北九州点描

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赤坂
  小倉北区  [2014/07/05]
 

 
赤坂は、北は関門海峡の西の出入口の海で、南は富野山地が迫ります。東は海岸に迫るように宮本武蔵の石碑がある手向山(たむけやま)があり、その東側で門司区と隣接します。西は丘陵地が海に迫まり、その西側の山裾を延命寺川(えんめいじがわ)が流れています。南側を通る鳥越峠の西側(現在桜丘小学校がある付近)の土の色が赤かったので、赤坂の地名が付いたといわれています。門司と小倉を結ぶ要衝であったため、歴史上も南北朝時代から戦場として登場します。室町時代には、すでに赤間関(現在の下関市)と門司・赤坂・小倉との間に渡船がありました。

延命寺の起源は、平安時代、伝教大師最澄が建てた寺にさかのぼります。江戸時代、小笠原家二代藩主忠雄(ただかつ)に願い出て、上毛郡(こうげぐん、明治になって築城郡と合併して築上郡になります)川底村(現在豊前市)の廃寺であった延命寺を、赤坂の西側に張り出した丘陵地である赤坂山上に移し、大伽藍を創建しました。同時に東照大権現宮も移し、住職が東照宮の別当もつとめました。小倉城の東北の鬼門に当たりますので、山号は東北山とされました。その当時、赤坂山上は眼下の関門海峡に白帆が往来して、絶景の地といわれ、忘言(ぼうげん)・臨海の二亭が築かれ、小笠原蔵人の別邸であったといわれています。小笠原蔵人は小倉藩家老で、1814(文化11)年に発生した藩政の権力争いの別名白黒騒動と呼ばれる、文化の変での反主流派(黒組)の主要人物の一人でした。

幕末には、赤坂は第二次長州征討戦小倉口での激戦地になりました。尊王攘夷派によって再び藩の実権が握られた長州藩を、幕府は四方向から攻撃しました。これが1866(慶応2)年6月の第二次長州征討戦です。6月7日大島口の戦いで始まり、順次芸州口、石州口、そして小倉口の戦いが始まりました。他の三方向の戦いは、短期間で長州藩の大勝で終りました。1866(慶応2)年6月17日未明、長州軍の田野浦急襲で小倉口の戦闘は始まりました。小倉軍は圧倒され、大里方面に後退しました。

1866(慶応2)年7月2日、長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。しかし、長州軍は進攻を一時中断しました。小倉軍は態勢を整え、延命寺台場の守りを固めました。肥後藩が赤坂・鳥越一帯の守りにつきました。小倉口の総督は小笠原長行でした。この時期一度だけ、長行は前線の視察を行っていますが、ほとんどは小倉城下の本営の開善寺に籠もりきりでした。小笠原長行は唐津藩藩主の長子に生まれますが、幼かったため、他藩から養子が迎えられ、藩主になることはありませんでした。しかし、幕閣に迎えられ、この前年には老中になっていました。

1866(慶応2)年7月27日、堂崎港(下関市唐戸)を出港して白木崎(門司区葛葉)に上陸し、長州軍の進攻が始まりました。大里を経て、馬寄(まいそう)・藤松・新町と進み、激しい戦闘となりました。赤坂・鳥越で長州軍は家老長岡監物に率いられた肥後軍の攻撃を受けました。連戦連勝の長州軍はこの戦闘で大きな損害を受けました。肥後藩は延命寺があった延命寺山と鳥越峠に新式の大砲を配備し、攻めて来る長州軍に砲火・銃火を浴びせました。攻めあぐねた長州軍のうち、奇兵隊の山田鵬介が指揮する山田隊は、現在の富野台である忘言亭山に登り、木の生い茂る峠の上の高台から熊本軍陣地に駆け下りて来ました。太刀を手にした鵬介を先頭に陣地に肉薄しましたが、この地で銃弾を浴びて部下15人とともに戦死しましました。

長州軍は、赤坂ではこの日一日苦戦を強いられますが、諸藩の兵や幕府軍は戦列に加わりませんでした。幕府軍に不信の念を持っていた長岡監物は、7月28日夜陰に乗じて赤坂・鳥越から肥後軍を密かに撤退させました。7月20日大坂城で将軍家茂が急死し、小笠原長行は密かに報らされていました。7月29日夜半、小笠原長行は幕府軍艦で小倉から離脱しました。これにより諸藩の兵も引き揚げました。8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。この小倉藩と長州藩との戦いを小倉戦争、豊長戦争と呼びます。

激戦の7月27日、長州軍は奇兵隊山田隊の遺体を収容できないまま赤坂から大里に撤退しました。翌日の28日、召集された小倉の庄屋達によって遺体は火葬されました。しかし、そのままにして庄屋達が帰ったため、熊本藩の参謀格であった横井小楠(しょうなん、福井藩主松平慶永の顧問を務めた)の指示で遺骨は埋葬されました。1866(慶応2)年の第二次長州征討の赤坂の激戦の戦火で、延命寺の伽藍は灰燼に帰しました。翌年の1867(明治元)年、明治維新の立役者のひとりである木戸孝允は、遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すように頼みました。横井小楠は肥後藩の気持ちを無視するものであると述べたため、木戸は僧田中芝玉(しぎょく)を派遣し、墓を守らせました。田中芝玉は戦火で灰燼に帰した延命寺跡に、菜園場(さえんば)にあった妙行寺を引き移して庵、不老庵を建て、赤坂での戦没者の霊を慰めました。

江戸時代から1889(明治22)年まで、赤坂は企救郡赤坂村でした。1889(明治22)年富野・赤坂・三萩野・砂津・足原村の5村が合併して足立村になり、1927(昭和2)年小倉市に併合されました。現在は小倉北区の住宅地になっています。  
鳥越峠を越えた西側に桜丘小学校入口交差点があり、そこの都市高速に鳥越橋が架かっています。左端の道路の一番高い所が鳥越峠です。鳥越橋の下は都市高速です。右手は富野台で、かって忘言亭山と呼ばれていました。
   
鳥越橋を渡って富野台に上って行きます。富野台の高い所まで上らずに、東側の手向山の南側から赤坂を眺めます。手前の緑の先に少しアスファルトが見えますが、都市高速で、その先は赤坂になります。その先の緑が帯状になっているのが手向山です。その先が関門海峡の西側の出入口で、その先の陸地は下関市の彦島です。緑の帯の左端に白い高層の集合住宅が1棟見えますが、周囲の集合住宅をあわせて、赤坂東団地といいます。ここが東の手向山と西の丘陵地延命寺山の谷間になります。左端に見えるマンションが延命寺山の北端付近になります。
右手のマンションから続く西側の眺めです。左端に少し桜丘小学校が見えます。建物が建っているためよく分かりませんが、小学校のこちら側から先程のマンションにかけてが丘陵地の高い部分で、その稜線は鳥越峠から海の方に下っていきます。
桜丘小学校入口交差点まで戻り、鳥越橋から西側を眺めています。右のマンションの下、都市高速との間の道路が峠からの道です。ヘルメット状の建物は、三萩野にある小倉競輪場のメディアドームです。かってはマンションの方向に小倉城が見えていたと思われます。峠を越えると、富野を経て一気に小倉城下に到りました。  
   
桜丘小学校入口交差点から桜丘小学校の方に入っていきます。小学校の横の下り坂を進み、先の方で右手の住宅地に入って行きます。住宅地の一角に、赤坂東公園(赤坂3丁目10番)があります。その奥に「慶応丙寅(けいおうへいいん)激戦の址」の石碑が立っています。この付近に肥後藩によって、奇兵隊山田隊の遺骨は埋葬されました。
   
赤坂東公園から富野台方向の眺めです。あの高台から山田隊は肥後軍陣地に突撃して来ました。  
   
桜丘小学校入口交差点に戻り、都市高速沿いの峠越えの道を下って行きますと、右に入る道があります。そこを北に進むと、延命寺川に架かった橋を渡ります。延命寺川は足立山に発し、大谷・富野を経て海に注ぎます。
北に進む道路は狭いので、一方通行です。赤坂1丁目西交差点で国道3号線に出ます。そこを左折して西に行きますと延命寺川に延命寺橋が架かっています。橋から上流を見ています。左、東側が赤坂で、右、西側が富野です。かっての赤坂の集落はこの橋の下流の東岸で、東は延命寺山の北側の平地の狭い範囲でした。
   
延命寺橋を渡り、国道3号線を西に行きます。この道路ではかって西鉄電車が運行されていました。1911(明治44)年九州電気軌道により門司東本町・大蔵川間の電車軌道が開通し、後、西鉄鉄道北九州線になります。しかし、1985(昭和60)年門司・砂津間が廃止になりました。
少し西に進みますと、ひょうきんな格好をした仁王さんが立っている延命寺(上富野4丁目2番)があります。田中芝玉の没後、所属宗派の黄檗宗では、延命寺の旧跡を惜しみ、元の延命寺の境内の観音堂に残されていた仏像を移して、1914(大正3)年延命寺はここに再建されました。
 
   
赤坂1丁目西交差点まで戻り、すぐ東の赤坂1丁目東交差点を南に入り、すぐに左に曲がりますと、マンションの横に石段があります。そこを昇り、左に行って富野台から見たマンションの横を左に行くと墓地(赤坂2丁目1番)があります。奥の「長州奇兵隊戦死墓」の手前に、二つの六角柱の供養塔があります。左が田中芝玉、右が放牛和尚のものです。田中芝玉は、かって摂津の少林寺の放牛和尚に師事しました。田中芝玉が赤坂に来た時、放牛和尚を呼び寄せました。
「長州奇兵隊戦死墓」と書かれた奇兵隊山田隊16名の墓です。1868(明治元)年、田中芝玉は、赤坂に移り住み、庵を結びました。そして、延命寺山の突端のここに、墓を移し、墓石を建替えました。前は海で、彦島が見える長州により近い場所でした。
   
赤坂1丁目東交差点に戻り、国道3号線を横断して、北に徒歩で進みます。JRの低いガードをくぐった先は左横に延命寺川が流れていて、川沿いの道を進むと、国道199号線に出ます。延命寺川の河口のすぐ東に延命寺臨海公園があります。
延命寺臨海公園にはグランドがあり、その先に駐車場があります。北側に松林があり、そこを行くとすぐ海岸です。
赤坂は海岸の狭い所でした。1965(昭和40)年、埋立が完成しました。埋立てられた赤坂海岸は臨海工場地帯になっています。延命寺臨海公園は赤坂海岸の西端に位置します。赤坂海岸の遊歩道から北西の眺めです。西の方向に新日鐵住金八幡製鐵所小倉地区が見えます。その右の海の先は響灘になります。ここは関門海峡の西の出入口です。遊歩道は延命寺臨海公園から門司区の境まで約1km続いています。
赤坂海岸の遊歩道から北東の眺めです。左は彦島です。彦島は下関市に属し、本州の南西に位置する島ですが、その間にある小瀬戸は堰き止められて本州とつながっています。北西の響灘から南東に伸びた海路は、対岸の彦島を軸にして赤坂海岸のこの辺りで北東に転換して、関門海峡の大瀬戸になります。右に見えるのが和布刈(めかり)公園の古城山です。その左に関門橋がかすかに見えます。その付近が関門海峡で一番狭い早鞆瀬戸(はやとものせと)です。その先が東に向かって、関門海峡の東の出入口になります。西の日本海の響灘と東の瀬戸内海の周防灘の間が関門海峡です。
赤坂1丁目東交差点に戻り、国道3号線を東に進みます。先方に手向山が見えて来ました。手向山公園入口交差点です。手前右は手向山公園への道です。先方は手向山トンネルです。この左下にJR鹿児島本線が通っています。江戸時代には、そこを小倉と大里を結ぶ街道、大里往還が通っていました。その横は海岸でした。
手向山については、「北九州のみどころ」の「手向山公園」をご覧ください。
   
手向山公園への道に入って行きます。左が手向山公園への道への三叉路を右に入って行きます。赤坂東団地の中の道です。そこから西側の延命寺山を見ています。先方のマンションが墓地の横にあったマンションです。  
   
手向山公園入口交差点に戻り、手向山トンネルを通り、東側に出て来ました。手向山公園東交差点です。左の道は手向山の南を通り、鳥越峠に到る道です。
左側国道3号線を門司方面に進みますと、左手に跨線橋が架かっています。大里新町交差点を左折して跨線橋でJR・国道199号を跨ぐと国道199号線に出ます。そこを右折して国道199号線を小倉方面に行きますと、右手に延命寺臨海公園があります。


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