北九州点描

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矢筈山
  門司区大字大里  [2011/03/12]
 

矢筈(やはず)山は、JR門司駅の北東約2km、JR小森江駅の東約1kmの所に位置します。矢筈は、矢を弓につがえる時の、矢が弦に接する部位をいいます。山がこの形に似ていたということからか、それとも矢竹(篠竹)が山に群生していたからか、その由来は分かりません。
矢筈山は標高266mで、山頂部はキャンプ場になっていますが、そこには明治20年代矢筈山砲台が築かれました。北西の山麓には、明治末には小森江浄水場が、大正期には小森江貯水池が完成し、門司の上水道の中心施設になりました。
1886(明治19)年、陸軍省は全国の重要な地に砲台を築造し、沿海の防備を厳しくすることにしました。当時、定遠・鎮遠という巨大戦艦を有する清国の北洋艦隊の脅威を感じていた関門地区には、関門海峡を挟んだ下関と北九州に砲台と堡塁が築造されました。陸軍は、敵艦船を砲撃するのを砲台、砲台の背面防御し、陸戦砲撃をするのを堡塁としました。北九州では、田向山(手向山)・笹尾山・矢筈山・古城山・和布刈砲台が、また富野・高蔵山堡塁が築造されました。
矢筈山砲台は1887(明治20)年起工されますが、竣工時期は不明です。15糎榴弾砲6門、9糎臼砲4門が配備されました。カノン砲は砲口径に比べて砲身長が長く、初速は高く、直射を主にする砲です。臼砲は砲身長に比べて砲口径が大きく、肉厚の砲身で、初速は低く、弾道は高く曲射されます。榴弾砲は、初速がカノン砲と臼砲の間で、その中間の火砲といえ、曲射されます。榴弾は炸裂して破壊するように、薄い砲体に多量の火薬が装填されています。口径の糎(cm)は、陸軍が最初はフランス式を採用していたためサンチと呼ぶことが多いですが、センチのことです。矢筈山砲台の任務は、関門海峡に面する大里の背面防御でした。
関門海峡を挟む砲台・堡塁を統合した関門要塞は、1895(明治28)年下関要塞と呼称されることが正式に決まり、下関要塞司令部が発足し、砲兵連隊が配備されました。それらの地域は下関要塞地帯と呼ばれました。これらの砲台・堡塁は明治末には廃止となりますが、機密保持のため立ち入りは制限され、地域内の測量・撮影などは1945(昭和20)年の終戦まで要塞司令部の許可が必要でした。戦後、矢筈山砲台跡地に、1971(昭和46)年キャンプ場が完成しました。
明治時代、門司は港町として北九州の中では早くから発展しました。しかし、門司は水に恵まれず、井戸の水質が悪く、売水が行われていたようです。コレラの大流行で水道敷設を急ぎました。1909(明治42)年福智貯水池・小森江浄水場・導水管工事に着手し、福智貯水池から小森江浄水場への22.6kmを鋳鉄管で導水しました。1911(明治44)年一部給水を開始し、翌年1912(明治45)年4月1日門司市内に全面給水が開始されました。同日若松町でも全面給水が開始されました。門司市が全国で18番目、九州で長崎市、佐世保市に次いで3番目、北九州で初めて水道が開通しました。
門司市は、給水量の増加に対応するため、小森江浄水場の北東300mに小森江貯水池の建設を、1920(大正9)年開始し、1923(大正12)年に完成しました。小森江貯水池は貯水量が少なく、効率が悪い貯水池ですが、水源が遠く導水管の事故による不測の事態に対処するものとして建設されました。
門司市の人口が増え、給水量は更に増えていきました。1935(昭和10)年、福智貯水池の東に頂吉(かぐめよし)貯水池の建設に着手し、1939(昭和14)年に完成しました。小森江浄水場の機能も増強されました。門司市は将来の給水量の増加に備えて、市内に松ヶ枝貯水池を1956(昭和31)年に起工し、翌年に竣工し、小森江浄水場に導水しました。
1963(昭和38)年、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の五市が合併して北九州市が誕生しました。1968(昭和43)年ます渕貯水池が着工され、1973(昭和48)年完成しました。この結果、福智貯水池と頂吉貯水池は、ます渕貯水池の中に水没しました。井手浦浄水場が1967(昭和42)年起工し、1972(昭和47)年に竣工しました。井手浦浄水場には、油木貯水池(田川郡添田町)とます渕貯水池から導水されました。北九州市の給水系統は、合併前に旧五市がそれぞれ建設したため、複雑で非効率なものになっていました。東部の井手浦浄水場の建設により、西部の穴生浄水場とともに二大浄浄水場を中心に水道施設の統廃合が進められました。1973(昭和48)年、小森江浄水場は廃止され、ここには井手浦浄水場から配水され、他の配水池や各所に配水する機能を持つ小森江配水池になりました。小森江貯水池水は工場に供給されることになりました。その後、小森江貯水池は廃止され、その跡地周辺は公園として整備され、2001(平成13)年小森江子供のもり公園が開園されました。
福智貯水池と頂吉貯水池については「北九州点描」の「ます渕ダム」をご覧ください。
小倉方面から国道3号線を門司港方面に進み、門司駅前を過ぎ、市立門司病院前を通り過ぎます。門司駅手前から矢筈山と風師山が見えてきます。そこからが矢筈の形がよく分ります。国道3号線の南本町交差点を過ぎ、小森江3丁目交差点の先、小森江口交差点を右折します。ここは風師山の登山口の一つの小森口に当たります。坂道を上って行くと、交差点の角に高圧電線の鉄塔が立っています。そこを左に上って行くと矢筈山に行きますが、後程にして、右折します。すぐ先に左折できる入る小さな道がありますので、左に入ります。左手は小森江公園になっています。
小森江公園の東に矢筈山があります。左の建物は老人ホームのやはず荘で、奥に知的障害者授産施設ひかり工芸舎があります。
公園は二段になっています。公園内の先方の階段を昇って行きます。公園の左手、北側に小森江浄水場跡を見ることができます。左側から奥の高圧電線の鉄塔付近まで、かっての浄水場の北西端は、現在も小森江配水池として機能しています。右は浄水場の濾過池です。北側に現在その跡が3池あります。公園もそして老人ホームもかっての小森江浄水場跡地にあります。
左折して小森江公園に入って来た入口の右手、小森江公園の西側の広場に林芙美子生誕地記念文学碑が立っています。
林芙美子(1903-51)は、「放浪記」の中で、「私が生まれたのはその下関の町である。」と書いています。下関市田中町には、林芙美子生誕地の碑が建てられています。しかし、芙美子の実父宮田麻太郎から、下関で当時4歳の芙美子を見た麻太郎の幼馴染横内種助は、門司市小森江のブリキ屋の2階で生まれたと聞かされます。のち若松で6歳の芙美子と5歳の横内の娘の佳子は知り合い、生涯の友となります。佳子が義母であった井上貞那(筆名隆晴、医師)の調査により、林芙美子の誕生地が旧門司市大字小森江555番地であることが分りました。そこは、この地の北西400mで、その後、神戸製鋼所門司工場の敷地となり、現在は神鋼メタルプロダクツの敷地内になっています。
碑の詩は、1933(昭和8)年に発表された詩集「面影」の「こひうた」に収められた「掌草紙(たなごころそうし)」です。題字は井上貞那の筆です。
林芙美子資料館が門司港レトロの旧門司三井倶楽部の2階にあります。「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。
右折して来た高圧電線の鉄塔がある交差点を右折して、山手に上ります。鉄塔から小森江配水池施設に、電気が引かれています。その横を過ぎると、道は狭くなり、車が離合できないくらいの道幅になります。途中に小森江子供のもり公園の看板が出ています。道を更に上ると、直進と左折に分かれます。左に入って行くと小森江子供のもり公園の駐車場になります。ここは小森江貯水池跡を利用した公園で、その駐車場からの眺めです。
山は風師山で、中央がその山頂で標高362.2mで、右は南東にある峰で標高326.5mあります。左には岩場と呼ばれる標高364.3mの峰がありますが、手前の山で見えません。池の中に建っているのが、貯水池の取水塔です。機能していた頃は、大部分は水中にありました。右手の奥に行くと、風師山の登山道があります。
風師山については「北九州点描」の「風師山」をご覧ください。
小森江貯水池の堰堤です。小森江貯水池は盛土を台状にして築いたアースダムでした。その堰堤部分は公園化して花々が植えられています。堰堤下は花の広場、花の谷になっています。
小森江子供のもり公園の駐車場の先に行きますと、右手の斜面を利用して公園として整備されています。そこを登って行くと、左折して駐車場に来た所を直進して、矢筈山に向かう道路に出ます。
矢筈山に向かうと、右手に矢筈山キャンプ場入口のゲートがあります。ここまで道路はアスファルトですが、この先は砂利道になり、勿論車は使えません。
ゲートを過ぎて、つづら折の山道を登って行きます。林の中を通って行きますが、視界が開けた所から、北隣の風師山が見えます。山頂近くになり、キャンプ場に入って行きます。左手は石垣で、その前に大きなトイレの建物があります。通り過ぎて行くと、右手にキャンプ場管理棟があり、その前にトンネル状の壕があります。分厚い構造物ですから、軍事用のものであったことが分かります。矢筈山砲台跡です。
管理棟のすぐ横は展望台になっていて、南西方向の関門海峡の大瀬戸が見渡せます。左下は大瀬戸に面した門司駅がある大里地区、右は対岸下関市の彦島、その向こうの左から右にかけては小倉北区・戸畑区の臨海工業地帯で、湾曲した関門海峡の西口になります。
トンネル状の壕の先は、砲台とともに築造された濠です。現在はキャンプ場施設として利用されています。その先に進みますと広場があります。門司市時代、姉妹都市のアメリカノーフォーク市の親善使節団が来門されました。その折団長スナイダー氏が青少年のために寄付されたことで、ここをスナイダー広場と命名しました。
ここから南東方向が見渡せます。手前の道路は都市高速で、人家がある所は門司区奥田です。先の方港湾部は新門司で、海は周防灘です。
矢筈山砲台跡を逆時計回りに回っています。キャンプ場施設として利用されている濠の反対側に、地下の壕があります。
地下の壕の屋上部分にある通気孔です。
地下の壕の向かい側にある上から、キャンプ場施設として利用されている濠を見ています。
最初に見たトンネル状の壕の反対側と、山頂に登る道です。ここの反対側には炊飯施設やステージがあります。
山頂は広場になっていて、周囲は木立ですので見渡せません。
トンネルの内部の左右は壕の入口になっています。ここを出ると矢筈山砲台跡を逆時計回りに一周したことになります。


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