北九州点描

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菜園場
  小倉北区菜園場・愛宕  [2014/10/11]
 

   
小倉は本州と九州を隔てる関門海峡に面し、紫川の河口部にある海上交通の要衝であり、筑前と豊後への陸上交通の接点でもありました。細川忠興(ただおき)によって小倉城が築かれる以前にも小倉には城がありましたが、現在の小倉の市街地のもとになる築城と城下町の形成は、細川忠興によって行われました。1600(慶長5)年関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡を細川忠興は与えられました。当初、同じく関が原の戦いの功で筑前国に移封された、黒田如水・長政親子が居城していた中津城に入りました。

1602(慶長7)年細川忠興は築城していた小倉城に移りました。小倉城は紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。板櫃川の河道は現在と異なり、到津からJR日豊本線沿いに流れ、竪町付近から西流し、平松町の南で現在の河道になりました。足立山を発し、船場町で紫川に合流する寒竹川(のち神岳川、現在は神嶽川と記されることが多い)も利用しました。寒竹川とその水を利用した外濠(砂津川)と紫川に囲まれた内側を新しく開いて東曲輪(ひがしくるわ)としました。従来からの紫川西岸を西曲輪としました。

板櫃川の西側で、小倉城下の西曲輪に近接する所に、藩主細川忠興の野菜園があった所から、菜園場(さえんば)の地名が付いたと伝えられています。この地に不動山がありましたが、忠興が小倉城築城した際、ここに愛宕神社を勧請しました。それ以来、愛宕山と呼ばれます。忠興は朝鮮陶工尊楷(そんかい)を招き、田川郡上野(あがの)に登り窯を築き、陶器を焼かせました。これが上野焼(あがのやき)で、尊楷は上野喜蔵と名乗ります。1620(元和6)年細川忠利は忠興から家督を譲られ二代目藩主になります。道路の改良工事の際、愛宕山の東麓で、登り窯の遺構が発見されました。忠利も焼き物に造詣が深く、ここに登り窯を築き、陶器を焼かせました。菜園場窯跡と呼ばれ、福岡県の有形文化財に指定されています。

1632(寛永9)年肥後熊本藩藩主加藤忠広(清正の息子)が改易されたため、細川忠利が移封されました。忠利が肥後熊本藩藩主として熊本城に入り、父忠興は八代城に入りました。上野喜蔵は長次男と共に忠興に従い、八代で高田焼(こうだやき、別名八代焼)を創始します。上野焼は三男と娘婿に継がせました。忠広の後に小倉に入ったのは小笠原忠真(ただざね)です。1667(寛文7)年小笠原忠真が死去すると、息子の忠雄(ただたか)が二代目藩主に就きました。1679(延宝7)年菜園場窯の跡に、忠雄は天台宗妙行寺を城下の鍛冶町から移させました。1838(天保9)年寺は大火にあい焼失しますが、再建されました。しかし、明治になると廃絶されました。

江戸時代から1887(明治20)年まで菜園場村でした。1887(明治20)年到津・日明・田町・菜園場・西原町・金田の6村が合併して板櫃村になりました。1889(明治22)年板櫃村は槻田・中井・馬島・藍島村と合併して板櫃村となり、小熊野・篠崎を合併した後、1922(大正11)年板櫃町となり、1925(大正14)年小倉市に編入されました。板櫃川は菜園場の東を流れて、小倉城の西側の天然の濠の役割を果たし、紫川から板櫃川の間が西曲輪でした。近代になると、板櫃川沿岸に鉄道工場や住居が建ち、河川改修が計画され、1932(昭和7)年の福岡県会において板櫃川改修費が計上され、1934(昭和9)年に竣工しました。現在は、板櫃川は愛宕山の西を流れています。

国道3号線は北九州を通る基幹道路でしたが、路面電車が通り、交通量は飽和状態でした。1958(昭和33)年関門国道トンネルが開通し、交通需要は一層高まりました。日本道路公団により有料道路の北九州道路が計画され、建設されました。1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が誕生しました。北九州市の幹線道路網は北九州道路の建設により、東西の骨格がはっきりしました。1971(昭和46)年福岡北九州高速道路公社が設立され、北九州高速道路、いわゆる都市高速は都心と市街地周辺との連絡、旧五市間の連絡を基本方針に3路線が計画されました。それぞれ1~3号線と呼ばれ、後、北九州道路も公社の管轄に入って4号線になり、それぞれは更に延伸され、現在は5号線も増設されています。

1980(昭和55)年、北九州高速道路1号線の愛宕JTC・篠崎北間が開通し、2号線の東港JCT・日明間が開通し、愛宕JCT・東港JCT間の3号線が開通しました。これらの都市高速は市街地を通るため高架道路でした。主に既存の道路の上を通る重層的な構造になり、下の道路も改良工事が行われました。菜園場を通る都市計画道路鋳物師町線の改良工事が行われました。それに伴い、1980~83(昭和55~58)年愛宕遺跡の発掘調査が行われ、古墳時代の住居跡の遺構、平安時代の窯跡、菜園場窯跡、妙行寺跡が発見されました。平安時代の窯跡、菜園場窯跡は隣接地に移転保存されました。1988(昭和63)年1号線の愛宕JTC・下到津間が開通しました。
高架道路は都市高速で、その1号線と3号線が結節する愛宕ジャンクション付近が菜園場です。この辺りは道路が地上と高架に、高架も二重にと、重層になっています。下の道路の菜園場交差点の南です。左が愛宕山で、一段高い所に菜園場窯跡の建物が見えます。
   
愛宕山の東麓、菜園場交差点の南西の一段高い所に、二段になった菜園場窯跡と表示された建物と、右側の交差点に近い方に、平安時代の窯跡の建物が建っています。
二段になった建物の中は、発掘された菜園場窯で、江戸時代初期の登り窯です。焚口と4つの焼成室からなる全長16.6mの登り窯です。道路に窯跡がかかるため、90°向きを変えて移築復元されています。茶碗、茶入れ、水差し等茶の湯に使われる陶器白磁が出土しています。
菜園場窯跡の右隣の建物には、平安時代の擂鉢(すりばち)状の窯が保存されています。ここでは藁や木片と一緒に土師器、黒色土器が発見されました。12世紀前半に築造されました。  
   
菜園場交差点から北に行くと、左手に愛宕神社の鳥居が見えます。細川忠興が小倉城を築いた際、不動山と呼ばれていたこの山上に、愛宕神社を建立しました。それ以来、ここを愛宕山と呼ぶようになりました。結構急な階段です。この石段がない頃、愛宕山に登るには、土や石が崩れて、老人や子供は難儀していました。小倉藩厩(うまや)組惣右衛門は37両余の寄金を集め、1812(文化9)年、131段の石段が完成しました。25年かかったといわれています。
   
石段を上ると、愛宕神社本殿があり、手前が拝殿になっています。そこに惣右衛門を讃える1854(嘉永7)年の書状が掲げられています。愛宕山は京都の北西にあり、山頂には愛宕神社が鎮座しています。細川忠興はこの愛宕神社を勧請しました。祭神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は火の神で、防火の神として祀られています。  
   
愛宕神社の北に隣接して広場があります。この北側の下は、1908(明治41)年創立の福岡県立小倉高校です。木立越しにグランドや校舎が見えます。小倉高校には小倉藩藩校との次のような関わりがあります。
1758(宝暦8)年4代小倉藩主小川原忠総(ただふさ)の意向を受けて、石川正恒(麟洲)は自宅に「思永斎」を開きます。後、忠総は学館を三の丸に建て「思永館」とします。1866(慶応2)年第二次長州征討戦、それに続く小倉戦争で長州藩に小倉藩は敗れ、藩校思永館も焼失します。小倉藩は豊津に移り豊津藩になります。藩校も育徳館になります。1874(明治7)年中学育徳学校として再興され、1879(明治12)年県立豊津中学校と改称されました。1882(明治15)年豊津中学校小倉分校を小倉中学校に改称しました。この小倉中学校は1887(明治20)年廃校になりました。その後、小倉市民の復活活動により1908(明治41)年県立小倉中学校が開校しました。
   
愛宕神社の南側には不動明王堂があります。堂の前には二つの石灯篭があります。文化2年(1805)の銘があります。右の石灯篭の奥は経塚です。見えませんが、左の灯籠の左に供養灯明塔があります。更にその左右の外には、法華書写塔が立っていて文政2年(1819)の銘があります。  
   
経塚の六角形の石柱の部分に、「法華経典一千部を唱え、元亀3年(1572)閏正月二十五日供養のために建立した」との意が刻まれています。その上の六地蔵が刻まれた部分や笠の部分は材質が違うので、後世組み合わされたものと思われます。
   
供養灯明塔は、愛宕神社が建立された江戸初期に建てられたと思われます。  
   
不動明王堂の南側は広場になっています。そこから一段下に下りる道が続いています。その下は公園になっていて、向かい側は菜園場墓地です。愛宕山一帯は、愛宕公園として整備されています。
菜園場墓地の南側の頂上の一段下付近に、「彦岳石川先生之墓」と刻まれた石川彦岳(げんがく)の墓があります。小倉藩は京都から儒学者石川正恒(麟州)を招きました。1758(宝暦8)年、麟州は自宅に「思永斎」を開き、儒学を講じました。1788(天明8)年、4代藩主小笠原忠総は、小倉城三の丸に藩校「思永館」を創設しました。初代学頭に麟州の子の彦岳が就きました。
思永館の跡地は、現在北九州市立思永中学校になっています。
   
遊具のある公園の横の道が下りにかかる左の横の崖の上に、「大乗妙典一石一字塔」と刻まれた経塚が立っています。大乗妙典は法華経で、一石一字は写経の一種で、小石に経文を一字ずつ墨書きしてまとめて埋めたものです。明和7年(1770)の銘があります。菜園場墓地やこの経塚辺りは、かっての妙行寺の裏山に当たります。  
   
坂道を下りて来た左手にも、法華書写塔が立っています。文化13年(1816)の銘があります。
明治になって廃寺となった妙行寺跡も発掘されました。小笠原忠真により足立山麓に天台宗妙行寺は建立されますが、後、城下鍛冶町に移され、1679(延宝7)年、2代藩主忠雄がこの地に移して建立しました。1838(天保9)年、妙行寺は大火で焼失しました。再建されますが、明治になると廃寺になりました。小笠原家は譜代大名です。この寺には徳川3~5代将軍家光・家綱・綱吉の位牌が祀られていたといわれています。
   
坂道を下りきった先は、菜園場交差点に出ます。反対に右側に行きますと、板櫃川に出ます。現在、板櫃川は下到津の御幸橋の先で右に大きく曲がりますが、その前は、その手前でもっと大きく右に曲がり、現在のJR九州小倉工場の西側を通り、日豊本線の西側を線路沿いに流れ、大門に到り、大門の北で大きく左に曲り、日明で北に流れて響灘に注ぎ込みました。このように大きく蛇行していたため、それを改善する日明までの流路を変更する工事が行われ、1934(昭和9)年に完成しました。河道が変更されて、愛宕山の東から西側になりました。少し下流にある愛宕橋です。河川改修工事竣工時に完成しました。  
   
板櫃川の愛宕橋の下流です。右が愛宕山です。
上流の様子は「北九州点描」の「到津」を、下流の様子は同じく「板櫃川河口」をご覧ください。


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