です。
1987(昭和62)年からは、小倉祇園太鼓は7月の第3土曜日を中心に、前後3日間行われます。
小倉祇園太鼓の公式サイトは以下の通りです。
  http://www.kokuragiondaiko.jp/  
小倉駅前からの平和通りの先、診療センター前の交差点の一つ手前の交差点を右折し、商工貿易会館の横の神嶽川沿い行くと、市営天神島駐車場があります。その一角、ホテルニュータガワ、天満橋の前に岩下俊作の書の「無法松之碑」はあります。ここは古船場(ふるせんば)町です。
「富島松五郎伝」は、岩下俊作(1906−1980)が1938(昭和13)年に書いて、直木賞候補になりました。岩下俊作は生涯小倉に住み、八幡製鐵所に勤めました。退職後も文芸の振興に努め、後進の育成にも力を注ぎました。
   
小倉祇園の初日は金曜日です。小倉祇園祭は八坂神社の例大祭で、午前中に神幸祭があり、神輿に随伴する行列がお旅所に出立します。夕方からは、山車が町内を巡行する宵祇園があります。米町一丁目の山車です。  
   
宵祇園で、魚町銀天街を巡行する魚町三丁目の山車。
   
北九州市庁舎の横の紫川沿いに、露店が並んでいます。小倉城の天守閣横のお濠端、勝山公園の芝生広場にも祭りの間露店が出ています。
祭りの夜は、露店の並んだ通りを歩きたいものです。  
   
常盤橋の東橋詰の広場のお旅所です。神輿はここで一泊します。
   
小倉祇園2日目の土曜日です。神輿がお旅所を出立します。先頭は西魚町の天下泰平の山車です。  
   
次の山車は古船場一・二丁目です。
   
神輿が町々を巡って八坂神社に戻ります。  
   
城内にある八坂神社です。神輿が戻り、還幸祭があります。
八坂神社の公式サイトは以下の通りです。
  http://www.yasaka-jinja.com/
天守閣が見えるお濠端です。ここを南に行くと小倉城大手門前広場になり、そこで2日目の午後、小倉祇園太鼓競演大会が開かれます。競演大会は戦後まもなく開かれ、平成26年は67回になります。
   
小倉祇園太鼓競演大会の開会に先駆けて、平松神輿が会場に入って来ました。平松神輿は、鋳物師町の西隣、漁港がある平松町に江戸時代から伝わる神輿です。  
   
米町一丁目。以下参加チームの一部を紹介します。
   
古船場一・二丁目  
   
中島第三町内
   
魚町二丁目  
   
香春口第三町内
   
末広二・三丁目  
   
大門町
   
金田第一町内  
   
末広一丁目
   
長浜東  
   
船頭町
   
東浅野  
   
鍛冶町西
   
魚町三丁目  
   
下富野
   
高田町一丁目

以上のような各町内の大人組が35チーム続きます。その後、職域、学校、団体等の一般の16チーム、各町内の少年組34チームが続きます。67回大会では、合計85チームが参加しました。
 
   
小倉祇園3日目日曜日には、小倉城大手門前広場では据え太鼓競演会が開かれます。

北九州市消防音楽隊のカラーガード隊が先導し、音楽隊が華やかに盛り上げます。
   
山車の前後に太鼓を載せて打ち鳴らしますが、それ以前は、棒に吊るした太鼓をかついで歩き、かついだ太鼓を両面から打ち鳴らすかつぎ太鼓でした。  
   
祇園太鼓が有名になると、その技も競われました。特に、据え太鼓でその技法は磨かれ、それに惹かれて、いくつもの小倉祇園太鼓のチームが結成されています。

子ども太鼓
   
長老模範打ち  
   
 前回優勝チーム 紫会
据え太鼓競演会は平成になって始められました。
少年組 咸宜(かんぎ)会 
   
少年組 末広二・三丁目
   
少年組 女無法松の会
   
聾鼓会
聴覚障碍者チーム
 
   
北九州市立大学小倉祇園太鼓部
   
咸宜会  
   
大山
   
おう会  
   
末広二・三丁目
   
小倉祇園3日目日曜日夕方、北九州市庁舎前から紫川に架かる中ノ橋を経て旦過市場前までの小文字通りが太鼓広場になります。
太鼓広場になった小文字通りは、車両が通行止めになります。
決められた場所に各山車は勢揃いし、その場で勢揃い打ちがあります。その後巡行歩行打ちが始まります。  
   
かって、行列をつくって城下を巡る祭り次第を廻り祇園と呼びました。
   
現在は、この催しが太鼓広場「廻り祇園」です。平成26年が40回になります。  
   
祭りを惜しむように、暗くなるまで廻り祇園は続きます。


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