北九州点描

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藍島
  小倉北区  [2013/11/23]
 

 
藍島(あいのしま)は小倉北区の北西の響灘に位置し、一番近くは若松区の北端から約5kmの北側にあります。面積は0.68kuで、2km足らずですが北西から南東に細長く、標高が25mの平たい台地状の島です。同じ「あいのしま」の呼び方では福岡県内に二つあり、もう一つは糟屋郡新宮町の相島です。藍島の北の小島、貝島には古墳群があり、古代より藍島に人が住んだ痕跡があります。「日本書紀仲哀天皇紀」にある阿閉(あへ)島は藍島と思われます。「日本書紀神功皇后紀」に吾瓮海人烏摩呂(あへのあまをまろ)が登場しますが、貝島の古墳は彼につながる海人(あま)族の墳墓と思われます。貝原益軒は「筑前国続風土記」で、吾瓮海人烏摩呂は相島に住んでいたと記しています。

江戸時代に入って、1618(元和4)年長門より移住した人が漁業を始めます。耕地はありましたが天水に頼り、年貢は免除され、干鮑(ほしあわび)を上納しました。寛永年間(1624-44)には小倉藩による牛の放牧も行われました。元禄年間(1688-1702)には福岡藩との国境争論がありましたが、豊前国内となり小倉藩領と確定しました。万延年間(1860-61)には竈(かまど)数14で、71人が住んでいました。

長崎における対外貿易は輸入超過となり、金銀の流失を防ぐため、幕府は長崎での中国貿易の金額や船数を制限しました。輸入品の利益が大きいため、密貿易船が現れました。北九州の沖合いは西廻り・内海・長崎航路の交差点であり、大小の島が多く、小倉・福岡藩の境界に当たり、沖合いの島々は密貿易船の隠れ場となりました。漂流する中国密貿易船に日本の密貿易船が近づき、海上で取引が行われました。小倉藩は1715(正徳5)年、葛葉(門司区)海岸に遠見番所を設け、翌年1716(正徳6)年、藍島・馬島(小倉北区)遠見番所を建設し、監視を強めました。福岡藩は1640年頃には岩屋・脇ノ浦(若松区)に遠見番所を置いていました。1721(享保6)年、藍島に、紺地に三階菱の小笠原家紋を染めた大旗を掲げる旗柱が建てられました。これは長州・小倉・福岡三藩に密貿易船を知らせるものでした。

藍島の西方約2.6kmに白洲と干潟があり、暗礁が点々としています。潮流が早く、この付近を航行する船が多いため、多くの船がここで難破しました。かって、藍島漁民には、密貿易船の監視通報の上に、難破船の救助、積荷の保管や跡始末などの役目が課せられていました。企救郡長浜浦庄屋だった岩松助左衛門は、難破船支配方に就き、1862(文久2)年、白洲に灯台を建てることを小倉藩に願い出ました。藩の許可が下り、灯台建設の活動を始めます。活動費用は多額に上り、助左衛門は家財を売り払ってこれに充てますが、多額の借金が残りました。時代は幕末の混乱期となり、計画は頓挫します。1870(明治3)年工事は着工されますが、1873(明治6)年、事業は明治政府に移されて完成しました。

1887(明治20)年以前は、漁業もしましたが、島では農業が主でした。1889(明治22)年企救郡板櫃村に属しました。1922(大正11)には板櫃町となり、1925(大正14)年小倉市に編入されました。
藍島への渡船の必要性はなかなか同意されず、1913(大正2)年に個人の手で運航が始められました。その後1923(大正12)年小倉市は旅客船を新造しますが、運航は個人に任せました。運営はうまくいかず、次々と運航者は変わっていきました。船も老朽化し、船も次々と変わっていきました。戦後の1946(昭和21)年からは小倉市営渡船となり、1952(昭和27)年には初代小倉丸が就航しました。
藍島の漁業は次第に盛んになり、アワビ漁からウニ漁になり、昭和40年代からはノリの養殖が盛んになり、近年は漁船漁業が主になっています。現在は藍島には約300人が住んでいます。
藍島へは、JR小倉駅の北東の砂津泊地の小倉渡船発着所から、市営渡船こくら丸で渡ります。35分の船旅になります。途中、馬島に立ち寄ります。
渡船発着所から防波堤を出ると、新日鐵住金小倉製鐵所の真横を通ります。2012(平成24)年10月新日鐵と住友金属は合併し、新日鐵住金になりました。2014(平成26)年4月には八幡製鐵所と小倉製鐵所は統合され八幡製鐵所になります。左の205mの煙突は2013年11月23日に開かれる「全国工場夜景サミットin北九州」に合わせてライトアップを始めます。煙突の愛称を「北九州アイアンツリー」に決めたと北九州市は発表しました。
馬島については、「北九州点描」の「馬島」をご覧ください。
東口の部埼(へさき)沖から西口の六連島(むつれじま)沖まで関門海峡は長さ28kmといわれています。細長いSの字に関門海峡を模すと、小倉渡船発着所は彦島の南でSの一番下に位置し、Sの字の最後の左の位置の六連島のすぐ西隣の馬島に向かいます。
小倉渡船発着所から馬島までは、こくら丸の左舷から関門海峡から響灘に面した北九州沿岸の工場群を眺めることができます。これは小倉北区の日明臨海工業団地です。
次は戸畑区の八幡製鐵所の戸畑地区です。八幡地区は次の洞海湾の入口から湾内に入り、若戸大橋を過ぎた先にあります。沿岸の工場群はすべて埋立地に立地しています。
中央付近が戸畑区と若松区の間にある洞海湾の入口です。入口を入ってずっと先に若戸大橋は架かっています。江戸時代は若戸大橋付近が洞海湾の入口でした。明治以来埋立が続けられ、同時に洞海湾の入口は沖合のここまで伸ばされました。
馬島を出ると、右手に藍島が見えてきます。藍島は高い山のない、平たい台地状の島です。
藍島の渡船発着所は、島の西海岸の南側にあります。ここは本村(ほんむら)の漁港でもあります。藍島にはこの他に大泊(おおとまり)、寄瀬浦(よせのうら)漁港があります。島内の道路は舗装されていますが、車1台が通行できる程度です。港から家並の間の道を、左側に見えるアンテナの鉄塔を目標に進みます。
   
アンテナの鉄塔の右下に藍島隧道があります。1963(昭和38)年、トンネルは本村と大泊の間に開通しました。  
   
藍島隧道の先に小倉中央市民センター藍島市民サブセンターがあり、そこを左に行くと、すぐに藍島小学校があります。藍島小学校は、1898(明治31)年板櫃尋常小学校藍島分教場として開校しました。なお中学生になると、小倉南区富士見にひびき寮があり、そこから隣接の城南中学校に通います。
   
小倉中央市民センター藍島市民サブセンター裏手がこの大泊漁港です。  
   
藍島隧道に戻り、トンネルを過ぎ、本村漁港方向に行くと、すぐにカーブミラーがありますので、そこを右折します。坂道を上り、アンテナの鉄塔の側を通り過ぎると、その先にNTTの鉄塔があります。この辺りが島の一番高い所です。その手前の左手の沖合に白洲灯台が見えます。
岩松助左衛門は資金に大変な苦労をして、1870(明治3)年白洲灯台建設の工事は着工されますが、1873(明治6)年事業は明治政府に移されて完成しました。この前年、岩松助左衛門は灯台の点灯を見ずに他界しました。明治政府は、長年の助左衛門の努力に報いるため、白洲灯台施設を買い上げました。白洲灯台は1900(明治33)年に改築され、更に1992(平成4)年に改築されました。
助左衛門が建築していた灯台を模した建物が、岩松助左衛門を顕彰して、小倉城内に建てられています。「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。
   
NTTの鉄塔の側を過ぎると、先方右手に水道タンクが見えます。水道タンクの手前、左手に入る人ひとりが通れる程度の小径があります。そこを入って行くと広場があり、2本の花崗岩の石柱が立っています。福岡県指定史跡の藍島遠見番所旗柱台(あいのしまとおみばんしょはたばしらだい)です。
1716(正徳6)年小倉藩は藍島に遠見番所を建設し、1717(享保2)年、幕府は小倉・福岡・長州三藩に共同で警備に当たるように命じました。これにより共同で軍船を出し、度々密貿易船を追い払いました。密貿易船は減ることはなく、増える一方でした。1721(享保6)年、藍島に、紺地に三階菱の小笠原家紋を染めた大旗を掲げる旗柱が建てられました。これは長州・小倉・福岡三藩に密貿易船を知らせるものでした。1723(享保8)年まで密貿易船の追い払いは続きました。
筑前と豊前の国境近くの海に突き出た堺鼻に、小倉藩の見張番所がありました。藍島で密航船を見つけると、旗柱台に大旗を掲げて堺鼻番所に知らせました。堺鼻番所は現在櫓山荘公園になっています。
櫓山荘公園については、「北九州点描」の「櫓山荘跡」をご覧ください。
 
   
元の道に戻り、若松から給水されている水道タンクの側を通り過ぎ、北に進みます。途中、道が右の上りと左の下りの二つの道に分かれます。左を下って行くと、すぐにこの寄瀬浦漁港に行き着きます。
   
元の道に戻り、右の上って行く道を先に進みます。道は突き当たって左右に分かれます。右に行くと、すぐに海岸に出ます。島の北の海岸は、干潮の時に千畳敷と呼ばれるように、海岸段丘が波によって浸食されてつくられた景観が見られます。満潮でしたので千畳敷の景観を見ることはできませんでした。
海岸に出た所からの景観です。藍島のすぐ先の左手に、緑に覆われた貝島が見えます。右手のすぐ先の岩礁に、大藻路岩(おおもじいわ)灯台が立っています。その左手のずっと先に下関市の蓋井島(ふたおいじま)が見えます。
この小さな貝島に、6世紀に築造された古墳が13基あります。小型の横穴式石室の古墳群です。出土品には、他の古墳と違って、モリや釣り針などの鉄製の漁労具が含まれています。埋葬されたのは海人(あま)族と思われます。
   
大藻路岩(おおもじいわ)灯台です。1895(明治28)年に点灯された石造りの灯台です。危険な岩礁を示すものでしたので、これまで灯標と記されていましたが、2013(平成25)年10月第7管区海上保安本部は灯台と改称しました。  
   
砂浜を通って右手に進み、崖の先に出ますと、視界がずっと開け180度以上のパノラマになります。東側のすぐ先に姫島が見えます。その先の山は、本州側の下関市です。
   
西側には貝島のずっと先に、若松沖の白島が見えます。右が手前の男島(おしま)で、左が先の女島(めしま)です。男島の右手に建造物が見えます。エネルギーの安全保障に対応するため、白島国家石油備蓄基地が、1996(平成8)年、10年以上を要して完成しました。防波堤に囲まれた泊地内の大型浮体式貯蔵船により、石油は備蓄されています。  
   
本村の渡船発着所まで戻り、藍島の南側の瀬崎に向かいます。本村の港を囲むように右からは長い、左からは短い突堤が伸びています。その左側の突堤に向かいます。突堤上からは門司・小倉北区・戸畑区・若松区の関門海峡、響灘沿岸を眺めることができます。


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