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森鷗外旧居
  小倉北区鍛冶町1-7-2  [2014/01/04]
 

 森鷗外(1862~1922、本名は森林太郎)は、1899(明治32年)第12師団軍医部長として小倉に赴任します。石見国津和野藩の典医の家に生まれた鷗外は、東京大学医学部を卒業して、ドイツに留学しました。帰国後は、「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を発表し、アンデルセンの「即興詩人」の翻訳を始めていました。小倉赴任の前には、近衛師団軍医部長及び軍医学校長に就いていました。

鷗外は、1899(明治32年)6月小倉の第12師団軍医部長として赴任し、1902(明治35)年3月小倉を離れ、東京の第1師団軍医部長に就きました。鷗外は、37~40歳の2年9月間、小倉に居住しました。小倉時代は、鷗外にとっては、やがてやってくる文学的豊熟期を前にした、沈潜の時代といわれています。「即興詩人」の翻訳を終え、地元で講演や寄稿を行ない、歴史や風土の研究、読書に励みました。

1889(明治22)年鷗外は、27歳で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚します。翌年長男が誕生しますが、間もなく離婚します。長男は5歳からは鷗外の母の手によって養育され、後医学者になります。小倉には、鷗外は単身赴任しました。1899(明治32年)6月から翌年12月まで、鷗外は鍛治町に居住します。この住居が北九州市指定文化財の森鷗外旧居として保存されています。

現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年黒崎・門司間が開通しました。黒崎・小倉間は現在の海岸沿いでなく、内陸部を通る大蔵を経由するルートでした。1902(明治35)年海岸沿いの戸畑を経由するルートが開業しました。1895(明治28)年九州鉄道が小倉・行事間を開業します。豊州鉄道の行橋駅まで延伸され、1897(明治30)年、豊州鉄道が行橋・長洲間を開業します。これが現在の日豊本線です。開業時の小倉駅は現在の西小倉駅の位置にありました。九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。1958(昭和33)年、小倉駅は現在の位置に新築移転します。
 
旧居の図面には、現存しませんが馬小屋と別当部屋が、別棟で載っています。鷗外は乗馬して師団司令部に登庁しました。当時現在の北九州市役所横まで、紫川に架かる橋は、鉄道橋を除いては常盤橋のみでした。すぐ上流の勝山橋が架かったのは1910(明治43)年で、翌年九州電気軌道(九軌)によって門司東本町・黒崎駅前間の電車が開業し、勝山橋を通ることになります。鷗外は常盤橋を渡って小倉城内に入り、本丸跡の第12師団司令部に登庁しました。

小倉城は、1602(慶長7)年細川忠興によって築城されます。1632(寛永6)年、細川氏は肥後に転封され、小笠原忠真(ただざね)が小倉に入部しました。1837(天保8)年失火により天守閣をはじめ本丸の建物はすべて焼失しました。直ちに再建されましたが、藩の財政は窮乏しており、天守閣が再建されることはありませんでした。1866(慶応2)年、第二次長州征討戦が始まり、長州藩を囲む四方向の戦闘のうち三方向の戦いでは、短期間に幕府軍に長州藩が勝利しました。しかし、小倉口の戦いは、6月17日未明に始まり、8月1日小倉藩が小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退しました。

この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。小倉を含む企救郡は長州藩によって管轄されました。1871(明治4)年廃藩置県を前に、西海道鎮台の本営が小倉に置かれました。後、熊本に移転します。1875(明治8)年熊本の歩兵第26大隊が小倉に駐屯し、それが歩兵第14連隊として小倉城二ノ丸・三の丸で発足しました。乃木希典は、1877(明治10)年の西南戦争に歩兵第14連隊長として出撃し、連隊旗を奪われます。このことが明治天皇崩御の際の殉死理由といわれています。1885(明治18)年歩兵第12旅団本部が松ノ丸に設置されます。1888(明治21)年、歩兵第12旅団司令部と改称されます。

1898(明治31)年本丸に第12師団司令部が開庁します。その編成は、歩兵第14連隊と歩兵第47連隊の歩兵第12旅団、久留米駐屯の2個連隊の歩兵第24旅団、小倉駐屯の騎兵・砲兵・工兵・輜重兵(しちょうへい)大隊、下関要塞砲兵連隊からなっていました。第一次大戦後の不況で財政は窮乏し、軍備縮小が行われました。1925(大正14)年第12師団司令部は久留米に移転し、歩兵第12旅団司令部は福岡に移転し、1928(昭和3)年城内の歩兵第14連隊は北方の歩兵第47連隊跡に移転します。歩兵第47連隊は大分に移駐していました。歩兵第14連隊跡地とその南側の西端部を除いたかっての西曲輪の民有地を買収し、兵器生産工場の小倉工廠(こうしょう)の建設を始め、1930(昭和5)年に竣工しました。後小倉陸軍造兵廠と改称されます。

鷗外が小倉で知り合った知己は、フランス語を習った、馬借町のカトリック教会のフランス人宣教師ベルトラン、鷗外に師事した同郷の福間博、安国寺住職玉水俊こ(たまみずしゅんこ、こは交に虎の字です)、発明家矢頭良一(やずりょういち)らがいます。東京に戻った後に、小倉が舞台の小倉3部作「鶏」、「独身」、「二人の友」が発表されています。この期間記した「小倉日記」、小倉にいた時に福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に寄稿した「我をして九州の富人たらしめば」、「鷗外漁史とは誰ぞ」があります。

1900(明治33)年1月離婚した赤松登志子が死去します。その年の12月京町に転居します。師団将校にクラウゼヴィッツの「戦争論」を講義し、1901(明治34)年刊行しました。この年には行橋、金田、飯塚、後藤寺、香春をまわり、11月18日の製鐵所の作業開始式に参列します。1902(明治35)年1月大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚し、その年3月第1師団軍医部長として東京に赴任します。志げとの間に二男二女をもうけます。

小倉3部作の第3作「二人の友」(大正4年、1915)の中で、鷗外が小倉に来た年、鷗外と同じ石見国出身のF君(福間博のこと)が、鷗外からドイツ語を学びたいと訪ねて来ます。「二人の友」の後半では、京町の住いを度々訪ねてくる安国寺さん(玉水のこと)が描かれています。安国寺さんからは、鴎外は唯識論の講義を受け、安国寺さんは、鴎外からドイツ語の哲学の講義を受けました。「二人の友」によりますと、鷗外が東京に転任すると、安国寺さんは人に寺を譲り、東京に出て来ます。F君も東京に出て来ます。二人の友は、鴎外の近くに下宿します。

安国寺さんは、後小倉に戻って、辻三(つじみつ)で護聖寺(ごしょうじ)の住職になっています。「小倉日記」は一時行方不明で、これを題材にしたのが、松本清張の1953(昭和28)年芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」です。鷗外の小倉時代を顕彰した田上耕作をモデルにしています。田上は鴎外の小倉時代の資料を集めて日記に代えようとしました。鷗外と親交のあった玉水和尚の遺族が辻三にいるというので、田上は訪ねます。田上は身体に障害があり、言語も不明瞭でした。このため、用件を聞いてもらえません。翌日、母親は小倉から人力車2台を仕立てて、辻三に二人はやって来ます。その甲斐があって、耕作は未亡人から話を聞くことができました。1952(昭和27)年「小倉日記」は公開され、現在は読むことができます。

矢頭良一(1878~1908)は豊前市出身の発明家です。鴎外は、矢頭の理解者であり、後援者でした。矢頭は飛行機の研究を行っていました。(1903年12月17日ライト兄弟による人類初飛行成功)そのかたわら、1902(明治35)年、矢頭は日本で初めて機械式卓上計算機「自働算盤(じどうそろばん)」を発明しました。この「自働算盤」を親族から寄託されて、北九州市立文学館が所蔵しています。2008年、日本機械学会は機械式卓上計算機「自働算盤」を機械遺産と認定しました。飛行機研究の途上の1908(明治41)年、矢頭は病死しました。

1904(明治37)年日露戦争では第2軍軍医部長として出征します。1907(明治40)年軍医総監(中将)に昇進し、陸軍省医務局長に就任します。その後、半自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」、小倉3部作、「雁」を発表します。明治天皇崩御での乃木大将夫妻の殉死に衝撃を受けて書いた「興津弥五右衛門の遺書」を初めとして、「阿部一族」「山椒太夫」「高瀬舟」「寒山拾得」などの歴史小説を発表します。1922(大正11)年「石見人森林太郎」(墓碑銘)として死去します。 
国土地理院発行の5万分の一の地形図(小倉)の一部を使用しました。上の現在の地図と概ね同じ範囲で、明治33(1900)年側図です。小倉城内の丸に星印は司令部で、その下の旗印は兵営ですので、歩兵第14連隊です。小倉市の倉の右横の◎は小倉市役所で、大阪町にありました。1900(明治33)年小倉市制が施行されます。大阪町は後に電車通りの両側ですので、その上の通りを電車が通るようになりました。左側に九州鉄道会社鉄工場がありますが、現在のJR九州小倉工場です。その下で線路は二手に分かれます。右は現在の日豊本線、左は鹿児島本線です。鹿児島本線の方は、現在の海岸ルートでなく、大蔵駅を経由して黒崎に到る内陸ルートでした。左上の八坂社は現在の八坂神社で、1934(昭和9)年鋳物師町から城内の北ノ丸に移されました。
   
JR小倉駅を南に行くと、旧電車通り、現在の国道199号線との駅前交差点に出ます。そこを左折して国道を東に進みます。浅香通りとの鍛治町2丁目交差点を右折して、浅香通りを1本南に下った角を右折して西に進みます。四つ角を一つ過ぎた左手、通りに面して南側に鍛治町の森鷗外旧居があります。家主の宇佐美房輝は武家屋敷地区の2宅地を購入して、1896(明治29)年にこの建物を建築しました。1974(昭和49)年北九州市は文化財に指定し、修復して1982(昭和57)年公開しました。
玄関を入ると5畳で、中の6畳、床の間がある8畳の座敷と続きます。座敷の床の間に架けられている「天馬行空」は、豊前市出身の発明家矢頭良一の死を悼んで遺族に贈った鷗外の書の複製です。署名の源高湛(みなもとのたかやす)は鷗外のことです。  
   
座敷の前には、前庭があります。表に近い百日紅(さるすべり)や夾竹桃(きょうちくとう)は、当時からあったようです。
小倉3部作といわれるうちの第1作の「鶏」(明治42年、1909)で、赴任してきた夏の出来事、この住いのこと、使用人のこと、小倉の町のことが描かれています。
   
床の間がある座敷の左横は4.5畳で、この小座敷と床の間のある座敷とを鴎外自身が使っていたようです。小座敷の手前が6.5畳、一番手前が6畳です。土間の反対側に流し、風呂、便所があります。今はありませんが、裏手に馬小屋があり、鷗外は馬で師団司令部に通っていました。  
   
森鷗外旧居の前の通りを鷗外通りと呼びます。この通りは、旧電車通りに平行して、一つ南を東西に伸びています。鍛治町旧居の前を西に進みます。鍛治町は、夜ともなればネオンが誘う飲食街です。小倉駅前の平和通りに出て来ました。道路の上をモノレールが通り、モノレールの平和通り駅の北端の下に出ます。平和通りを渡ると、このアーケードの魚町二番街に入ります。途中南北のアーケード街魚町銀天街と交差します。魚町二番街を抜けると、みかげ通りに出ます。その先のデパートの小倉井筒屋の本館と新館の間を通り過ぎると、紫川に鷗外橋が架かっています。
   
鷗外橋は歩行者専用の橋です。左は北九州市庁舎です。右の松の木の陰になっているのは小倉城天守閣です。鷗外が通った師団司令部はあの横にありました。天守閣は江戸時代火事で焼失していますので、鷗外が居住していた当時はありません。勿論、この橋もありませんでした。鴎外は下流の常盤橋を渡って通っていました。
冬の夜は、鷗外橋はイルミネーションで飾られます。小倉イルミネーションは小倉駅周辺と紫川周辺で、11月中旬から1月中旬まで行われます。紫川周辺は鷗外橋を中心に紫川両岸がイルミネーションで飾られます。これは、鷗外橋を渡った西岸からの鷗外橋のイルミネーションです。
鷗外橋を渡ると、左手すぐに、鷗外の文学碑があります。形は六角柱で、当時常盤橋脇にあった広告柱を模したものです。
六面に文章が記されています。小倉が舞台の小倉3部作「鶏」、「独身」、「二人の友」、この期間記した「小倉日記」、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に寄稿した「我をして九州の富人たらしめば」の中の一文、それにこの碑設立の趣意文が記されています。
 
   
鷗外橋の北に複合商業施設リバーウォーク北九州があります。その南側を西に入って行くと、小倉城の濠があります。途中から濠を渡って南に行くと、濠の石垣の上に天守閣があります。1959(昭和34)年に小倉城は再建されました。現在の天守閣とかっての天守閣は少し違います。
詳しくは「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。
   
天守閣が建つ濠端を南に進み、広場の途中から右手に入り、大手門跡を通って本丸に行きます。大手門跡の先に天守閣が見えますが、その手前を左に入ると槻(けやき)門跡になり、その先を進むと鉄(くろがね)門跡になります。その石段を昇った所に赤レンガの門があります。これが第12師団司令部の正門でした。門を入った本丸に師団司令部はあり、松の木の下に第12師団司令部跡の石碑が立っています。天守閣は本丸の北東角にあります。
リバーウォークの前の川沿いを下りますと、勝山橋の西詰めに出ます。1911(明治44)年、九州電気軌道(九軌)によって門司東本町・黒崎駅前間の電車は開業しました。その開業時から後継の西日本鉄道(西鉄)の電車、北九州線は勝山橋を通っていました。1992(平成4)年、砂津・黒崎駅前間の電車は廃止になりました。
紫川の下流については、「北九州のみどころ」の「紫川」をご覧ください。
 
   
勝山橋のすぐ下流に常盤橋はあります。江戸時代、常盤橋は長崎街道の起点でした。勝山橋が架かるまで、常盤橋は小倉市街地の唯一重要な橋でした。江戸時代は木の橋で、洪水で何度も流されたといわれています。1889(明治22)年鉄橋に架け替えられたといわれていますので、鷗外はその橋を渡ったと思われます。橋の中央にはガス灯が灯っていたといわれています。現在の橋は歩行者専用で、江戸時代の橋を思わせる木の橋で、1995(平成7)年に完成しました。その前の橋は1969(昭和44)年に改修された橋で、車も通っていました。
常盤橋を渡った東詰に、広告柱が立っています。これは当時の1/3の大きさで、新たに建てられました。
京町に転居した後を題材にした、小倉3部作の第2作の「独身」(明治43年、1910)の冒頭で、この広告柱と、ちょっとした手紙や荷物を運ぶ伝便(でんびん、清張の「或る『小倉日記』伝」では、キーワードになります)が出てきます。この作品では、主人公宅で、友人達が酒を飲みながら、主人公の独身生活を話題にします。
   
小倉駅前の南西の角にある、屋外のエスカレーターの下に、森鷗外京町住居跡の石碑が立っています。当時は、ここには小倉駅はありませんでした。1900(明治33)年12月漱石は鍛冶町からここに転居します。1958(昭和33)年に小倉駅はここに移転します。  
   
西小倉駅前を西に行きます。その先で大門1丁目交差点に出ます。そこから大通りを南下して、最初の角を右折すると、安国寺の前に出ます。鷗外が知己を得た玉水俊こ(こは交に虎の字です)は安国寺住職でした。
   
香春口は馬借の南です。香春口には、現在は香春口北交差点があり、その南に歩道橋のある香春口南交差点があります。香春口南交差点の西側に小倉カトリック教会があります。ここの宣教師のベルトランの許に、フランス語を習いに鷗外は通いました。この教会の表には細川忠興の家臣で、殉教した加賀山隼人の碑があります。  

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