北九州点描

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板櫃川河口  小倉北区  [2012/03/10]
板櫃川(いたびつがわ)は八幡東区の河内貯水池から流れ出て、関門海峡の西出入口に面する小倉北区日明(ひあがり)泊地に流れ込みます。上流は大蔵川と呼ばれます。到津八幡神社の前付近は、740(天平12)年藤原広嗣の乱の古戦場跡といわれています。到津八幡神社の社伝によりますと、神功皇后が朝鮮出兵より帰還し、宇美で応神天皇を出産された後、長門の豊浦宮に戻られる時、この地の津に到ったことから、到津(いとうづ)及び板櫃(いたびつ)の地名が生まれたと伝えられています。
1602(慶長7)年、細川忠興が小倉城の築城の際、東の紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。板櫃川の当時の河道は、下到津から東側に向かい、JR九州小倉工場の西側から日豊線の西側沿いに流れ、大門の西で西に大きく曲がり、平松の新幹線付近で現在の流れになって、北の響灘に流れ込みました。現在の流れに付替えが竣工したのは、1934(昭和9)年10月でした。
JR鹿児島本線の北側は海岸でした。1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎ー門司間の鉄道が開業しました。この時の黒崎ー門司間のうち、黒崎ー小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い内陸ルートでした。しかし、1902(明治35)年、海岸ルートが開業され、内陸ルートは1911(明治44)年廃線になりました。板櫃川河口の西岸は日明(ひあがり)で、東岸は平松です。板櫃川が流れ込む響灘は遠浅で、戦後の高度成長期に海面が大規模に埋立てられ、埠頭が築かれ、日明泊地の西側は西港町、東側は東港と臨海工業団地になっています。
日明は、海岸が干潮時に干潟になることから干上と書かれ、日明になったのは江戸時代末期からでした。江戸時代から1897(明治20)年まで日明村でした。小倉城の築城の際、細川忠興は紫川河口の漁民を砂津川河口の長浜と、板櫃川河口の平松の東西に移住させました。平松は、もとは日明村の枝村の平松浦でした。1897(明治20)年到津・日明・田町・菜園場・西原・金田村の6村が板櫃村として合併しました。板櫃村は更に合併を行い、1922(大正11)年板櫃町になり、1925(大正14)年小倉市に編入されました。
日明にはかって電車が通っていました。1912(明治45)年九州電気軌道(九軌)により戸畑線は開業されました。前年の1911(明治44)年北九州本線の門司・黒崎間が開通していました。戸畑線は大門から分岐し、若戸の渡し場の戸畑まででした。その後西鉄の営業路線となり、1986(昭和61)年戸畑線は廃止されました。
板櫃川については、上流から「北九州のみどころ」の「河内貯水池」、「八幡のまちかど」の「羽衣町・勝山・景勝町」、「八幡のまちかど」の「高見」、「北九州点描」の「荒生田・川淵町」、「北九州点描」の「到津」、支流の槻田川については、「北九州点描」の「槻田川」をご覧ください。  
戸畑区から小倉北区にかけて国道199号線は南北に2本通っています。市街地を通る南側の国道199号線に架かる日明歩道橋の所から北に入って行きますと、右手に日明市民センターがあります。その手前を左に入りますと日明小学校の正門の前に出ます。更に日明小学校の正門の前を左の細い道に入って行きます。細い道を入って行くと、駐車場があります。その奥の崖の部分、奥の民家の手前の部分が一本松塚古墳です。
現状は封土がかなり削られていますが、直径約15mの円墳です。羨道・副室・玄室からなる複室横穴式石室で、玄室の奥の壁の花崗岩にベンガラで幾何学文様が描かれています。剥落や脱色で鮮明ではありませんが、10本の放射線が描かれています。1950(昭和25)年に始まる発掘で、玄室は既に盗掘されていましたが、副室から土師器・須恵器・装身具・鉄製品・金銅製の馬具等の副葬品が出土しました。この古墳の築造年代は6世紀末頃と推定されています。
   
国道199号線に戻り東に進みますと、新幹線が高架で国道を横断していますので、その下を左に入って行きます。新幹線の高架橋沿いに進みますとこの通りに出ます。ここはかって戸畑線の電車が通っていました。通りを横断して向こう側から西方向を見ています。左の建物は日明団地で1階はショッピングセンターになっています。電車が通っていた時の西側の次の電停は中井口でした。
反対の東側に行くとすぐ板櫃川に出ますが、その手前に日明電停がありました。板櫃川に架かった和泉橋を渡った先で国道199号線に合流します。電車が通っていた時は、日明の次の電停は大門でした。大門で北九州線の本線につながりました。
 
   
旧電車通りを横断して、新幹線の高架橋を挟んで二本の細い道路が沿って通っていますので、北側の道路に入って行きます。先方に板櫃川に架かった平松橋が見えますが、その手前を左に入って行きます。住宅地の中を進んだ突き当りが杉田久女の旧居になります。その前を更に進むと、極楽橋の手前の板櫃川河畔に出ます。
杉田久女(1890−1946)は、1909(明治42)年杉田宇内(うない)と結婚し、小倉中学校(現在の小倉高校)の美術教師になった夫と共に小倉に来ます。最初小倉市鳥町2丁目(現在魚町2丁目)に間借りしますが、すぐに京町4丁目(京町2丁目)の薬種商の別棟の2階に間借りします。1914(大正3)年企救郡板櫃村字日明2535番地(小倉北区日明1丁目7番)に移って来ました。1916(大正5)年久女の次兄の赤堀月蟾(げっせん)が同居し、月蟾から俳句の手ほどきを受けます。翌年早々「ホトトギス」に投稿した句が掲載されます。その後も次々と載せられます。 1918(大正7)年堺町111番地(紺屋町13−13)に引越します。
久女が板櫃川河畔で過ごした時代を描いた小説「河畔に棲みて」があります。小説ですから登場人物は他の名になっていますが、ここでは実名にします。杉田夫婦と数え6つと誕生間もない娘の4人家族の河畔の家に、久女の次兄赤堀月蟾がやって来ます。次兄は東京で失職し、職を求めて妹に所にやって来ました。小説では、次兄がやって来た秋から年が明けた数か月が描かれています。小説の中には、板櫃川河口の大正時代の風景が描かれています。現在「河畔に棲みて」は「杉田久女全集第二巻」の巻頭に掲載されていますが、絶版になっています。
北九州市立図書館から貸出を受けて、読むことができます。
この地図は、国土地理院発行の2万5千分の地形図(八幡市)の1922(大正11)年側図の地図を使用しました。杉田久女が日明に居住していた頃の地図です。
文字の横書きは右からです。板櫃川は河道の付替え以前です。右の大文字「市倉」は小倉市の小がカットされています。市の左下の神社の記号は小倉祇園の八坂神社で、その付近が鋳物師町です。八坂神社は1934(昭和9)年小倉城の北ノ丸に移されました。平松の文字の左下が極楽橋で、その右下の神社の記号は水神社です。日明の左側の学校の記号は現在の日明小学校です。日明の下に電車の停留所があります。日明電停です。その下に中学校の文字があります。小倉中学校で、現在の小倉高校です。
   
新幹線の高架橋下の道路に戻り、平松橋を渡ります。平松橋の南側、板櫃川の上流の眺めです。手前が新幹線の高架橋下の南側の橋で、先が和泉橋です。和泉橋の左上が小倉高校です。杉田宇内は当時の小倉中学校に奉職していました。日明電停は和泉橋の右手にありました。久女の小説には、停留所は家の縁側から見え、町の方からの電車は5分間おきに菜畠の間を走って来たことや、電車を下りた人が川堤を歩いて来たことが書かれています。
板櫃川は、高台にある小倉高校の右手、西側を流れますが、河道の付替え以前はこの橋のすぐ先に左、東から弧を描いて流れて来ました。このため、小倉城築城時は板櫃川を濠として利用しました。
小倉城築城については、「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。
 
   
平松橋の北側、板櫃川の下流の眺めです。左手が日明で、右手は平松です。次の橋は極楽橋で、2009(平成21)年に架け替えられました。橋の向こうは市営ひらまつ団地の高層住宅が建っています。かっての平松の住環境は劣悪で、隣家の軒が接するような防災面でも大問題でした。1997(平成9)年よりまちづくり事業が始まり、2006(平成18)年事業は完了しました。平松の手前は戸建て住宅になっています。
平松橋を渡って平松に入りますと、水神社があります。久女の小説には、「川向こうの水神の小祠」と書かれています。「お宮の松の下辺には菜の緑色がのべられた」という松は、現在は見当たりません。
   
水神社の左横の道を北に進みます。戸建て住宅の間を通り、極楽橋に通じる道路を横切り、高層住宅が並ぶ所を進むとJR鹿児島本線の線路に突き当たります。久女は小説で平松のことを漁師町と書いています。線路の手前に、漁師達が大漁を祈願する蛭子神社があります。
蛭子神社右側に、背後の線路の下を北側の漁港に、人が一人歩いて行ける程度のガードがあります。
 
   
平松漁港の東側からの眺めです。左手の南側にJR鹿児島本線が通っています。先方の西側に板櫃川が流れていて、漁船はそこの水路を通って、埋立地の間の日明泊地を通って関門海峡の西出入口に出ます。
江戸時代、平松の漁民は小倉藩主へ魚を献上したり、御用船の漕ぎ手役を務め、小倉祇園には神輿で参加しました。
小倉祇園については、「北九州の催事」の「小倉祇園」をご覧ください。
この壺を使って蛸壺漁が行われます。漁船からロープでつないだ蛸壺を流し、暗くて狭い所に入る習性を利用して蛸を獲ります。潮流の速い関門海峡のマダコは、岩にしがみつくため足は太く短く肉厚で、プリプリとして美味しいことが評判で、2006年(平成18)年平松漁協(現在は北九州漁協平松支所)は「関門海峡たこ」として商標登録しました。
   
極楽橋に通じる道路に戻り、西に向かって進み、極楽橋を渡ります。極楽橋から南側、板櫃川の上流の眺めです。
橋は平松橋で、その上を新幹線が通っています。右端が杉田久女の旧居です。
この後、1918(大正7)年に堺町111番地(紺屋町13−13)に引越し、1931(昭和6)年富野菊ヶ丘560番地(上富野1丁目)に移りました。久女は女流俳人として才能を発揮しますが、その人生は波乱万丈でした。1946(昭和21)年大宰府で病死します。夫宇内は小倉を引き上げ、愛知県西加茂郡小原村に帰ります。1962(昭和37)年杉田宇内は死去します。
極楽橋の北側、板櫃川の下流の眺めです。橋は歩行者専用橋の明松橋です。その先はJR鹿児島本線の鉄橋で、その先がかっては海岸でした。極楽橋を渡ると左側の川沿いの道を行き、明松橋のたもとから左に入って行くのが、かってのメインルートでした。
江戸時代、小倉藩の城下、紫川西岸の北端の八百屋町に獄舎があり、死刑囚は裸馬に乗せられ、そこから大門を経由して、地獄橋を渡って刑場に向かいました。明治になって、地獄橋は極楽橋と呼ばれるようになりました。
明松橋の日明側のたもとを過ぎると、両側は人家になります。その先は、旧電車通りからJRの線路を踏切り、北側の新道の国道199号線に出て、西港町に到る通りと交差します。その通りを直進して通り過ぎます。左手に墓地があります。平松墓地です。その中に、1787(天明7)年建立の銘がある無縁仏を祀る法界塔の上に、地蔵尊が置かれています。1820(文政3)年、儒者上原ら9名が処刑されました。平松の漁民は上原らを弔う地蔵尊をつくりました。この平松地蔵は首切り地蔵とも呼ばれ、刑場があった西を向いています。  
   
その先を行くと、もうひとつ平松墓地があります。その墓地の西のはずれに、日明浜処刑諸霊塔があります。処刑された人々の慰霊塔です。ここが刑場跡になります。
江戸時代、大名・旗本は、地位を求めて有力者に働きかける猟官運動を盛んに行いました。小倉藩もその例に漏れませんでした。朝鮮通信使来朝の折、藩主小笠原忠固(ただかた)は正使として、対馬で応対しました。この功により、家老小笠原出雲は出府して、忠固の猟官運動を行い、多額の資金を費消しました。犬甘兵庫の働きで成功していた藩の財政再建は、これにより再び窮乏し、禄米の一部を借り上げる掛米が再び始まりました。藩士の不満は高くなり、犬甘兵庫より取り立てられていた広寿山儒者上原与一は小笠原出雲に反対するように、他の家老を説得しました。長崎奉行に投書したり、小笠原出雲に近い者を暗殺したりしました。そして遂には、小笠原出雲を暗殺しょうとしましたが、露見し、これに組していた者達は解職されました。1814(文化元)年、上原や家老4人を含む約360人が筑前黒崎に脱出しました。驚いた小倉藩は帰国を説得し、脱国者は復職と小笠原出雲の解職を要求しました。要求は容れられ、脱国者は小倉に帰りました。黒崎に脱国した者を黒組、小倉に残った者を白組といい、この事件を白黒騒動(文化の変)といいます。幕府がこれを知ったため、翌年、脱国者は解職・逼塞を命じられ、1820(文政3)年、上原ら9名が処刑されました。
   
西港町に到る通りに戻り、北側のJR鹿児島本線の踏切を通り過ぎると、国道199号線の交差点に出ます。国道の上を都市高速の高架道が通っています。交差点を直進すると、西港町の臨海工業団地になります。
交差点を右折すると板櫃川に架かった港橋があります。そこから上流を見ています。左側に板櫃川が仕切られ、平松漁港への出入口の水路になっています。
港橋の下流に新港橋が架けられています。この橋は国道199号線から東港に到る道に架けられています。新港橋から日明泊地の方向を見ています。左が西港町で、右が東港です。関門海峡の西出入口はずっと先になります。


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