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門司みなと祭    
門司区  [2016/06/11]
 

 
門司みなと祭は1934(昭和9)年に始まりました。現在は5月下旬の土・日曜日の2日間開催されます。門司港地区で主に開催されますが、大里地区でも行われます。

門司港は古代から交通の要衝で、本州との渡航地でした。しかし、江戸時代には南西にある大里がその役に就いたため一寒村になっていました。明治になると門司港の築港が始まりました。1889(明治22)年門司築港株式会社が設立され、起工されました。同年、石炭・米・麦・硫黄・小麦粉の5品目の特別輸出港に指定されました。1891(明治24)年九州鉄道会社は門司・高瀬間の鉄道を開設させ、博多の仮本社から門司清滝に本社を移しました。門司は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を始めました。

門司築港による工事は1899(明治32)年まで続き、工事完了により会社は解散しました。この工事は築港というより海面埋立であったという評価もあります。同年門司港は一般開港場に指定され、貿易港として発展していきます。1901(明治34)年国鉄は下関と門司の間の関門海峡を横断する関門連絡船の運行を始めました。1907(明治40)年、下関・門司両港は横浜、神戸、敦賀と共に第一種重要港湾に指定されました。これにより、政府による関門海峡の改良工事と関門両港の修築工事が1911~27(明治44~昭和2)年の間行われ、海峡を大型船が通航し、門司には1万トン級外国船が錨泊可能になりました。

1914(大正3)年連絡船への乗り継ぎを考慮して、現在の門司港駅が移転新築されました。1921(大正10)年欧州航路が開設されました。この間も大蔵省や門司市による工事も行われましたが、干潮時には300トン級の小型船しか接岸できず、沖荷役に頼る状態でした。このような状況を改善するため、大型船の接岸係留、鉄道と連絡する港湾施設が必要になり、1919(大正8)年内務省直轄の門司港修築工事が開始され、1931(昭和6)年に竣工しました。この結果、1万トン級の大型船が7隻同時に係留されるようになりました。

門司港修築工事が完成した際、門司商工会議所の中でみなと祭の話が持ち上がりました。1932(昭和7)年には大連航路、1934(昭和9)年には天津航路が開設され、門司港は国際港の地位を固めていきました。1934(昭和9)年、当時の門司商工会議所会頭の出光佐三(出光興産創業者)の音頭により第1回門司みなと祭が5月1~3日間開かれました。門司みなと祭は、その後3年間開かれましたが、1937(昭和12)年日華事変の勃発により中止されました。

1937(昭和12)年7月7日盧溝橋で日中両軍が衝突しました。双方とも局地事件で処理するつもりでしたが、交渉はまとまらず、拡大していきました。当初北支事変と呼ばれましたが、政府は拡大するにつれ支邦事変と改称しました。日華事変、日支事変とも呼ばれました。宣戦布告されない戦争のため事変と呼ばれますが、現在は日中戦争と呼ばれることが多くなっています。1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通して、南の大里にある門司駅が下関と直接つながりました。

戦後1947(昭和22)年、和布刈神社の祭礼に合わせて5月13日から3日間門司みなと祭が復活しました。1958(昭和33)年関門国道トンネルが開通し、1964(昭和39)年国鉄による連絡船は廃止になりました。1973(昭和48)年、関門海峡の早鞆瀬戸(はやとものせと)に関門橋が開通し、本州と九州は高速自動車道でつながりました。門司みなと祭は門司港の隆盛に伴い経済界を中心に行われましたが、時代を下るにつれて市民参加の祭りになっていきました。

門司港の交通の要衝としての役割は低くなって、街の輝きが翳っていましたが、1995(平成7)年、大正浪漫の香りを醸し出す観光地門司港レトロとして蘇り、現在北九州有数の観光地になっています。その年の門司みなと祭の内容については、開催日近くに「門司みなと祭」で検索してください。
門司港レトロについては「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。
帆船日本丸が門司みなと祭開催前に門司港に寄港しました。日本丸は独立行政法人海技教育機構に所属します。独立行政法人海技教育機構は、船員及び船員となろうとする者に対し船舶の運航に関する学術及び技能を教授する組織です。
門司港西海岸の関門海峡ミュージアム前の埠頭に、帆船日本丸が接岸しています。土曜日午後セイルドリルが始まりました。
   
日本丸に乗船している若い訓練生達がマストに登り、帆を畳んでいるロープをほどいていきます。  
   
帆を畳んでいるロープがほどかれました。
   
訓練生達が甲板でロープを引いて帆を張っていきます。  
   
あと一息ですべての帆が張れます。
   
開始から1時間もたたずに帆が張れました。
帆船日本丸は独立行政法人海技教育機構の練習船で、2代目になります。初代は1930(昭和5)年に進水し、1984(昭和59)年に退役しました。その美しい姿から「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれました。1984(昭和59)年2代目が就役しました。2代目の概要は次の通りです。
総屯数2,570トン、全長110m、幅13.8m、ディーゼル機関1,500馬力2台
帆を張った日本丸です。左に関門海峡に架かる、1973(昭和48)年に開通した高速自動車道の関門橋が見えます。  
   
日本丸の西側に自衛艦が寄港しています。その前で自衛隊の音楽隊の演奏が行われていました。
   
寄港していたのは、多用途支援艦「あまくさ」です。「あまくさ」は排水量輪980トンで、主な任務は、自衛艦、航空機の訓練射撃のための標的えい航支援、航行不能になった艦船のえい航、災害派遣に於ける救援活動です。  
   
「あまくさ」の艦橋内です。
   
「あまくさ」の後部甲板から艦橋方向です。  
   
日本丸では訓練生達がマストに登り、帆を畳んでいました。
   
翌日曜日8:30、日本丸の一般公開は9:00からですが、すでに行列ができていました。  
   
3本マストの真ん中のメインマストです。高さは43.5mです。
   
船内へのエントランスです。  
   
後部甲板にある帆走用の操舵輪です。晴天の時は2人、荒天の時は4人で操作します。
   
西海岸を北東に進みます。第7管区保安本部が入っている港湾合同庁舎前を少し北東に行った物揚場で、巡視艇「はやなみ」が一般公開されます。  
   
巡視艇「はやなみ」で、見学の子供達を加えて、救難活動の訓練が行われました。
   
更に北東に進むと、門司港と下関の唐戸を結ぶ関門汽船の関門連絡船の桟橋があります。  
   
関門連絡船の桟橋の前の建物が、門司側の乗り場マリンゲートもじです。
   
マリンゲートもじから南東に行くと門司港駅前交差点に出ます。交差点の右手に門司港駅が見えるはずですが、現在工事中で、国の重要文化財であるその駅舎を見ることはできません。改修工事は、2012年に始まり、2018(平成30)年3月に完了する予定です。  
   
門司港駅前を南東に進みます。この通りを桟橋通りと呼びます。すぐ先の左手に旧門司三井倶楽部があります。門司港レトロのシンボル的建物です。1921(大正10)年松田昌平設計で、三井物産の社交倶楽部として山手の谷町に建築されました。1949(昭和24)年国鉄所有になり、門鉄会館として使われました。1990(平成2)年移築・復旧され、国の重要文化財に指定されています。
   
旧門司三井倶楽部の角の交差点を左手に入っていきます。その先は第一船溜りになります。1890(明治23)年、第一船溜りは完成しました。第一船溜り付近が門司港レトロの中心になります。左の高層マンションの右下にレトロ中央広場があります。そこのステージで門司みなと祭の間、イベントがあります。
レトロ中央広場でバナナの叩き売りをやっていました。門司は日本で最初のバナナ荷揚げ地でした。熟成が進んだり、傷ついたバナナは廃棄にするしかなかったのですが、それらを大量に安く仕入れて、門司港駅前の桟橋通りで、売り子に安く売らせました。バナナの叩き売りの始めは大正初期といわれ、板状のものでバナナが並んでいる板を叩きながら、独特の節で口上を述べてバナナを売りました。現在のバナナの叩き売りは伝承芸能になっていて、保存会が組織されています。  
   
レトロ中央広場の前の第一船溜り付近は親水広場になっています。そこで祭りの間はフリーマーケットが開かれています。
   
レトロ中央広場を南東に行きますと線路があり、門司港と和布刈公園をつなぐ観光トロッコ列車「潮風号」が通ります。踏切を渡り南東に行くと、国道3号線の鎮西橋交差点に出ます。国道は左斜めに進んで国道2号線になりますが、そちらは後程行くとして、鎮西橋交差点を直進します。栄町銀天街のアーケードの北端に出ます。そこが門司みなと祭栄町お祭り広場となり、特設ステージが設けられています。  
   
国道3号線の鎮西橋交差点に戻り、斜めの国道沿いを進むと老松公園前交差点に出ます。この交差点が国道2号線と3号線の接点になります。この交差点を北に行くと、関門国道トンネルになります。この交差点の前が老松公園です。
   
老松公園に入って行くと噴水があります。門司みなと祭の間、その道筋や噴水の周りには露店が出ています。更にその先は、奥の和布刈神社のお旅所への参道になります。老松公園は1922(大正11)年に造られましたが、公園の北に1958(昭和33)年国道海底トンネルが開通し、この開通を記念した世界貿易産業大博覧会があり、公園がその第一会場になりました。それを機会に、その跡地は本格的な公園に整備されました。  
   
老松公園の噴水池の所から左に進みますと、野球場になり、その奥のバックネットの前が和布刈神社のお旅所になっていて、神輿が鎮座しています。門司みなと祭の期間が和布刈神社の春季大祭になります。
尚、大里地区では門司みなと祭の期間が戸上神社の春季大祭になります。
   
老松公園の野球場のバックネットの右手に高い慰霊碑が立っています。その前の鳥居は靖国神社と同じ形で、昭和13年12月と刻まれています。1932(昭和7)年門司市は在郷軍人会や市民の協賛で、忠魂碑を建てました。五市が北九州市に合併した後、忠魂碑は慰霊碑に変わりました。戦前から何かがあると、老松公園で開催され、門司市民はここに集まりました。戦時中は、中国大陸には門司西海岸から兵士らは出征して行きました。この公園は、軍需物資が移送される門司西海岸に近いため、その集積場になりました。この公園は、戦死・戦病死者の遺骨・遺品の受け渡し場所でもありました。  
   
老松公園の北側の市民会館の横を通って、公園の入口に戻ります。その道は木立の中を通ります。その道の両側にフリーマーケットが門司みなと祭の間開かれています。
   
レトロ中央広場に戻って来ました。ステージでよさこいが演じられていました。
ステージの前の観覧席には屋根はありません。そこを中央に、左右に常設の大型テントの屋根があり、木製ベンチが並べられています。門司港レトロでイベントがない時は、そのテントの下は休憩所になります。
 
   
レトロ中央広場の前を北西に進みます。赤レンガの旧門司税関の先の第一船溜まりの入口に、はね橋ブルーウイングもじが架かっています。はね橋が上がって開いていました。
   
はね橋ブルーウイングもじ、第一船溜まりの入口の両岸を結ぶ歩行者専用の橋で、定時に開閉します。船溜まり周辺の回遊性を高めるために建設され、1993(平成5)年完成しました。  
   
はね橋ブルーウイングもじからの第一船溜まりの眺めです。左は旧門司税関で、1912(明治45)年に建てられました。1927(昭和2)年税関は西海岸に建設された合同庁舎に移転されました。この旧門司税関はレンガ造り2階建てで、1933(昭和8)年民間に払下げられました。しばらく事務所として使われましたが、その後倉庫に転用されました。現在は1階は喫茶・休憩室・展示室、2階はギャラリー・展望室になっています。
第一船溜の奥に複合商業施設海峡プラザが見えます。お土産や雑貨店、レストランの他に、オルゴール・ガラス工芸の美術館などがあります。
門司港ホテルの横を通って門司港駅交差点に戻ります。門司みなと祭の日曜の13:00から門司港駅前の桟橋通りでパレードが行われます。3時からは、大里地区でも行われます。全部は紹介できませんが、いくつか紹介します。
北九州ハーレークラブ
   
北九州市消防音楽隊  
   
ミスポート門司
   
消防団  
   
福岡ひびき信用金庫
   
門司海洋少年団  
   
門司港運株式会社
   
鼓女会  
   
関門港湾労働組合協議会
   
門司中学校  
   
門司警察署 福岡県警音楽隊
   
南京玉すだれききょう会  
   
大積校区 高砂太鼓と平家踊り


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