北九州点描

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大里
  門司区  [2014/10/25]
 

 
大里は、源平の争乱時代、西下した幼帝安徳天皇一行が行宮(内裏)を構えたことにより付けられた地名と伝えられています。東に戸ノ上山があり、西は関門海峡の大瀬戸に面しています。
1183(寿永2)年、平氏一門は安徳天皇、生母建礼門院(徳子)を擁して、都落ちして西国に向かいます。九州に入った平氏を原田種直・宇佐公通・山鹿秀遠らが迎えます。拠点を大宰府にする予定でしたが、九州の反平氏勢力が意外と強いことが分かります。そこで、瀬戸内海を中心とする勢力を形成するようにします。その前線基地が一ノ谷でした。九州に入っていた安徳天皇一行は大宰府を発ち、山鹿秀遠の山鹿城を経て、門司区大里に柳御所を構え、その後一ノ谷に向かいます。1184(寿永3)年、平氏追討の宣旨が源頼朝に下されました。一ノ谷に向かった源氏は範頼と義経の軍に分かれて攻撃しました。総大将平宗盛は安徳天皇、建礼門院らと共に沖合いの船上にいました。攻撃は一進一退でしたが、一ノ谷の背後の断崖の上に出た義経の奇襲攻撃、いわゆるひよどり越えの逆落としによって平氏は大混乱となり総崩れします。生き残った者は海に逃げ、平氏の船は屋島に逃げ去ります。

一ノ谷の戦いの後、頼朝は義経に屋島攻撃を命じます。1185(元暦2)年、義経は奇襲攻撃をかけ、平氏はほとんど戦わず、彦島に逃れます。屋島で1月準備をした義経は河野・熊野水軍を味方にして、満珠島に陣を張ります。同年、3月24日彦島を出て、田野浦(現在北九州市門司区)に集結した平氏の軍船と源氏の軍船の間で戦いが始まります。この関門海峡の潮流の中での戦いを壇ノ浦(現在下関市)の戦いと言います。山鹿秀遠、松浦党等の平氏方の海の勇者の奮戦もむなしく、早朝から始まった戦いは正午頃には勝敗を決し、午後になると平氏一門は海中に身を投じます。安徳天皇・二位尼(清盛の妻)は入水し、建礼門院も入水しますが、救い上げられました。壇ノ浦で平氏は滅亡します。 

大宰府の直轄地であり、平氏没官領の門司関に下総親房(しもふさちかふさ)が北條時頼の時代に下向して来ました。平氏の残党が蜂起したことにより、豊前国に地頭職を与えられ、関東で受け取る地頭得分が届かないという訴えに対し、軍船70艘を率いて親房は着任したと伝えられています。下総氏は鎌倉末期頃より門司氏と称します。その門司氏は水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。門司氏の本拠は門司城で、早鞆の瀬戸を望む古城山にありました。門司氏の所領は門司六郷で、片野(現在の小倉北区三萩野付近)・柳・楠原(現在の門司港付近)・吉志・伊川・大積郷でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきます。このうちの柳郷は、江戸期の馬寄(まいそう)・新町・柳・大里・小森江・二十町村に当たります。

南北朝時代、門司氏一族は南朝方・北朝方に分かれて争いました。室町時代、豊前・筑前の守護になった大内氏は国人を家臣団に組み込むことに努力しました。筑前より早く領国になった豊前の門司氏は大内氏に接近し、大内氏奉公人の一人になっていました。戦国時代になると門司城を本拠にしていた門司氏は、毛利・大友氏の争いの中で翻弄されました。1587(天正15)年豊臣秀吉は九州を平定します。その後、秀吉は全国統一を成し遂げますが、秀吉の死後、徳川家康が力を得ると同時に、豊臣家内部の権力争いが表面化しました。そして、天下は東と西に分かれて、1600(慶長5)年関が原の戦いがあり、東軍が勝ち、徳川家康が天下を獲りました。関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡40万石を細川忠興は与えられました。1632(寛永6)年、細川氏は肥後に転封され、豊前国の企救・田川・京都・仲津・築城の五郡と上毛郡の一部の15万石が、譜代大名で明石城主であった小笠原忠真(ただざね)に与えられ、忠真は小倉に入部しました。

江戸時代の柳村と大里村に当たる場所をここでは紹介します。柳村には柳御所跡があり、大里村には関門海峡を隔てた赤間ヶ関(下関)との渡海地として、大里宿が置かれました。
幕末、尊王攘夷派によって再び藩の実権が握られた長州藩を、幕府は四方向から攻撃しました。1866(慶応2)年6月の第二次長州征討戦は大島口の戦いで始まり、順次芸州口、石州口、そして小倉口の戦いが始まりました。他の三方向の戦いは、短期間で長州藩の大勝で終りました。6月17日未明、長州軍の田野浦急襲で小倉口の戦闘は始まりました。小倉軍は圧倒され、大里方面に後退しました。7月2日長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。しかし、長州軍は進攻を一時中断しました。

7月27日堂崎港(下関市唐戸)を出港して白木崎(門司区葛葉)に上陸し、長州軍の進攻が始まりました。大里を経て、馬寄・藤松・新町と進み、激しい戦闘となりました。赤坂・鳥越で長州軍は肥後軍の攻撃を受けました。連戦連勝の長州軍はこの戦闘で大きな損害を受けました。しかし諸藩の兵や幕府軍は戦列に加わりませんでした。幕府軍に不信の念を持った肥後軍は赤坂・鳥越から密かに撤退しました。7月20日大坂城で将軍家茂が急死し、小倉口総督小笠原長行は密かに報らされていました。7月29日夜半、小笠原長行は幕府軍艦で小倉から離脱しました。これにより諸藩の兵も引き揚げました。8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。この小倉藩と長州藩との戦いを小倉戦争、豊長戦争と呼びます。

1887(明治20)年、大里・柳・二十町・東原町・馬寄・新町村が合併して柳ヶ浦村になりました。1891(明治24)年、九州鉄道により門司-高瀬間の鉄道が開通しました。この当時の門司駅が現在の門司港駅で、現在の門司駅は大里駅でした。1908(明治41)年、柳ヶ浦村は改称し、大里町になりました。鉄道により内陸部と分離された海岸沿いの土地に、台湾で事業に成功した神戸の鈴木商店が進出し、精糖・製粉・酒精・製鋼・ビールなどの工場が建設されました。1923(大正12)年、大里町は門司市に編入されました。1927(昭和2)年、金融恐慌で鈴木商店は破綻しました。操業停止になった企業もありますが、系列の多くの企業は再建されて存続しました。

1942(昭和17)年、海底トンネルの関門鉄道トンネルが開通し、大里駅が門司駅、門司駅が門司港駅に改称されました。下関からトンネルを通った列車は、門司駅に着くようになりました。戦後、交通の要衝であった門司港の役割は低くなっていき、逆に、大里地区は発展していきました。門司駅の北側にはサッポロビール門司工場がありましたが、工場が老朽化したため、大分県日田市に新工場が建設され、2000(平成12)年に工場は閉鎖されました。創業時からあるビール工場の建物は残されましたが、工場跡地があった門司駅北側は再開発され、新しい街がつくられました。
門司駅の南口です。手前は国道3号線です。1891(明治24)年4月黒崎・門司間の鉄道が開通した時、ここより500m程東に大里駅が建設されました。1942(昭和17)年開通した関門トンネルが大里駅より西になるため、駅はこの地に移設されました。それまで門司駅であった駅が門司港駅となり、大里駅は、関門トンネルを挟んで、本州側の下関駅に対する、九州側の門司駅となりました。
門司駅は2004(平成16)年、改札口が3階にある橋上駅に建替えられました。門司駅は3階建てで、中央部を上って行くと、3階の広い自由路で、駅の山手側の南口と海岸側の大里赤煉瓦タウン口(北口)とが連絡されています。
国道3号線の門司駅前の駅前西交差点から東の山手に伸びた通りを不老通りといいます。その柳町3丁目の交差点を左折しますと、右手に大里交番があり、その斜め前の左手道路脇に井戸があります。風呂の井戸といいます。
安徳天皇一行が柳ヶ浦に着いた折、旅の疲れを癒すため、泉の水を風呂に用いました。この鏡ヶ池玉水は、それ以来安徳帝風呂の井戸と言い伝えられました。風呂の井戸の隣に風呂の地蔵が安置された地蔵堂があります。風呂から不老に転じて、不老が地名に使われようになりました。
   
風呂の井戸の前の道路を先に進みますと、県道71号新門司港・大里線の戸ノ上1丁目交差点に出ます。そこを右折し山手に進みますと、高架の都市高速の下に戸上神社の鳥居が見えます。駐車場は道路が左カーブした先の右手にあります。
江戸時代、大里は陸海交通の要衝であったため、ここには交通安全の祈願での参詣が多かったといわれています。高架の都市高速の下を通り過ぎた所にこの鳥居はあります。筑後久留米藩の船屋敷衆が寄進したものです。久留米藩船屋敷は、現在の門司駅の上り隣駅、小森江駅の西側の海岸にありました。
 
   
戸上神社の社殿は最近改築されました。背後に標高517.8mの戸ノ上山が見えます。ここが本宮で、山頂に上宮があります。
平安時代の寛平年間(かんぴょう、889~98)柳ヶ浦の漁師が海から玉を引き揚げます。玉を高い所に祀るように天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の神託があったため、木の枝を折って作った戸、枝折戸(しおりど)に奉戴して山上に祀りました。このため、この山を戸ノ上山と呼びました。
社殿の手前、一段低い右手に大師堂があります。806(大同元)年、空海が唐より帰朝の折、関門海峡より霊峰が見えたので上陸し、密法を修業され、お堂を建立されました。それを満隆寺と号しました。堂宇・僧坊があった時代もあったようですが、現在の大師堂は満隆寺の名残です。
   
戸上神社から県道71号新門司港・大里線を戻ります。戸ノ上1丁目交差点を直進して坂を下りますと、御所神社前交差点があります。そこを右折しますと、すぐ右手に御所神社があります。ここが柳御所の跡地といわれています。御所神社の鳥居を入った内側の左横に、小さな石室があります。ここに安徳天皇、平宗盛を模した神像が安置されていて、土地の人々に密かに祀られていたようです。
御所神社の拝殿は、1902(明治35)年、明治天皇が熊本での陸軍特別大演習にお出での際に、大里駅に造られた休憩所の建物がここに移され、拝殿として遺されました。
 
   
御所神社から県道71号新門司港・大里線に戻り、先に進みます。国道3号線との大里戸ノ上交差点を左折して、国道を進むとすぐ右手に門司駅があります。門司駅南口から3階に昇り、改札口の前を北に進みます。広い自由路で南口と大里赤煉瓦タウン口(北口)が連絡されています。 海側に向かって進み、振り返ると門司駅の向こうに戸ノ上山が見えます。
門司駅の南側から北側に車で行く場合は、国道3号線大里戸ノ上交差点を海岸側に行き、JR鹿児島本線のガードをくぐって進むと、国道199号線大里本町3丁目交差点に出ますので、左折して進むと、門司駅北側の駅前北交差点に出ます。
   
工場跡地の門司駅の海岸側は、大里本町区画整理事業として再開発され、大里赤煉瓦タウンと呼ばれています。マンションや住宅が建ち、国道199号線沿いには、商業施設が建ち並んでいます。海岸はウォーターフロントとして公園になっています。  
   
ウォーターフロントの公園からの眺めです。関門海峡大瀬戸をはさんだ対岸は下関市彦島です。右の彦島に沿って、左端の小倉北区の新日鐵住金八幡製鐵所小倉地区との間を通って先に進むと、関門海峡西口から響灘に出ます。
1912(明治45)年、鈴木商店により帝国麦酒が設立され、翌年1913(大正2、前年7月大正と改元)年、大里に工場が完成し、操業が始まりました。会社の統合などもあり、1964(昭和39)年、サッポロビール門司工場となります。しかし、工場が老朽化したため、大分県日田市に新工場が建設され、2000(平成12)年に工場は閉鎖されました。
創業時からあるビール工場の建物は残されました。これら建物を保存・活用するのはNPO法人の門司赤煉瓦倶楽部です。
赤煉瓦のこの建物は旧醸造棟です。内部にはドイツ製の醸造機械が残されています。この周辺には4つの歴史的な建物が残されました。旧醸造棟、旧事務所棟、旧組合棟、旧倉庫棟で、それらを含めて門司赤煉瓦プレイスと呼びます。門司赤煉瓦プレイスのモニュメント的な建物がこの旧醸造棟です。
門司赤煉瓦プレイスについては、下の公式サイトをご覧ください。
  http://www.mojirenga.jp/
創業時ここで製造されたビールは、サクラビールの名称で販売され、一時社名も桜麦酒となります。札幌ビールの札幌麦酒と恵比寿ビールの日本麦酒が合併した日本麦酒に、桜麦酒は吸収されます。1964(昭和39)年、日本麦酒はサッポロビールと名称を変えました。
この建物は旧事務所棟です。赤煉瓦の醸造棟や倉庫と違い、製鉄の鉱滓レンガが使われています。現在は北九州市門司麦酒煉瓦館として、館内ではビール工場の歴史や資料が展示されています。
この旧事務所棟と隣の旧醸造棟の間を入って行った所に、旧組合棟があります。他の建物が1913年の建築に対し、1917(大正6)年築の赤煉瓦の平屋建てです。建設当初は変電施設でしたが、サッポロビール時代には組合の事務所として使われました。現在は赤煉瓦写真館として、フォトスタジオとして使われています。
旧事務所棟の前が旧倉庫棟です。2棟の倉庫からなっています。現在は赤煉瓦交流館として、ホールや会議室がある交流館とレストランがあります。
建物の手前角に「長崎番所趾」の石碑が立っています。江戸時代、長崎奉行所はここに大里浦出張所を設置しました。密貿易の取り締まりと、中国への輸出物の俵物・諸色を長崎に送る中継保管基地として設置しました。俵物はいりなまこ・ほしあわび・ふかひれを俵物三品といい、それ以外の寒天・昆布・鰹節・するめなどを諸色といいました。
旧醸造棟・旧事務所棟と旧倉庫棟の間の道が江戸時代の街道筋です。小倉は長崎街道の起点で、小倉と大里の間の街道を門司往還といいました。旧倉庫棟の先に赤煉瓦の倉庫が並んで建っています。そこに「豊前大里宿趾」の石碑が立っています。ここから旧大里宿当時と変わらぬ道幅の通りが続いています。国道199号線に並行する町並で、旧街道筋は突き当たりの関門精糖の横の道路まで続きます。
右手に「一里塚標石趾」の石碑があり、その先の民家の前に「人馬継所趾」の石碑が立っています。継ぎ立ちの人馬を常備していた宿場の施設が人馬継所でした。
   
県道71号新門司港・大里線を横切ります。すぐ左に「御高札・南郷屋跡」の石碑が立っています。高札は幕府や藩の通達を掲示しました。南郷屋では藩の役人が各村の庄屋に通達と打ち合わせをしました。その先を進み、右側小道の角に「重松彦之丞屋敷趾」の石碑が立っています。重松家は脇本陣で、地図作製の測量の旅で訪れた伊能忠敬が止宿しました。その先に交差点があります。その先に玉砂利の中央が石畳の仏願寺の参道が道の左右に伸びていて、右の突き当たりに山門が見えます。
秋には仏願寺の山門越えに色付いた境内のイチョウが望めます。1866(慶応2)年の第二次長州征討戦において、7月2日長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。翌日まで激戦が続きました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。仏願寺はその際の兵火で焼失しましたが、1884(明治17)年再建されました。
 
仏願寺の斜め前に「永野九助屋敷跡」の石碑が立っています。こちらは岡永野の脇本陣でした。街道筋の海岸側に浜永野の脇本陣がありました。仏願寺の前の通りを先に行くと八坂神社があります。
仏願寺から街道筋に戻り、先に進みます。左手に「御在番役宅・浜郡屋跡」の石碑が立っています。石碑の横は細道で、右に浜郡屋があり、左に御在番役宅がありました。浜郡屋では、湊に出入りする人や船の検問や取り締まり等を役人や庄屋等が協議しました。
その先、右手に八坂神社の鳥居があり、その横に「本陣(お茶屋)趾」の石碑が立っています。お茶屋は小倉藩の施設で、九州の諸大名、長崎・日田の代官、オランダの使節等が使いました。
この斜め前に、「御番所趾」の石碑が立っています。その横の通りは御成小路といって、本陣と湊を結ぶ通りでした。突き当たりの湊に御番所がありました。御番所では、在番役人が船の出入り、切手の改め、抜荷の取り締まりを行いました。この辺りが大里宿の中心地に当たります。
   
先に進むと交差点になり、そこを横切ったすぐの左手の民家の車庫の横に「大里村庄屋石原宗祐屋敷趾」の石碑が立っています。石原宗祐の業績については、「北九州点描」の「猿喰」と「曽根干潟」をご覧ください。
先に進むと、右と左に寺があります。右にあるのが大專寺で、左にある広い境内の寺が西生寺(さいしょうじ)です。江戸時代、キリスト教は禁制となり、宗門改めで踏絵が行われました。企救郡の踏絵はこの西生寺で行われました。西生寺は踏絵が行われた判行寺でした。やはり第二次長州征討戦の戦火に見舞わて焼失し、1883(明治16)年再建されました。
 
   
西生寺の先を行くとすぐに突き当たり、その先は関門精糖の工場です。そこを左折すると、国道199号線になり、国道を挟んで、海岸沿いに赤煉瓦の倉庫群が見えます。1903(明治36)年鈴木商店は精糖業に乗り出し、大里に進出して大里精糖所の建設に着手し、翌年操業を始めます。1907(明治40)年大里精糖所を大日本精糖に売却して、多額な売却益と製品の販売権を得ました。1996(平成8)年大日本精糖と明治製糖が合併し、大日本明治製糖になっています。関門精糖は大日本明治精糖から砂糖製造を委託された会社の一つです。
鈴木商店は、大里精糖所を売却後、この北側の海岸沿いに製粉・酒精・製鋼等の工場を建設し、操業します。昭和初期の金融恐慌で鈴木商店は破綻しますが、これらの工場は再建されて存続しました。


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