北九州点描

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到津
  小倉北区  [2016/02/20]
 

 
到津(いとうづ)は古くから歴史に登場する地名です。到津八幡神社の社伝によりますと、神功皇后が朝鮮出兵より帰還し、宇美で応神天皇を出産された後、長門の豊浦宮に戻られる時、この地の津(港)に到ったことから、到津(いとうづ)及び板櫃(いたびつ)の地名が生まれたとのことです。

701(大宝元)年大宝律令が施行されると、全国の道路網が整備され、駅家(うまや)が設けられました。北九州では西より、夜久(やく、八幡西区上津役)-独見(ひとみ、八幡東区前田)-到津(いたむつ、小倉北区到津)-杜碕(もりさき、門司区田野浦)に駅家が設けられ、宿舎や食料を堤供し、人馬の継ぎ立てをしました。

藤原広嗣は宇合(うまかい)の長男に生まれます。父宇合は大宝律令制定の立役者藤原不比等の第三子でした。当時藤原氏の有力者は流行していた天然痘で亡くなり、一族の勢力は一時弱まっていました。この頃勢力を伸ばしていたのは、唐から帰国した僧玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)で、聖武天皇から重用されました。そのため、広嗣は両者と意見が合わず、争っていました。738(天平10)年、広嗣は大宰少弐に左遷されました。

740(天平12)年、政治の乱れを指摘し、僧玄昉と吉備真備を退けるように、藤原広嗣は乱を起こします。朝廷は直ちに大野東人(あずまんど)を大将軍に任じ、1万7,000の兵を征討に向かわせます。征討軍は登美・板櫃・京都の三鎮(ちん、兵が駐屯する営所)を攻略します。到津には駅家があり、板櫃鎮は到津にあったと思われます。広嗣は兵を三手に分け、自らは鞍手道を通って板櫃鎮に向かいます。弟の綱手は豊後国から、多胡古麻呂(たごこまろ)は田河道を北上して征討軍と対する予定でした。

板櫃川の西岸に広嗣軍1万余人が、東岸に征討軍のうち佐伯常人(つねんど)と阿倍虫麻呂(むしまろ)を将とする6,000余人が布陣します。綱手・多胡古麻呂軍は間に合いませんでした。征討軍は投降を呼びかけます。すると、広嗣軍から離反者が続出し、遂には広嗣軍は敗退します。広嗣らは西に敗走し、広嗣は五島列島で捕えられ、肥前国松浦郡で斬首されました。

743(天平15)年、聖武天皇は大仏造営の詔を出します。749(天平勝宝元)年東大寺で大仏を鋳造します。神にも大仏造営を祈願しますが、宇佐八幡神が協力に応じ、成功させると託宣がありました。大仏の造営を成功させますと言う八幡大神の神体と託宣をもって上京します。この時ご神体を載せたのが、神輿の始まりと言われています。

宇佐八幡宮の神はこの地方の豪族宇佐氏の氏族神でした。神宮の背後の御許山(おもとやま、大元山)の巨石に対する信仰とシャーマニズムが結びついていました。応神天皇、神功皇后を祀るようになり、八幡神を成立させました。藤原広嗣の乱に際しては平定のための戦勝祈願が行われました。その頃、境内に神宮寺としての弥勒寺が建立され、神仏習合が図られました。託宣する神社を朝廷は篤く信仰するようになっていました。

女帝の孝謙天皇が病気の際、禅師として近侍していた道鏡は秘法を行い、病気は治癒します。764(天平宝字8)年の恵美押勝の乱後、孝謙女帝は重祚(ちょうそ、再び天皇になること)し、称徳天皇となります。道鏡は大臣禅師に任ぜられます。道鏡は河内の弓削氏の出身で、呪験力を身につけていました。766(天平神護2)年、称徳天皇は道鏡に法王の位を授けます。その待遇は天皇と同格のものでした。

法王道鏡を皇位に就けたなら、天下は太平になるだろうという宇佐八幡大神の神託が都に届けられます。これを伝えたのは道鏡の弟の太宰帥の、その配下でした。称徳天皇はこれを確かめるため、側に仕える尼の弟の和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に遣わします。帰京した清麻呂は道鏡が皇位に就くことを神は許してないと奏上します。これを聞いた道鏡は大いに怒り、清麻呂を大隅国に流します。神託事件の後、称徳天皇が崩じると、770(宝亀元)年、道鏡は失脚し、下野の薬師寺に追放されます。和気清麻呂は都に呼び戻されます。771(宝亀2)年、清麻呂は豊前国司に任ぜられ、宇佐八幡宮の神職団の粛正工作が行われます。

朝廷の崇敬が篤い宇佐八幡宮は、当初豊前国宇佐郷を中心に豊前・豊後・日向に封戸を与えられていました。これらの封戸は人であらわされていたものが、後には田地によってあらわされました。これを御封田と言います。平安時代、藤原道長によって大宰帥として平惟仲(これなか)が赴任してきます。惟仲は大宰府の権限強化に乗り出します。宇佐八幡宮に対する支配も強化されます。八幡宮内の大宮司と権大宮司の対立を利用して発言力を強めたり、非礼な行いをします。これに対し、八幡宮側は政府に訴えます。この訴えに惟仲は敗れ、この結果、豊前国規矩郡にあった御封田の一部と交換して、到津荘が成立します。

鎌倉中期に書かれ、現在到津宮司家に残されている「八幡宇佐宮神領大鏡(宇佐大鏡)」に宇佐八幡宮の荘園の成立と発展の過程が記載されています。北九州の宇佐神宮の荘園のうち、到津荘・貫荘は神田・位田などを中心にして成立した荘園として記載されています。長野荘・横代別符・蒲生安則・貫入田は開拓や寄進によった荘園とされています。宇佐八幡宮の荘園は封戸が荘園化したものが豊前・豊後・日向に、神田・位田などを中心にしたものや、開拓や寄進によるものはその三国の他に、筑前・筑後・肥前・肥後に及んでいます。

到津荘の範囲は「宇佐大鏡」によりますと、北は海岸、南は高杯(槻)山(現在の八幡東区槻田付近の山)で、豊前と筑前の国境付近、東は古駅(廃絶された到津駅)付近の丘陵地と官道で、現在の清水町から小倉城の低い丘陵地、西は豊前と筑前の国境(現在の小倉北区と戸畑区の境の境川)となります。このような広い範囲に若干の田地があっただけと考えられます。これからの開拓地といえるものでした。宇佐神宮は農民を組織し、灌漑施設を設けて、開発していきました。このように宇佐八幡宮は荘園領主と在地領主の性格を持つようになっていました。後、到津八幡神社は到津荘の鎮守として宇佐八幡宮から勧請されました。

平安時代、宇佐大宮司は到津荘に引地山城を築城しました。鎌倉時代になると、宇佐大宮司が清末氏を代官として派遣し、引地山城は清末氏の居城となりました。南北朝時代、宇佐公連(きんつら)が到津荘に留まり、到津家を名乗ります。この後、宇佐大宮司は到津家と宮成家が交替で就きます。戦国時代には、大友宗麟に攻められた宇佐神宮は、兵火に焼失し、一時、宇佐大宮司はこの引地山城に移り、この城が居城になっていました。

平安時代から戦国時代にかけては、到津荘は宇佐神宮の中心的荘園でした。江戸時代になると、小倉藩領の企救郡到津村となり、幕末には上到津村と下到津村に分かれました。明治10年頃両村は合併して、到津村になりました。1887(明治20)年到津・原町・菜園場・田町・金田・干上(日明)村が合併して板櫃村になり、1889(明治22)年板櫃・中井・槻田村、藍島・馬島が合併して板櫃村になり、1908(明治41)年には小熊野・篠崎を併合しました。1922(大正11)年板櫃町になり、1925(大正14)年槻田と小熊野の一部が八幡市に併合され、他は小倉市に併合されました。

1911(明治44)年九州電気軌道(九軌)は門司東本町・八幡黒崎駅前間の電車の営業を始めました。1942(昭和17)年同社は合併して西日本鉄道(西鉄)になりました。到津の森公園は、2000年(平成12年)まで西日本鉄道経営の到津遊園でした。到津遊園は西鉄の前身九州電気軌道により1932年(昭和7年)に開園されました。2002年(平成14)年4月からは市民の動物園、到津の森公園として再開されました。
動物園の到津の森公園の入口は、旧電車通りの県道296号大蔵・到津線沿いにあります。こちらを入って行くと、南ゲートがあります。駐車場は北側にありますので、車の場合は金比羅池がある中央公園側から入って行くと、北ゲートがあります。
到津の森公園は「北九州のみどころ」の「到津の森公園」をご覧ください。
   
到津の森公園入口の先の上到津3丁目交差点を右折して、スーパーサンリブと自動車販売店の間を通って、板櫃川に出ます。そこに架かっている竹の下橋から下流の眺めです。板櫃川を中心に、上流から下流に到津を訪ねます。
ここから上流や小倉北区上到津と八幡東区との境界付近は、「北九州点描」の「荒生田・川淵町」をご覧ください。
 
   
竹の下橋の一つ下流の川崎橋から下流の眺めです。先に見えるのは清水橋です。
   
清水橋の上を2本の道路が通っています。手前を左に行くと、県道296号大蔵・到津線になります。向こう側は国道3号線です。この右手で、県道大蔵・到津線の三叉路からの道路と国道3号線が合流する金鶏町交差点になります。
清水橋の国道3号線を左側に行くと、県道との上到津2丁目交差点になり、その先の国道は、戸畑バイパスと呼ばれます。上到津2丁目交差点の東北角に、このような小さなピラミッド形の石碑が立っています。「小倉到津球場跡」と刻まれています。裏面には、1934(昭和9)年11月26日、この球場で行われた日米野球対抗第15戦で、ホームランを打ったベーブルースの写真があります。結果は8対1でアメリカの大勝でした。到津球場は、1923(大正12)年完成しました。左翼85m、右翼125mで、門司鉄道管理局の野球部、いわゆる門鉄のホームグランドとして使われました。八幡製鐵所に野球部ができると、ここで定期戦の製門戦が行われるようになりましたが、1928(昭和3)年八幡に大谷球場が建設されると、交互に行われるようになりました。しかし、到津球場は戦時中に廃止になりました。  
   
上到津2丁目交差点から旧電車通りを東に進みます。そこからは、旧電車通りは県道270号竪町・到津線になります。次に板櫃川に架かっているのは板櫃橋です。現在の板櫃橋は、2007(平成19)年10月に架け替えられました。前の橋は、昭和の初めに建設され、老朽化していました。橋脚は3本でしたが、大水の時の被害を最小限にするため、新しい橋の橋脚は1本になっています。前の橋の橋柱が現在の橋に使われています。前の橋を1985(昭和60)年まで、西鉄電車が通っていました。
板櫃橋の下流は歩道橋の庚申(こうしん)橋で、その下流がこの神上(しんじょう)橋です。この橋から左側の道に入って行きます。
   
しばらく行くと十字路になり、その先の道は狭くなります。そこを進むと左手に林がある丘陵地になり、右手も丘陵地になります。この道は丘陵地の間の谷間の坂道になります。右手の丘陵地には手前に到津八幡神社、その先は西南女学院があります。左手の丘陵地は引地山城跡です。林の先は住宅地になっていて、城跡はほとんど残っていません。坂道を上って行くと、国道3号線と都市高速下到津出入口を結ぶトンネルの上の道に出ます。  
   
板櫃川に戻ります。次の橋が八幡(はちまん)橋です。到津八幡神社の下に位置する橋です。この橋付近が藤原広嗣の乱の古戦場といわれています。斬罪に処せられた藤原広嗣は上流にある荒生田(あろうだ)神社に祀られています。
八幡橋の左岸にある到津八幡神社の鳥居です。鳥居の手前の左右の燈籠は、1853(嘉永5)年企救郡内の庄屋達から奉納されたもので、昭和の初め頃まで、菜種油を灯した常夜燈として使われました。この鳥居は、2番目のもので、八幡橋と県道270号竪町・到津線の間に最初の鳥居があります。この鳥居をくぐって行くと、到津八幡神社の石段があります。車の場合、石段の前の道を右に行き、坂を上った左手に神社の駐車場があり、そこを奥に行くと社殿があります。
   
石段を上って行くと、鳥居があり、その先に社殿があります。平安時代、神功皇后を祀った祠があったこの地に、到津八幡神社は到津荘の鎮守として宇佐八幡宮から勧請されました。到津荘は幾多の戦乱や争乱にあいますが、戦国時代まで続きました。  
   
八幡橋から下流の眺めです。板櫃川は左にカーブします。
   
下流の橋は下到津橋で、そこから下流の眺めです。右岸の手前にこども文化会館があり、その先は小倉北特別支援学校の校舎です。先の方に御幸(みゆき)橋があり、その先に国道3号線戸畑バイパスと都市高速下到津出入口とを結ぶ道路の橋が架かっています。
板櫃川は御幸橋の先で右に大きく曲がりますが、昭和の初めまで、その手前でもっと大きく右に曲がり、現在のJR九州小倉工場の西側を通り、日豊本線の西側を線路沿いに流れ、大門に到り、大門の北で大きく左に曲り、日明で北に流れて響灘に注ぎ込みました。このように大きく蛇行していたため、それを改善する日明までの河道を変更する工事が行われ、1934(昭和9)年に完成しました。
 
   
御幸橋の下流に、県道271号下到津・戸畑線が通る境橋が架かっています。その境橋の上に歩道橋が架かっています。そこから下流を見ています。右岸に東芝北九州工場がありました。現在、閉鎖撤去され、空地になっています。そこまで下到津です。左岸は板櫃町になります。ここは、1934(昭和9)年完成の板櫃川河道変更工事の際、新たに掘削された部分です。正面は愛宕神社のある愛宕山で、板櫃川はその左側を少し北を向いて、日明に流れて行きます。
その付近については、「北九州点描」の「菜園場」をご覧ください。
県道271号下到津・戸畑線を南に行き、県道270号竪町・到津線とが交差する下到津交差点に出ました。その角に東筑紫短大や九州栄養福祉大学のキャンパスがあります。


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