北九州点描

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槻田川
  八幡東区  [2013/05/25]
 

 
八幡東区の東部を流れる槻田川(つきだがわ)は、八幡東区猪倉町(いのくらまち)の南の山中を源とし、板櫃川(いたびつがわ)の上流域(上流は大蔵川と呼ばれる)の大蔵谷の東隣の谷を流れ、八幡東区昭和で板櫃川に合流します。槻田は、高槻と荒生田の合成地名で、1887(明治20)年高槻村と荒生田村が合併して槻田村が誕生しました。北側の板櫃川沿いが荒生田で、南側の槻田川沿いが高槻でした。1925(大正14)年槻田が八幡市に編入されるまで、槻田地区は企救郡内で、江戸時代までは豊前国内でした。

1931(昭和6)年、当時八幡製鐵所に勤めていた在野の考古学者名和羊一郎(1907-67)は、遠賀郡水巻町立屋敷の遠賀川の河床で、弥生時代前期の土器で有名な遠賀川式土器を発見しました。その年、彼は黒崎土地区画整理工事中に黒崎貝塚を発見しました。これらをさかのぼる1929(昭和4)年、名和羊一郎は高槻遺跡を発見しました。高槻遺跡は、槻田川の南側に分布する弥生時代前期から中期にかけての集落跡で、槻田小学校を中心にその周辺で発見されています。

弥生時代前期(紀元前8世紀〜前5世紀頃)の遠賀川式土器は東進して伝播するうちに、板付T、板付UA〜C式に細分されますが、板付UC式は弥生時代前期末期で、高槻遺跡で発掘された土器から高槻式土器と呼ばれます。高槻遺跡では、周辺の山から採取された安山岩を使った石器の屑や未成品が多数発見されています。石器の多くは蛤刃石斧(はまぐりばせきふ)と呼ばれる大型石器で、高槻遺跡はその製作地で、近隣に供給していました。1973(昭和48)年槻田小学校の改築工事の際、高槻遺跡の発掘が行われ、槻田小学校の建替えに際して1993・95(平成5・7)年度にも発掘が行われました。

南北朝時代から戦国時代にかけて、高槻には高月郷がありました。宇佐神宮領の荘園、到津荘内の郷でした。到津荘の範囲は、北は海岸、南は高槻、東は現在の小倉城のある勝山公園、西は豊前と筑前の国境の境川でした。江戸時代から1887(明治20)年まで高槻は高槻村でした。1887(明治20)年高槻村と荒生田村が合併して槻田村が誕生しました。1889(明治22)年板櫃・槻田・中井・藍島・馬島村が合併して板櫃村となり、その後板櫃町となります。1916(大正5)年製鐵所の用地がある槻田と前田の一部が八幡町に編入されました。1925(大正14)年板櫃町槻田が八幡市に、板櫃町の他は小倉市に編入されました。

1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎・門司間のうち、黒崎・小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。この間は駅はありませんでしたが、1898(明治31)年、大蔵駅が開設されました。その線路は西鉄電車が通っていた旧電車通りの南側を通っていました。その沿線は鉄町・東鉄町と呼ばれていました。板櫃川との合流点近くの槻田川に九州鉄道の茶屋町橋梁が架けられていました。

1902(明治35)年、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートが開業され、内陸ルートは1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅もなくなりました。門司東本町・黒崎駅前間の電車は、九州電気軌道(九軌)によって1911(明治44)年開通します。1942(昭和17)年同社は他社と合併し、西日本鉄道(西鉄)となりました。戦後、モータリゼーションの発達により、路線維持が困難となり、1992(平成4)年砂津・黒崎駅前間の西鉄電車は廃止になりました。製鐵所官舎用地に近い槻田は、戦前・戦後住宅地として発展して来ました。  
岩の所を左から流れて来た槻田川が、奥から右に流れる板櫃川に合流します。
槻田川が板櫃川に合流する地点のすぐ上流に、九州鉄道茶屋町橋梁があります。1891(明治24)年4月、黒崎・門司間の鉄道が開業した時の遺構です。
茶屋町橋梁は、長さ21.51m、幅4.51m高さ4.8mの赤レンガ積みのアーチ橋です。北側のこちらの面だけ、レンガの凹凸が市松模様になっています。単線の鉄道でしたが、輸送量の増大で複線化による橋梁の拡幅を見越して、増設部分との一体化のためといわれています。
槻田川の上流からの茶屋町橋梁です。茶屋町橋梁は、一時期歩道橋として使われたようですが、現在は史跡として保存されています。
同時期建設されたのが、九州鉄道尾倉橋梁です。尾倉橋梁については、「八幡のまちかど」の「中央・春の町」をご覧ください。
   
槻田川の両岸は、槻田橋まで車も通行できます。右岸(下流を向いて右側)は上り、左岸は下りの一方通行になっています。茶屋町橋梁から2つ目の橋の左岸に茶屋町公園があります。公園の一角に、槻田川の水を利用してせせらぎがつくられています。この「槻田せせらぎ広場」は、昭和61(1986)年度建設省創設第1回「手づくり郷土賞(ふれあいの水辺)」を受賞しています。  
   
茶屋町公園の南端から西の石坪町・竹下町に伸びている通りが「槻田あおぞら通り」です。日本の道100選に選ばれています。建設省によって8月10日に制定された「道の日」を記念して、1986・87年度に制定された全国の特色ある優れた104の道の一つです。先方に見える山は、標高622mの皿倉山です。
   
茶屋町公園の先に行くと、道路幅のある通りに兼二橋が架かっています。そこを左折して南に行くと、県道51号曽根・鞘ヶ谷線槻田小学校前交差点があります。その左手、道路の向こう側、バス停の横に石碑が立っています。弥生時代の遺跡群、高槻遺跡の石碑です。道路の側は松尾公園で、その奥に槻田小学校があります。  
   
槻田川に戻り上流に進みます。右岸から二本の桜の木が川に張り出しています。花の時期は、この様になります。
桜の先に橋が架かっています。槻田橋で、その道路は都市高速山路出入口から戸畑区鞘ヶ谷に到る道路です。県道51号曽根・鞘ヶ谷線は南の清田2丁目交差点から東進して、先程の槻田小学校前交差点に到ります。
   
槻田橋の先の川の両側には桜の古木が並んでいます。左岸からの眺めです。
槻田橋から、歩いては左岸を上流まで行くことができます。車利用は、槻田橋から先は道幅が狭くなりますので、槻田橋交差点を西に入って行く、川の北側のバス通りを進みます。
バス通りに鳥居が立っています。天疫神社の鳥居です。鳥居の右手は公園になっています。鳥居の先は石段になっています。石段を昇ると社殿があります。平安時代の西暦900年頃の醍醐天皇の御代に疫病が流行ったため、里人が高坏(たかつき)山頂で祈願したところ、疫病がおさまったため、ここに社を建てたと伝えられています。  
   
バス通りに戻り西進すると、右手からの坂道が合流し、道は左手に折れて行きます。槻田中学校の南に当たります。次の三叉路の交差点の中にお堂があります。交差点の中にお堂が取り残された状態ですが、お堂が先にあり、交差点が後にできたのでしょう。
佐家(沙耶)大明神と槻田地蔵が祀られています。佐家(沙耶)大明神は小笠原氏が明石から小倉に転封された時、明石から勧請されたといわれています。一方、この地は沙耶姫屋敷といわれ、沙耶姫は神通力を持っていたといわれています。屋敷は敵が攻めてくるとせり上がり、退くと平地に戻る城でした。姫が風邪で倒れて神通力が働かない時に、敵は切通しを造って攻め入り、城を落としました。人々はこれを憐れみ、お堂を建て姫を祀りました。この近くは小倉藩と福岡藩の国境に近く、境界を巡る紛争があったと思われます。屋敷は警備のための小倉藩のものではなかったのではないでしょうか。この近くには小笠原氏ゆかり(小笠原忠真の弟)の墓もあります。またいつの頃からか、お堂には地蔵像も祀られ、子供の病気の平癒が願われました。
   
お堂のある交差点を左折して、南に向かいます。中畑バス停の先が、信号がない五叉路になっています。そこを左折し、槻田川沿いに出ます。中畑橋の手前を右折して、川沿いに進みます。川の側に中畑公園があります。公園の前の槻田川に鳴水川が合流します。
その先の上流には、金山橋が架かっています。橋を渡って行くと、九州ゴルフクラブ八幡コースがあり、峠を越えた先は小倉南区高野に到ります。鳴水川はその付近から発し、道沿いに流れて来ます。
 
   
五叉路に戻ります。直進は金山橋です。その右側、右斜め前の道に進みます。高槻小学校前交差点に出ます。左手に高槻小学校があります。小学校の横を進むと、高槻小学校バス停があります。そこから左手、槻田川に下りて行く道があります。
そこから下流の眺めで、小学校の裏手に当たります。左が高槻小学校です。
   
高槻小学校バス停から奥に進みます。先方に都市高速の高架道が見えてきます。その下が西鉄バスの猪倉終点です。その手前高架道の真下付近を川沿いに降りて行くと、大平橋が架かっています。大平橋と槻田川の上流の様子です。  
   
西鉄バスの猪倉終点の転換場所の前を先に進みますと、左手に細長い形の猪倉公園があり、その先に猪倉橋が架かっています。猪倉橋の先様子です。橋のすぐ上流で、右手からの猪倉川が合流します。槻田川の上流は左手になります。
   
猪倉橋を渡って進むと、車1台程度が通行できる舗装道路は、先で未舗装に変わります。槻田川は道の下の方を流れて見えませんが、先に行ったここで、すぐ右横に見ることができます。この先しばらく道は続きますが、川を望むことは少なく、行き止まりになります。  


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