北九州点描

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櫓山荘跡
  小倉北区中井浜4番 櫓山荘公園  [2014/05/10]
 

 
江戸時代の18世紀の初め、長崎における対外貿易は輸入超過となり、金銀の流失を防ぐため、幕府は長崎での中国貿易の金額や船数を制限しました。輸入品の利益が大きいため、北九州沖に密貿易船が現れました。北九州沖は、西廻り・内海・長崎航路の交差点であり、大小の島が多く、小倉・福岡藩の境界に当たり、沖合いの島々は密貿易船の隠れ場となりました。漂流する中国密貿易船に日本の密貿易船が近づき、海上で取引が行われました。小倉藩は1715(正徳5)年、葛葉(門司区)海岸に遠見番所を設け、翌年1716(正徳6)年、藍島・馬島(小倉北区)遠見番所を建設し、監視を強めました。福岡藩は1640年頃には岩屋・脇ノ浦(若松区)に遠見番所を置いていました。事態を重視した幕府は、小倉藩、福岡藩に加えて長州藩の三藩に唐船の追い払いを命じました。

1721(享保6)年、藍島遠見番所に、紺地に三階菱の小笠原家紋を染めた大旗を掲げる旗柱が建てられました。筑前と豊前の国境近くの海に突き出た堺鼻に、小倉藩の見張番所がありました。この堺鼻番所で、藍島遠見番所に掲げられた大旗を確認していました。堺鼻番所があった櫓山(やぐらやま)のすぐ西を境川が流れています。この川が豊前と筑前、小倉藩と福岡藩の国境でした。響灘に面した豊前と筑前の国境付近は、古くから中原(なかばる)と呼ばれました。明治に入ると、筑前側は中原村でしたが、豊前側は1897(明治20)年中原村と井堀村が合併して中井村になり、中井の地名がつくられました。

1920(大正9)年、大阪の実業家橋本豊次郎が、櫓山に洋風3階建ての自宅「櫓山荘(ろざんそう)」を建てました。橋本豊次郎は、大阪の請負業橋本組の息子で、十九歳で渡米して、土木建築を学んで帰国しました。豊次郎が29歳の時、18歳の多佳子と結婚しました。橋本組は、九州に進出するため豊次郎を小倉に駐在させました。

1922(大正11)年3月、櫓山荘で開かれた高浜虚子歓迎句会で、豊次郎の妻多佳子は、虚子の句「落椿投げて暖炉の火の上に」に感銘を受け、俳句に惹かれます。句会で出会った虚子門下の女流俳人、杉田久女の指導を受けることになります。ここが橋本多佳子の俳人としての出発の地になりました。

多佳子に句作を指導した杉田久女(1890-1946)は、1909(明治42)年、杉田宇内(うない)と結婚し、小倉中学(現小倉高校)の美術教師に就いた夫とともに、当時の小倉市にやって来ました。俳人の兄の手ほどきで、高浜虚子が主宰する「ホトトギス」に投句しました。そこで女流俳人として注目を浴びました。1932(昭和7)年女性だけの「花衣」を創刊、主宰しましたが、5号で廃刊となりました。1934(昭和9)年ホトトギス同人となりますが、1936(昭和11)年虚子から同人を除名されました。1946(昭和21)年大宰府で病死しました。松本清張は短編「菊枕」で、久女を批判的に描いています。田辺聖子は「花衣ぬぐやまつわる・・・・・ わが愛の杉田久女」で、杉田久女の一生を好意的に描いています。

櫓山荘には、作家の里見ク、久米正雄、宇野浩二、作曲家の中山晋平、童話作家の久留島武彦など多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました。橋本豊次郎は阿南哲朗らと共に児童文化の振興に努め、櫓山荘で林間学校を開いています。阿南哲郎は永年到津遊園の園長を務め、童謡作家、詩人として北九州の文化発展に貢献しました。

1929(昭和4)年、豊次郎の父の死去に伴い、橋本家は大阪の帝塚山に転居します。久女に句作の指導受けた橋本多佳子(1899-1963)は、大阪に戻った後は、山口誓子に師事します。誓子とともに「ホトトギス」を離れ、水原秋桜子の「馬酔木(あしび)」の同人になります。1937(昭和12)年、豊次郎は急逝します。その後1939(昭和14)年まで、櫓山荘は別荘として使用されます。

夫が急逝し、戦争が激しくなると、橋本多佳子は奈良に疎開しました。戦後、西東三鬼・平畑静塔らと奈良の日吉館で、必死の句作に励みました。この後「馬酔木」を辞して、誓子の主宰する「天狼」の創刊に尽力します。1950(昭和25)年から「七曜」を主宰します。1963(昭和38)年、病死しました。松本清張は橋本多佳子を短編「花衣」で描いています。「花衣」は、後「月光」と改題されています。

櫓山の北側は海岸でした。大正時代まで、東の日明から中原、そして現在は新日鐵住友八幡製鐵所構内になっている名護屋岬(戸畑区)まで、白砂青松の海岸でした。境川河口の左岸側の埋立は、1921(大正10)年に着工し、1959(昭和34)年に竣工しました。そこから北東の沖合に伸びて行く部分は、1954(昭和29)年に着工し、1973(昭和48)年に竣工します。櫓山がある右岸の方は、日明地区の埋立として1963(昭和38)年着工し、1967(昭和42)年竣工しました。

櫓山荘は橋本家の手を離れ、建物も山上につくられた庭園も今はありません。建物跡や庭園跡が整備され、中井北公園と番所跡緑地保全地区として開放されていましたが、2006(平成18)年、櫓山荘公園として施設整備され、駐車場やトイレなどが設けられています。  
小倉北区と戸畑区境を流れる境川河口、国道199号線の境川橋からの眺めです。高架の都市高速の下を国道が通ります。その道路脇の小山、櫓山に櫓山荘がありました。
   
境川が小倉北区と戸畑区の境を流れています。江戸時代は、筑前と豊前の国境でした。境川橋の東側たもとから南に入って行くと、右手の川の側に国境石が立っています。福岡藩によって建てられたものですが、もとの国境石は、八幡東区東田のいのちのたび博物館に保管・展示されています。石碑には、「従是西筑前國」と書かれています。
国境については、「北九州点描」の「中原」をご覧下さい。
 
   
境川橋から国道199号線を東に行くと、櫓山の北側に駐車場があり、櫓山荘公園の北側の入口があります。入口の階段の右手にはトイレがあります。櫓山荘が建てられた頃、この辺りは海岸で、海水浴も行われていたようです。
   
公園入口の階段を昇ると、左手に遊具があります。当時テニスコートがつくられた広場と思われます。右手にゆるやかなスロープがあり、そこを昇って行くと、櫓山荘の建物がありました。  
   
櫓山荘は、強い北西の季節風を小山が防いでくれるように建っていました。入って来たのが東からで、背後の小山が西側で、右が北、左が南になります。建物から小山の頂上にかけて、回遊式庭園や広場がつくられました。昇る通路は3つあります。左手の石段と、他の2つは南端のものと、北側の櫓山荘跡の石碑の背後になります。
櫓山荘跡に立てられている、北九州市教育委員会の説明板です。ここに載せられている櫓山荘は、北側からの写真です。
櫓山荘は、橋本豊次郎自ら設計した建物で、木造3階建て、建築面積138u、延べ床面積335uで、2階北側には寝室や子供部屋、南側には和室がありました。3階は小屋裏使用になっていました。
北側に2003(平成15)年に建てられた、櫓山荘跡の石碑があります。右に杉田久女、左に橋本多佳子の句が刻まれています。両方とも短冊に書かれた自筆の筆跡です。
谺(こだま)して山時鳥(ほととぎす)ほしいまま 久女
乳母車夏の怒涛によこむきに 多佳子
   
建物のある敷地の南側です。  
   
南側の先に、この石段があります。
   
石段を昇った所です。この付近は当時の階段や遺構がよく残されています。  
   
石段や通路を過ぎると、広場に出ます。ここで林間学校や催しが行われていたようです。
広場を南から北に進んで行くと、中央付近の右手に、先ほどの建物の横の石段への通路があります。櫓山荘の建物の横に石段が上に伸びています。下の部分は失くなっていましたが、復元補修されています。途中のこの部分は、当時のままです。
   
建物の横の石段の途中から右手に行くと、建物の背後の位置に出ます。建物跡は赤レンガが敷かれています。間取りは文字で表されています。文字を追ってみます。向こうが玄関側になります。中央に玄関、その手前は前室、更にその手前はホール、ホールを左に行って、向こうが応接室、そこの右隅に暖炉があります。応接室の手前が食堂、その右が配膳室です。ホールに戻って、その右に台所があります。ホールの手前は2階への階段です。
応接室の暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を、多佳子は暖炉に投げ入れます。ここで高浜虚子は、「落椿投げて暖炉の火の上に」と詠みます。これで多佳子が俳句に惹かれることになったといわれています。
広場の北側で、昇ると小山の山頂です。江戸時代には、ここに見張番所がありました。すぐ前は海で、見晴台になっていたと思われます。豊前から筑前にかけて二国にまたがる中原(なかばる)は、白砂青松の海岸でした。現在は、高架の都市高速があり、その先は埋立てられて工場と港湾施設になっています。
江戸時代、密貿易船を監視していた藍島の遠見番所には、ここの見張番所にいち早く大旗で知らせた、旗柱台が残されています。詳しくは、「北九州点描」の「藍島」をご覧下さい。
 
   
山頂から木立の中を通って下り道があります。小山の中腹を細い道が巡っています。あちこちに当時の庭園の遺構が残されています。
   
下りて行き、もう一段下りると、櫓山荘跡の石碑の裏手に出ます。  


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