北九州点描

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大積
  門司区  [2015/07/04]
 

 
大積(おおつみ)は門司区の北東部に位置します。東は周防灘に面し、北は白野江、西は黒川、南は喜多久に接します。古代、難所の関門海峡を避けて、ここから船に荷物を積み込んだので、この地名が付いたとの言い伝えがあります。これに対し、船が出入りする大津から付けたという説もあります。これを裏付けるように、南の新門司の埋立地に挟まれた漁港があります。新しい港という意味の今津です。大津に対する地名とも思われます。

平氏は源範頼・義経兄弟に一の谷、屋島で敗れ、1185(寿永4、元暦2)年、壇ノ浦で源氏を迎え撃ちます。最初は東流れの潮流のため、平氏が有利でしたが、その後、西流れになると源氏に有利となり、遂に平氏は敗れます。安徳帝を抱いた清盛の妻で帝の祖母の二位の尼や幼帝の母の建礼門院が入水しますが、建礼門院は源氏側に助けられました。多くの平家の武将や女官達が入水しました。この合戦を最後に、平家は滅亡してしまいます。

壇ノ浦での平家の滅亡後、鎌倉時代に入ります。鎌倉幕府体制は、1192(建久3)年の源頼朝の征夷大将軍就任によって整っていきました。1199(正治元)年頼朝が没します。息子の頼家が将軍に就きます。北条時政は、頼朝と娘の政子の間の子、頼家が将軍に就くことにより、外祖父となり、関東の御家人の間で、その地位を確立していました。頼家は妻方の比企氏に近づきました。これを恐れた時政は比企氏を滅ぼし、頼家を伊豆の修善寺に幽閉しました。1204(元久元)年、頼家は修善寺で殺害されました。時政は頼家の弟実朝を将軍に就かせ、時政は執権に就きました。しかし、実朝も殺害され、頼朝の血統は絶えました。

北条氏は強大な権力を確立していきました。しかし、時政はその子の義時・政子から幽閉され、廃されます。1221(承久3)年後鳥羽上皇は北条氏が主導する鎌倉幕府が崩壊することを望んでいました。北条義時追討の宣旨が下されました。主だった御家人を前に政子は幕府の危機を訴えます。時代の流れ、そして頼朝の恩を訴えます。これにより関東は結束し、京方の敗北で承久の乱は終わります。その後、北条義時・政子が亡くなり、独裁から合議制へ幕府政治は大きく転換しました。そして、執権北条氏が主導する幕府の体制が最盛期を迎えました。

1244(寛元2)年、東国より下総親房(しもふさちかふさ)が大宰府の直轄地であり、平氏没官領の門司関に下向して来ました。門司城を居城とし、水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。下総氏はのち門司氏と称しました。門司氏の所領は門司六郷で、片野(小倉北区東部、三萩野付近)・柳(門司区西部、大里付近)・楠原(門司区北部、門司港付近)・吉志(門司区南部)・伊川(門司区中部)・大積郷(門司区東部)でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきました。

門司氏は門司城を本城として、五つの支城を築きました。片野郷に足立城、柳郷に若王子城、楠原郷に三角山城、吉志郷に寒竹城、大積郷に金山城です。大積郷は大積、黒川、白野江、喜多久からなっていました。金山城は黒川の金山に築かれました。

関門地区には滅亡した平家に関わる話が数多く残されています。かっての大積郷であった黒川にある殿墓(とのばか)に関する話です。平家の武将平休息(たいらのやすおき、平休意の表記もあります)は、命を受けて宇佐八幡宮に戦勝祈願に詣でた帰路、平家一門が壇ノ浦で滅亡したことを知りました。一行は黒川に隠れ住みます。後、彼らは姓を八木田と改め、田畑を耕して暮らしました。黒川の人家の裏手の竹林の中の五輪墓は、平休息とその一族の墓といわれています。

もうひとつ、壇ノ浦で入水した平教経(のりつね)の奥方で、男勝りであった海御前(あまごぜ)の遺体が大積の浜に流れ着きました。村人達は手厚く葬りました。葬られた海御前は、河童の総帥として河童達を支配するようになりました。入水した平家の武士達は平家蟹になり、女官達は河童に化身したといわれています。

時代も南北朝時代に入ると、門司氏一門も南北両朝に分かれて骨肉の争いを行います。この頃より五支城の他に、門司氏領内に11の城が築かれます。大積には、県道72号黒川・白野江・東本町線に接する丸山に、室町時代の文明年間(1469-78)に丸山城が築かれました。築城したのは大積系門司氏の大積上総介隆鎮(おおつみかずさのすけたかしげ)でした。後、大積隆鎮は大友氏と戦い、討死しました。室町時代から戦国時代にかけて、北部九州は豊後の大友氏と中国の大内氏、後は毛利氏との争乱の地でした。在地領主もどちらかに加担することになりました。

1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州平定に乗り出します。1600(慶長5)年関が原の戦いの功で、豊前国と豊後二郡を細川忠興は与えられました。忠興は、1602(慶長7)年小倉城を築城しました。秀吉の九州平定前から関ヶ原の戦いまでの間の門司氏の動静は分かりません。歴史の流れの中に消えていき、門司氏の諸城も廃城されていきました。1632(寛永6)年、細川氏は肥後に転封され、小笠原忠真(ただざね)が小倉に入部しました。

江戸時代から1889(明治22)年の間大積村でした。1880(明治13)年、大積尋常小学校が創立されました。1889(明治22)年、大積・白野江・黒川・喜多久・柄杓田の5か村が合併して東郷村になりました。1914(大正3)年門司市と東郷村の境の桜峠に桜隧道が開通しました。1927(昭和2)年門司・白野江間に乗合バスが運行されました。1929(昭和4)年東郷村は門司市に編入されました。1931(昭和6)年、桜隧道の下に桜トンネルが開通し、門司港地区との交通が便利になりました。現在は新桜トンネルが増設され、上下交通に分離されています。
県道25号門司・行橋線と県道72号黒川・白野江・東本町線の黒川交差点から県道72号黒川・白野江・東本町線を東進します。高速自動車道の門司インターがあります。そこを過ぎたすぐの八木田前の信号機から左の細い道を、歩いて入って行きます。「殿墓(とのばか)」の案内に従って、家々の間の小道を山手に上って行きます。案内に従って行くと、人家の裏手の竹林の中に、18基の五輪墓が一列に並んでいます。この墓は、八木田氏の祖先の平休息とその一族の墓といわれています。
県道72号黒川・白野江・東本町線を東進します。左手の奥に大積小学校があります。その付近から東が大積です。大積小学校の背後の山が金山で、その山頂は門司氏五支城の一つの金山城跡です。高圧線の鉄塔が東端で、右手の西側と手前側の尾根上に城跡が遺されています。
   
道路は高速自動車道の下をくぐり、東に進みますと、3つ信号機が続きます。最初が大積東口で、3つ目の交差点で、山中川に鳥越橋が架かっています。その左手に丘陵地が続いています。更に左手は白野江植物公園の丘陵地になります。その山中川は下流で奥畑川に合流します。左の丘陵地の山頂は丸山城跡です。丸山城は、大積系門司氏の大積隆鎮(おおつみたかしげ)の居城でした。東の方向を向いていますが、城跡は手前の西側に本丸があり、東西に広くなっています。
3つ信号機がありますが、2番目の交差点を左折します。右側は後程行きます。高速自動車道の横に出ます。高速道をくぐる交差点に出ますが、くぐらずに更に高速自動車道の横を進みます。山中川に架かった橋の先が、鳥越橋から川沿いに上って来た道と交差します。
 
   
高速自動車道の横の、山中川に架かった橋の先の十字路を左折して高速道をくぐります。道は川から離れて右にカーブします。その曲がった所の右手にトタン張りの小さな地蔵堂があります。地蔵堂には、苔縄(こけなわ)地蔵尊と称される延命地蔵尊が祀られています。
1924(大正13)年8月、郵便集配中の苔縄重雄は、夜来の豪雨で溢れ出た川の水で、石橋を踏み外して川に転落してしまいました。片手で郵便物の入った集配鞄を上にあげ、片手で岸の笹を掴んで、大声で助けを求めました。近くを通りかかった人が声を聞き付け、助けようとしました。これを先にと差し出した鞄を近くに置いて引き返すと、少年の姿はありませんでした。村人総出で探しましたが、数時間後、大積海岸で、少年は遺体で発見されました。
翌年3月、村人の手によって、16歳で殉職した苔縄少年の菩提を弔うため、地蔵尊は建立されました。
   
3つ並んだ信号機の2つ目の交差点に戻ります。そこから直進し、片側二車線の道を南の新門司方向に進みます。この道の最初の信号機の先は、片側二車線が一車線になり、奥畑川に架かった橋を渡ります。橋を渡った先の、右手の眺めです。左側に天疫神社の鳥居が見えます。そこへは道の先を右折します。
右手に入って行くと、水天宮の小さな鳥居があります。そこをくぐると、海御前(あまごぜ)の碑を中心に、左に海御前の墓と右にカッパの碑が建てられています。1185(寿永4、元暦2)年3月24日、平家は関門海峡の壇ノ浦の戦いで滅亡します。平教経(のりつね)の奥方、海御前(あまごぜ)の遺体が大積の浜に流れ着きました。村人達は手厚く葬りました。
海御前の碑は水天宮の祠の前にあります。水天宮は水の守護神を祭っていて、平家一門の霊を慰めています。  
   
海御前の碑の近くに、カッパの像があります。葬られた海御前は河童の総帥として河童達を支配するようになりました。
   
水天宮があるのは、天疫神社の境内になります。奥に天疫神社の鳥居があって、社殿があります。ここに大積神楽が伝えられています。大積神楽は11月3日の天疫神社の秋の祭礼に奉納されます。神職達が組織した神楽座によって、江戸時代末には盛んに行われていたようですが廃絶されました。現在の神楽は、明治になって氏子達によって復活されました。神楽本来の33番の演目のうち、舞神楽3番・面神楽4番の7番が伝えられています。  
   
天疫神社の前の道を奥に行きます。個人宅の手前の右横のあぜ道を歩いて進みますと、奥畑川に架かっている橋の手前に出ます。その橋の上から上流の眺めです。左の道の更に左は、個人宅の入口の道です。その横の崖の上に証文岩があります。
   
昔、大積の殿様の馬を家来が奥畑川で洗っていた時、河童が現れ、馬を川に引きずり込もうとしました。しかし、家来にこれを見つけられ、捕らえられてしまいました。河童は傍らの石を指して、この岩が腐るまで御領内ではいたずらをしません、と殿様に許しを請いました。その岩が証文岩です。  
   
新門司へ道路に戻ります。先の方にトンネルが見えます。トンネルの先は喜多久です。左手に海岸に下りて行く道があります。大積海岸は大きく湾入していて、東側が周防灘に開いています。その南側を道路は通っています。昔は船が出入りしたかもしれませんが、現在はその入江は砂州が発達しています。新門司への道路から見た大積海岸の南側です。
奥畑川は山中川と合流して大積海岸の北側に流れ込みます。新門司への道路から見た大積海岸の北側ですが、流れ込む奥畑川はもっと左側になります。
大積海岸の南側を進みますと、途中に採石場の入口があります。その先まで車で行くことができます。来た方向の西側を眺めています。大積は三方が低い山々に囲まれています。水面の少し上の道路が、先ほど通って来た道路で、左側がトンネルになります。
北から北東の眺めです。対岸は白野江で、海は周防灘です。白野江には白野江植物公園があります。県道72号黒川・白野江・東本町線を先に行くと、左の白野江植物公園の前を通る道と、海岸の方に行く道に分かれます。
白野江植物園については、「北九州のみどころ」の「白野江植物公園」をご覧ください。
更に先に進むと採石場の用地になります。立ち入り禁止ですが、少し入り遠くから見ます。採石場の左手に、現在は陸続きになっている蕪島(かぶしま)が見えます。この付近は喜多久になります。島の下に洞窟が見えます。戦時中、この一帯は旧陸軍の小型攻撃艇の基地でした。250kgの爆雷を載せたベニヤ製の艇を操縦して、周防灘に侵攻してきた敵艦に体当たりする水上特攻基地の跡です。全長5.1m、幅1.8m、20~25ノットの速力が出せる60馬力の自動車製エンジンを積んだ秘匿呼称は連絡艇で、㋹と書かれ、通称マルレと呼ばれました。大きな洞窟は天然のもので、他に掘削した洞穴が島や対岸の陸地の崖などにあったそうです。艇は30隻ほどで、隊員は20歳前後の若者が30~40名いたようです。幸い一度の出撃もなく終戦を迎えました。


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