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部埼灯台
  門司区大字白野江  [2012/12/29]
 

 
企救半島の北東端に白野江(しらのえ)は位置し、その北東端の岬が部埼(へさき)です。周防灘に張り出した丘陵地に部埼灯台は建っています。関門海峡の東の出入口に当たり、部埼灯台は1870(明治3)年に着工され、1872(明治5)年に点灯されました。関門海峡の西の出入口に当たる六連島(むつれじま、下関市)の六連島灯台も、同時期着工され、点灯されています。

1853(嘉永6)年、ペリーは艦隊を率いて浦賀沖に来航し、開国を求める米国大統領の国書を江戸幕府に提出しました。翌年、ペリーは再度来航し、日米和親条約が結ばれ、下田と箱館が開港しました。その後に英・露・蘭とも同様の条約を結び、神奈川条約とも呼ばれました。1856(安政3)年、米国領事タウンゼント・ハリスが下田に来日し、幕府と通商条約締結の交渉を始めました。1858(安政5)年大老に就いた井伊直弼は日米修好条約を締結しました。同様の条約を英・仏・蘭・露とも結び、安政五か国条約とも呼ばれました。この条約で箱館、神奈川(のち横浜に変更、下田は閉鎖)、長崎、新潟、兵庫(実際は神戸)の開港、江戸、大坂の開市が決められました。

徳川将軍後継問題に、開国か攘夷の問題が加わり、井伊直弼は反対派を処断しました。これが安政の大獄でした。箱館に加えて1859(安政6)年横浜、長崎が開港されました。1860(万延元)年、安政の大獄に憤激した尊王攘夷派浪士により、井伊直弼は桜田門外で殺害されました。この後、多数の外国人襲撃事件が起き、外国人は戦々恐々とし、その責任は幕府に降りかかり、賠償問題や外交問題が発生しました。1962(文久2)年薩摩藩士にイギリス人が殺害される生麦事件があり、翌年、その報復に英国艦隊が鹿児島沖に来航して砲撃する薩英戦争がありました。この戦争の講和の後、薩摩藩は攘夷の無謀を悟り、イギリスに接近していきます。

1963(文久3)年、長州藩は朝命を受け、攘夷決行日に関門海峡を通る米・仏・蘭の船舶を砲撃しました。これを下関事件と呼びます。公武合体派の薩摩・会津藩などは京都から攘夷派の長州藩を追放します。攘夷派の七公卿も都落ちします。翌1964(元治元)年、長州藩の急進派が入京し、薩摩・会津藩などと交戦します。一時は御所内も戦場となります。これを禁門の変といいます。長州藩は撃退され、敗走します。これに対し、幕府は長州討伐の勅命を受け、西南の藩に出撃準備を命じました。同年、下関事件の報復と関門海峡の安全な航行のために、英・仏・米・蘭四か国の艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊が上陸して砲台を占領しました。下関事件と四国艦隊下関砲撃事件をあわせて下関戦争とも呼びます。この結果、長州藩内に開国を主張する勢力が台頭します。征討軍に包囲された長州藩は、恭順の意を示し、家老達が切腹しました。この後藩内の主権を握った門閥派により急進派は弾圧されます。同年末、高杉晋作は挙兵し、諸隊が呼応します。門閥派は追放され、急進派が復帰します。

長州藩は外には恭順で、内には富国強兵策を採りました。そのために薩摩藩や、薩摩藩を通じてのイギリスとの関係を強めていきました。土佐藩の坂本龍馬は薩摩藩と長州藩とを仲介しました。1865(慶応元)年、幕府は長州藩の急進派による政権奪取の報告を受けました。朝命を受けて、幕府軍は上洛しました。第二次長州征討を幕府は考えていましたが、薩摩藩は反対でした。疲弊が増し、民衆の反発を買うことで諸藩も反対でした。幕府は強硬に再度の長州征討を朝廷に要求し、遂に勅許されます。安政五か国条約はまだ勅許されていませんでした。英仏米蘭の四国代表は海上で将軍が大阪に戻るのを待っていました。

幕府・朝廷・在京諸藩代表が集まって朝議が開かれ、薩摩藩や公卿達は反対しますが、一橋慶喜の強硬な意見で条約は勅許され、兵庫開港の早期実施は努力し、税率改定交渉に同意し、下関戦争賠償金を支払うとし、翌1866(慶応2)年、英仏米蘭の四国と幕府の間で改税約書(江戸条約)が調印されました。この中で、観音埼・野島埼・樫野埼・神子元島・釼埼・伊王島・佐多岬・潮岬灯台の8か所の建設が約束されました。その当時日本の近海は、外国船からダークシーと呼ばれる危険な海域でした。暗礁が多く、夜の海には常夜灯や灯明台しかありませんでした。

幕府は第二次長州征討の体制を強めていきますが、動員された各藩は帰国したいとの気持ちが強くなりました。1866(慶応2)年6月長州藩を取り巻く各地で戦闘が始まりますが、各地の戦線で幕府側の諸藩は敗退します。幕府側の敗戦中、将軍家茂は死去します。1866(慶応2)年12月、孝明天皇は病に倒れ死去しました。1866(慶応2)年12月5日、慶喜は第15代将軍に就きます。翌1867(慶応3)年1月9日には明治天皇が即位しました。

1867(慶応3)年3月末、将軍徳川慶喜は大坂城内で、英仏米蘭の公使達と会見し、同年12月の兵庫開港を確約しました。幕府と英国公使は兵庫開港に備えて大坂約定(大坂条約)を結び、江崎・六連島・部埼・友ヶ島・和田岬の5灯台の建設が約束されました。この年幕府は大政奉還を決め、10月14日将軍慶喜から奏上され、翌15日に許されました。しかし、開港は旧暦慶応3年12月7日約束通り行われました。列強ににとっては新暦1868年1月1日にあたります。1872(明治5)年太陽暦が採用されるまで、日本は太陰暦(旧暦)でした。兵庫港は、のち神戸港と改称されました。そして灯台は明治になって建設されました。

1868(明治元)年日本初の洋式灯台の三浦半島東端の観音埼灯台は着工されました。レオンス・ヴェルニーをリーダーとするフランス技師団により設計、建設され、翌1869(明治2)に点灯されました。野島埼灯台もレオンス・ヴェルニーにより設計、建設されました。江戸条約の樫野埼・神子元島・釼埼・伊王島・佐多岬・潮岬灯台の6か所はリチャード・ヘンリー・ブラントンをリーダーとするイギリス技師団によって設計、建設されました。

1868(明治元)年、明治政府の雇い灯台技師としてリチャード・ヘンリー・ブラントンは、二人の助手と共に来日しました。28歳で、妻子を伴っていました。1876(明治9)年帰国するまで、30余の灯台を設計、建設しました。リチャード・ヘンリー・ブラントンは、航海標識として体系的に整備した灯台システムを確立し、「日本の灯台の父」と呼ばれています。大坂条約で約束された5か所の灯台すべてもリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計、建設しました。それは、関門海峡の東の出入口に当たる部埼灯台、関門海峡の西の出入口に当たる六連島灯台、和歌山市加太沖紀淡海峡の友ヶ島灯台、淡路島の江崎灯台、神戸市の和田岬灯台です。

部埼灯台には、その前史といえる僧清虚(そうせいきょ)による火焚きがあります。この前の海を船で通りかかった僧清虚は、ここが海の難所であることを聞きました。山上で清虚は、死去するまで火を焚き続けます。その思いは、灯台建設まで村人に引き継がれました。  
県道72号黒川・白野江・東本町線の白野江郵便局前交差点から海沿いの道を北に進みます。右が防波堤で、左に家並が続く道を進むと、右に海が見え、左に採石所が続きます。青浜海岸に入って来ます。右が高い防波堤で、左に集落があります。ここには僧清虚の墓がありますので、帰りに訪ねます。そのまま北上しますと、左手に採石場があります。その先、右端の堤防の外側に、僧清虚の像が立っているのが見えます。左側の林下の左端に、部埼灯台への石段があります。道路の先は採石場に入って行きますので、進入できません。帰りはここでUターンして戻ります。
   
石段が石積みの崖の上の方に伸びていきます。つづら折りになっていますが、5回ほど折り返しで、林から先方が明るく見えてきます。その手前で左手に灯台はちらりと見えますが、そのまま進むと、眼下に海が広がる僧清虚火焚場跡に出ます。  
   
実際の僧清虚火焚場跡は灯台背後の山頂付近にありましたが、大雨で流失しました。僧清虚が火焚きを始めて170周年を記念して、2008(平成20)年この地に復元されています。前方の四角で囲まれた個所が火焚場の間取りになっています。手前左は薪置場と書かれた石碑が置かれています。手前右は休憩室と書かれています。
1838(天保9)年から1850(嘉永3)年死去するまでの13年間、僧清虚は火を焚きを続けました。1843(天保14)年、小倉藩は焚火灯明法から篝火灯明法に切り替えさせました。この頃から下関の廻船問屋らが援助しました。清虚の死後は、村人の利三郎が引き継ぎ、1860(万延元)年青浜村の四家の輪番制になり、1868(明治元)年廃止になりました。
   
僧清虚火焚場跡からの部埼灯台です。左側に石段があり、ここも灯台関係の建物が建てられていたと思われます。
石段を昇って行った正面からの部埼灯台です。灯台基部は平屋建てで花崗岩の石造りです。灯台は二階建てで屋根は鉄製のドームになっています。灯台の高さは9.7mです。
部埼灯台の背面です。灯火は海面から39mになります。海は周防灘で、右、東に行けば、瀬戸内海、豊後水道に到ります。左、西は関門海峡の東出入口です。
部埼灯台の背面右側の出入口の上にある銘板に、1872(明治5)年1月22日点灯と記されています。1870(明治3)年12月に着工しました。これらの日付は太陰暦(旧暦)です。旧暦の明治5年12月3日が新暦の1873(明治6)年1月1日になりました。
部埼灯台は、洋式灯台で九州で伊王島灯台、六連島灯台に次いで3番目で、現存する中では六連島灯台に次いで2番目になります。全国では、観音埼灯台から数えて15番目になります。
 
   
部埼灯台の背後の一段高い所にある建物は、部埼潮流信号所です。関門海峡は潮流が速く、S字に湾曲しているため、航行の安全の目的で、1909(明治42)年潮流信号所が設置され、航行する船舶に潮流の方向や速さを知らせました。東の出入口のここと、西の出入口の彦島の北西端の竹の子島の2か所に設置されました。1979(昭和54)年からは現在の電光板になり、早鞆瀬戸に近い火の山下に潮流信号所が追加され、3か所になっています。
部埼潮流信号所への石段の右横に建物跡が見えます。かってここに官舎があり、灯台と同じ石造りでした。
   
部埼灯台から北方向の眺めで、対岸は下関です。中央の小島は満珠で、左の塔の右に小さく見える小島が干珠です。満珠・干珠は神功皇后が海中から得た玉を納めた島と伝えられています。この二島は、下関市長府の忌宮神社の飛地境内です。
部埼灯台から西方向の眺めです。左端の山は下関の火の山です。手前は門司の太刀浦コンテナーターミナルです。
海岸まで降りて行きます。堤防の外側に、僧清虚(1777-1850)の像が立っています。像は海の難所に向かって立っています。像の高さ11m、台座の高さ3mで、1973(昭和48)年建立されました。大分国東の太兵衛は、若い頃誤って友人を死に到らせました。罪に問われませんでしたが、このことで出家し、清虚と名乗りました。1836(天保7)年国東の竹田津港から下関を経由して高野山に修行に向かう途中、船に乗り合わせた客が数珠を手に、念仏を唱えているの見ます。ここが狐埼、念仏埼と呼ばれる海の難所と知り、船頭に頼み青浜海岸に上陸しました。僧清虚は、13年間山上で読経して、灯明台に火を炊き続けました。  
   
来た道を戻ります。部埼灯台のある小山の南は砕石置場になり、その奥は採石所です。部埼灯台のある小山の部分だけが残されて、北と東は海で、南と東は採石所の用地になって削られています。そこを過ぎると、道は右に曲がり、左に弧を描く青浜海岸になります。道の右の西側に集落が並び、左の東側は高い防波堤になっています。防波堤の所々から海岸に出ることができます。北側の海岸に出て、南側を眺めています。
砂利を敷き詰めたような海岸です。ここで梅花石が発見されました。梅花石は輝緑凝灰石で、梅花の模様が見られる奇石です。
   
道路に戻って北側を見ています。先に行けば部埼灯台です。右側の堤防に、海岸に出た出入口が見えます。左側に僧清虚の墓の案内があり、150mになっています。  
   
細い坂道を昇って行くと、右手の高台に墓地が見えます。その中で一番大きなこの部埼火焚開基僧清虚老頌徳碑(へさきひたきかいきそうせいきょろうしょうとくひ)が立っています。灯台局長であった広幡忠隆侯爵の筆で、1939(昭和14)年に建立されました。
   
大きな頌徳碑の前の、この小さな墓石が僧清虚の墓です。側面に清虚老の字が見えます。
清虚は托鉢で得たうち、大方を焚火料に充て、1日1食で過ごしました。これを見た村人は乞食坊主と蔑みましたが、しかし、後には心を動かされ、協力しました。
1850(嘉永3)年、清虚は74歳で没しました。没後、その遺志は村民によって受け継がれました。
 


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