北九州点描

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富野  小倉北区  [2012/09/08]
 

富野は東側が赤坂、西側が砂津川の西岸の砂津、北側が海岸で砂津のうちの高浜といい、南側が足原、南西は三萩野と接します。
江戸時代当初は富野村でしたが、中頃までに上富野村と下富野村に分かれました。江戸時代は、小倉織の原料の綿の畑作地でした。小倉織の発祥については諸説ありますが、1632(寛永6)年小笠原忠真(ただざね)が小倉に移封以来織られていたといわれています。下級武士の婦女子の内職として普及し、最盛期には3,000人が従事したといわれています。帯地・袴地として生産され、丈夫であったため全国に販売されました。しかし、明治維新の動乱で衰退しました。1894(明治27)年小倉織を再興しょうとし、翌1895(明治28)年小倉織物会社を設立し、守永久吉(神崎家と並んで地元資本の守永家の当主)が社長になりました。
しかし、同年講和が成立した日清戦争の戦後の好況もそうは長く続かず、不況の波が襲い、販売が低迷し、1901(明治34)年倒産しました。小倉織物が解散すると、小倉織は衰微の一途をたどり、明治末には職工数は30人になり、昭和の初めに遂に消滅してしまいました。1984(昭和59)年染織家の築城則子氏により復元されました。

小倉には幕政時代からの織物がもう一つありました。小倉縮です。小笠原家が明石居城時代に藩主に献上された縮織がありました。小倉入部以後、苧(からむし)を紡ぎ、絹と合わせて織られた縮織を藩主に献上しました。これが小倉縮の始まりです。当時は一般の絹布の着用は禁止されていたため、夏季衣装として親族諸侯への進物用として織られました。後、藩主から神田屋に原料が供給され、献上品や諸侯への進物用として少量生産されていました。明治維新の動乱で一時生産は中止されていました。明治になると、神田屋は絹綿交織縮を発明し、製織しました。需要はまだ少なかったのですが、改良を重ね、その評価は上がっていきました。大正初め、神田安兵衛により富野に小倉縮の工場が建設され、昭和の戦前まで生産されました。戦後は神田安兵衛が病に倒れ、小倉縮は復興することはありませんでした。1994(平成6)年築城則子氏により復元されました。

1887(明治20)年上富野・下富野村の2村は合併して富野村になりました。この年、熊本・黒原・足立・大畠村の4村が合併して足原村になり、仲津口・砂原村の2村が合併して砂津村なり、片野・三郎丸・萩崎・片野新町村の4村が合併して三萩野村になりました。足原、砂津、三萩野はこの時できた合成地名です。1887(明治22)年富野・赤坂・砂津・足原・三萩野村が合併して足立村になりました。1927(昭和2)年足立村は小倉市に編入されました。

明治時代から足立山の西麓では多くの中小の炭坑が開坑されました。1889(明治22)年からの小倉の町政、1900(明治33)年からの市政の初期に原口大成は活躍し、この間経済活動を行い、小倉の経済発展に尽力しました。1887(明治20)年原口大成は足立炭坑を開坑しました。江戸時代後期、中原屋は田川郡赤池の小倉藩営の焚石会所に対して、金貸問屋資本として大きな影響力を持っていました。当主中原嘉左右は維新後も要職に就き、北九州きっての豪商になりました。北九州の明治前半期を代表する経済人でした。1893(明治26)年中原嘉左右と原口大成が富野炭坑を共同経営しました。同年熊本炭坑及び小倉炭坑が開坑されました。翌年熊本炭坑は休坑になりました。

これらの炭坑は経営が変遷し、場合によっては炭坑名も変わっていきました。熊本炭坑は鷲峰炭坑として再開されました。足立炭坑は休坑になった後、第二鷲峰炭坑となり、鷲峰炭坑が閉鎖されると鷲峰炭坑と改称されました。その後休坑されますが、新鷲峰炭坑として再開されます。小倉炭坑は筑豊炭坑により経営されますが、後譲渡され、不老炭坑ないし岸上炭坑として短期間操業されました。足立炭坑も小倉炭坑も坑口から小倉港口まで、石炭は車力(木製二輪の荷車)で運んでいました。そして小倉から大阪に販売されました。他に明治後期には宮尾炭坑(篠崎)、赤坂炭坑、黒原炭坑がありました。

大正期に入ると、炭坑は炭鉱と改称されることが多くなります。鷲峰炭鉱・新鷲峰炭鉱は稼働され、第三鷲峰炭鉱が開坑されました。しかし事故により休業しますが、鷲峰炭鉱として再稼働され、不況により休坑になりました。神代炭鉱が1914(大正3)年足立村に開坑されます。次々と経営が代わっていきます。もっと代わって炭鉱名が変わっていった鉱山があります。最初大畑炭鉱、次に足原炭鉱、そして清麿炭鉱、吉熊炭鉱、足原炭鉱、足立炭鉱になりました。

田川・嘉穂郡の石炭を小倉に運ぶ目的で金辺(きべ)鉄道が設立されました。1897(明治30)年金辺鉄道は着工しましたが、金辺峠にトンネルを掘るのが一番の難工事でした。金辺鉄道は資金が続かず、解散してしまいました。小倉鉄道が後を引き継ぎ、工事を継続しました。1915(大正4)年小倉鉄道により、東小倉・上添田(現在添田)間が開通しました。また小倉鉄道は石炭積出港として延命寺川の西側の高浜海岸を埋立て、1915(大正4)年貯炭場と石炭荷卸しの高架桟橋が竣工し、石炭輸送が開始されました。東小倉駅は企救郡足立村大字砂津に開業しました。東小倉駅を出た列車は左にカーブして南に向かい、日豊本線(当時の豊州本線)を高架で跨ぎ、次の駅は石田駅でした。

昭和に入ると、神代炭鉱は買収されて勝山炭鉱になりました。1933(昭和8)年小倉鉄道は妙見駅(現在の熊本3丁目と足原2丁目の境界付近)を新設しました。1935(昭和10)年勝山炭鉱も買収されて、小倉炭鉱になりますが、1937(昭和12)年休止しました。小倉炭鉱を古谷博美が買収し、1938(昭和13)年採炭を始めました。1940(昭和15)年小倉炭鉱で大規模な落盤事故があり、39名が犠牲になりました。

事故のため出炭は減少しますが、筑豊の炭鉱と同様に太平洋戦争に突入すると、小倉炭鉱の出炭は増加していきました。1943(昭和18)年小倉鉄道は国有化され、国鉄添田線になりました。1945(昭和20)年の終戦を迎えると、各鉱山の出炭は激減しました。1941(昭和16)年近衛内閣の国家総動員体制下で、官民協力の性格をもつ、公私の中間の特殊法人の営団が特別法で設立されました。営団の中に住宅営団がありました。住宅営団が戦中・終戦直後に建設した住宅地が全国にあります。その一つに富野住宅地があります。戦後の1946(昭和21)年住宅営団は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で解散しました。

戦後は鉄と石炭が日本の復興の原動力でした。小倉炭鉱の主要施設は下富野の南隣の大畠にあり、従業員確保のため小倉炭鉱は大畠や下富野に社宅を建設しました。1950(昭和25)年朝鮮戦争が始まります。日本は特需景気で復興が促進されました。小倉炭鉱は最盛期を迎え、従業員は2,000人で、年間出炭量は約20万トンありました。しかし、1960年代に入ると、世界的にエネルギー革命が進行し、1965(昭和40)年遂に小倉炭鉱も閉山します。

田川線が延伸され、日田から彦山線が開業し、その後西添田・夜明間が開通しました。その結果、小倉東・夜明間は日田線になりました。しかし、小倉鉄道時代も国鉄になっても、東小倉駅で横を通る鹿児島本線に乗り継ぐことはできませんでした。そこで日田線の石田駅と日豊本線の城野駅の間を1956(昭和31)年短絡線で結びました。同時に東小倉・石田間の旅客列車を廃止しました。後1962(昭和37)年貨物列車も廃止しました。旅客は日豊本線を利用して小倉駅で乗降するようになりました。炭鉱の閉山、JRへの移行等で筑豊の鉄道は整理され、現在城野・夜明間は日田彦山線になっています。

1964(昭和39)年東小倉駅は鹿児島本線の貨物駅になりました。コンテナ貨物も取り扱いましたが、2002(平成14)年JR貨物門司駅が北九州貨物ターミナル駅と改称し、業務が統合集約化されたため東小倉駅の営業は現在休止されています。東小倉・石田間の線路は撤去され、小倉炭鉱の諸施設も撤去されました。北九州市の都心である小倉北区の中心市街地に近いため、それらの跡地も急速に市街化されました。富野は、現在の町名の上富野・下富野・小文字・神幸町・常磐町・須賀町が該当します。 
国道3号線を砂津交差点から東に行きます。高架の新幹線の先の右手は上富野になります。万葉集に「豊国の企玖の長浜行き暮らし日の暮れぬれば妹をしそ思ふ」や「豊国の企玖の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり」の歌がありますが、企玖は規矩や企救とも記し、かっては北九州市の東半分に当たる郡名でもありました。左手の海岸の西側が長浜で、東側が高浜でした。そこより高台にあることで、富野側を菊ヶ丘と呼びました。菊ヶ丘の地名は数個所あるようですが、この辺りも菊ヶ丘と呼ばれました。
手前が国道3号線です。石油スタンドの横を奥に行った所に、1931(昭和6)年女流俳人杉田久女(1890−1946)が堺町より移り住みました。この年、代表作の一つの「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ」が新聞社主催の日本新名勝俳句の金賞の20句に選ばれました。翌年には主宰誌「花衣」を創刊しています。
杉田久女については、「北九州点描」の「櫓山荘跡」、「板櫃川河口」や「北九州のみどころ」の「足立公園」をご覧ください。
国道3号線を少し東に行きます。かってこの国道には電車が通っていました。1911(明治44)年九州電気軌道により門司東本町・黒崎駅前間が開通しました。後、経営は合併により西日本鉄道(西鉄)になりました。1985(昭和60)年門司・砂津間が廃止になりました。
国道の左側に柵がされた階段があります。かって左側にあった東小倉駅に降りて行く階段です。かっては階段を降りて行くとすぐに駅舎があったようです。
「谺して」の杉田久女の句は英彦山で詠まれたものです。久女は東小倉駅で列車に乗り添田まで行き、そこからバスで英彦山の下の銅(かね)の大鳥居まで行きました。そして、英彦山神社の上宮がある、標高1,200mの中岳山頂まで登りました。現在観光客が登るのは、英彦山中腹にある、江戸時代初代小倉藩主細川忠興が再建した、国の重要文化財に指定されている奉幣殿までです。英彦山は修験の山で、北・中・南岳の三峰からなっています。久女は何度も英彦山に独りで登り、北・南岳にも登っています。
かって石炭を降ろしたり、貨物駅になったので東小倉駅の構内は広大です。貯炭場や高架桟橋は、この先の、現在の国道199号線付近にありました。
国道3号線を東に進みます。赤坂1丁目西と赤坂1丁目東交差点が続いてあります。どちらも一方通行の道路と交差しています。手前の赤坂1丁目西には進入できません。先の赤坂1丁目東交差点を右折します。しばらく行くと、左手に須賀神社の大きな鳥居が見えますので、左折して鳥居をくぐって行きます。都市高速の富野インター入口手前の上富野5丁目交差点に出ます。
上富野5丁目交差点を直進して北に行きます。左手にある富野市民センターの手前の角を左折します。延命寺川に架かった橋の先に須賀神社の鳥居が見えます。鳥居をくぐって参道を昇りますと、鳥居門があり、その先に社殿が見えます。
須賀神社はかっては、若一王子社(にゃっこうじしゃ)といい、地元の人からは「にゃっこうじさん」と呼ばれました。創建は平安時代といわれ、富野村で悪疫が流行った時、現在の小文字山の山中に須佐之男命を祀った祠を建てたことが始まりでした。鎌倉時代、須賀神社の背後の山に門司城の支城の一つ若王子城が築かれました。室町時代に入ると、城主の門司一徳斎親俊によって祠はこちらに移されました。社殿の位置に居館があったといわれています。しかし、その後は戦乱が続き、神社も荒廃しましたが、江戸時代になって再建されました。
 
   
左折した道路に戻り、山手に向かいます。左手の富野市民センターを過ぎ、右手の富野中学校の前を通ります。先方にマンション、メゾンモンブラン富野台が見えます。その手前の左手は、バスの終点大谷池バス停です。道はマンションの前を右に曲がって行きます。マンションのすぐ左に、山手の自衛隊富野分屯地に行く道があります。ここからは立入り禁止になっています。富野分屯地に行く道の手前を左に入る、車1台が通る程度の細い道があります。この道は大谷池の横を通ります。
大谷池はそれほど大きな池ではなく、三角形をしています。ここから流れ出た延命寺川は富野と赤坂の間を流れて、関門海峡に流れ込みます。
赤坂については、「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。
池の先は歩いてしか行けないような細い道です。途中は川の流れが岩の間を流れる渓流になっています。その先は私有地で、先に行かれません。川はその先の二つの池から流れてきます。延命寺川は足立山の北から流れ出て、大谷池を含む三つの池を経由して関門海峡に流れ込みます。
マンションの所まで戻り、その前の道路を山手に上って行きます。その坂道から北側を見ています。中央は富野中学校です。遠くの海は関門海峡です。右手は対岸の下関市彦島です。左手は関門海峡の西の出入口になります。
坂道を上って行き、直進して行きますと足立公園に入って行きます。
坂を上りきった所の右手にトイレがあり、そこから右の坂道を上って行きます。右手の老人ホーム望玄荘の前を通り過ぎると、駐車場になり、展望台があります。ここは富野堡塁跡です。1889(明治22)年に築造され、小倉からの上陸戦への対応と手向山・笹尾砲台の側面防御を目的に砲16門が配置されましたが、使うことなく明治末には廃止されました。その跡は現在残されていません。
展望台からは西側が開け、小倉北区の市街地を中心に広く眺望が開けていますが、これは一番手前の関連がある場所です。右側の商業施設チャチャタウンにある観覧車が見えます。そこが砂津で、その手前が下富野になります。そこから左に行きます。手前に福岡教育大学付属小倉中学校の運動場の一部が見えます。その左に都市高速が通っています。都市高速の左の一番手前の高層の建物が、市営下富野第三団地です。
上富野5丁目交差点まで戻ります。右折して東に行くと都市高速の富野入口ですが、左折して西に行くと神幸町交差点に出ます。神幸町交差点を左に行くと、南の国道10号線方向に向かいます。交差点を直進し西に向かいますと、左手に福岡教育大学付属小倉小学校があります。福岡教育大学は宗像市にあります。この辺りは上富野の南側で下富野になります。
   
小学校の先、西隣に福岡教育大学付属小倉中学校があります。門の中に小倉師範学校之跡の石碑が見えます。
1908(明治41)年福岡県小倉師範学校が設立されました。当初は東小倉駅の近くにあった、解散した金辺鉄道の事務所を仮校舎に使いました。翌年付属小・中学校があるこの地に新校舎が建設されました。小倉師範と共に付属小学校も移転して来ました。1943(昭和18)年国に移管されて福岡第二師範学校になりました。ここには男子部が置かれました。戦後の1949(昭和24)年福岡第一・第二・青年師範学校を母体に新制福岡学芸大学が発足しました。男子部は小倉分校になり、北方の旧陸軍小倉兵器補給廠跡に移転し、男子部跡は付属中学校になりました。1966(昭和41)年福岡教育大学と改称され、宗像市赤間に統合移転しました。小倉分校跡は小倉南区若園の県立北九州高校になっています。
 
   
付属小倉中学校の少し西側の先、反対側に天疫神社があります。由緒には悪疫退散に須佐之男命を祀ったことが記されています。
その境内に、神社の鉱害復旧工事の実現に尽力された時の田中六助官房長官に対する感謝の石碑が、1986(昭和61)年に建てられています。かって富野地下には炭鉱の坑道が掘られました。
天疫神社の前を西に行くと、陸橋になります。その下をかっては添田線が通っていました。陸橋を渡って行くと、国道3号線の富野口交差点に出ます。
   
天疫神社の前の下富野3丁目交差点を南に行きます。福岡教育大学付属小倉中学校の横を通って行くと高架の都市高速があります。その先を行くと、左手に下富野地域交流センターと下富野児童センターが併設された建物があります。そこから東側の眺めです。左側の屋根の上に見える山上の建物は、先程の展望台のあった横の老人ホーム望玄荘です。展望台はその右の緑の所になります。右の山は小文字山です。  
   
下富野地域交流センターの先を進むと、道は右にカーブします。都市高速から右手は富野営団住宅と呼ばれます。
カーブの所から左手東側を見ています。左端は標高366mの小文字山です。1948(昭和23)年福岡県下で第3回国体があり、当時の小倉市も会場になりました。選手を歓迎する意味で、10月21日この山で京都の大文字焼きになぞらえた小の文字が焼かれました。それに由来してこの山は小文字山と呼ばれています。翌年からは8月13日に焼かれるようになりました。
右端は標高519mの妙見山です。山頂には中腹にある妙見宮の上宮があります。その左が妙見山の奥にある足立連山の主峰標高597.8mの足立山です。これらの山々の中腹は足立公園になっています。
足立公園については、「北九州のみどころ」の「足立公園」をご覧ください。
   
右にカーブして進みます。左手は富野営団住宅と呼ばれています。
戦前小倉市には兵器工場の小倉陸軍造兵廠がありました。小倉城の南側、紫川の西岸の広大な場所でした。戦中の最盛期には従業員と動員の学生で4万人が働いていました。その従業員のための住宅確保のため、市内各地に住宅営団による団地が建設されました。ここにもそのひとつがありました。その当時の面影はありませんが、規則的に縦横に通りが交差した通りで、その跡地であることが分かります。
 
   
西に進むと、下富野交差点を南に来た通りに出ます。その南側はかって小倉炭鉱の菊ヶ丘社宅でした。通りを北に行き二つ目の路地を西に入って行きます。先に行くとこの菊ヶ丘公園があります。この辺りも菊ヶ丘と呼ばれます。
菊ヶ丘公園の西側をかっては添田線が通っていました。南に行くと大畠になり、その東側には小倉炭鉱の施設がありました。その先に妙見駅がありました。駅構内には石炭を積み込むためのホッパーがありました。更に南に行くと西側に黒原営団住宅(現在黒住町)がありました。松本清張は1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で、芥川賞を受賞します。同年清張は単身で上京し、更にその翌年一家も上京します。終戦後それまで清張は黒原営団住宅に住んでいいて、砂津にある朝日新聞西部本社まで添田線の線路を通って通勤していました。
菊ヶ丘公園に集う老人達により、忘れ去られようとする小倉炭鉱のことを調べようという声が挙がりました。地元の寿山小学校が協力しました。写真、書類、道具や工具などが集められました。小倉北区役所が後押しをして、その活動が本になりました。「小倉炭鉱発掘記」、著者菊ヶ丘「語ろう会」、編集・発行小倉炭鉱発掘記編集委員会(小倉北区役所まちづくり推進課)、平成23年3月15日発行、定価900円(税込)。 
菊ヶ丘公園の西側を北側に進みます。市営菊ヶ丘団地があり、その先に市営下富野西団地があります。その間を右折して東に進みます。団地の先は戸建て住宅地で、富野営団住宅です。そこから北側には高層の市営下富野第三団地が見えます。先程の下富野交差点を南に来た通りに出ます。そこを左折して北に進みます。すぐ右手に富野営団北公園があります。そのまま北に進むと、天疫神社の前の通りの一つ西側の下富野交差点に出ます。  
   


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