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金山川
 八幡西区 [2013/04/27]
 

金山川は八幡西区上上津役(かみこうじゃく)の山手の谷間を源流とします。江戸時代、この谷間に金山がありましたので、金山川の名が付けられています。八幡西区の上上津役、町上津役、下上津役、三ヶ森、永犬丸(えいのまる)を経て、則松に到ります。永犬丸・則松周辺は河川の大改修が行われました。金山川は、則松を過ぎて、江戸時代開削された堀川(現在は改修された新々堀川)に合流し、洞海湾に注ぎます。

下流より源流に、金山川を少し詳細に見てみます。本城と陣原の間に架かっている本陣橋の上流で、金山川と新々堀川は合流して新々堀川となって洞海湾に流れ込みます。本陣橋の下流の夕原大橋付近から河口にかけての両岸は、江戸時代から干拓され、河口は海側に伸びていきました。金山川沿いの国道3号線の南北が則松です。則松付近は、戦時中の石炭の乱掘により沈下して、海抜2m以下になり、金山川は天井川になっていました。1972(昭和47)年9月金山川は洪水に見舞われました。洪水の被害を契機に、鉱害復旧と都市化による流量増大に対処するため、昭和49年度から、金山川下流部の河川改修工事が始まりました。改修工事の結果、前の河川敷地が残りました。これを利用して、1989(平成元)年、水辺の里が竣工しました。
則松からその南の永犬丸の地形を東側から見てみますと、南北に丘陵地があり、その西に金山川が南北に流れ、西側の川沿いに低地があり、更に西側の南北に丘陵地があります。低地のほぼ中央に都市計画道路が通っています。この地区は都市計画に基づき永犬丸・則松土地区画整備事業(平成7〜15年度)が行われました。低地の西側、西側の丘陵地の麓に県道281号下上津役・折尾線が通っています。低地は弥生時代から水田でした。県道が昔からある道路で、概ね古代から集落を結ぶ道だったと思われます。県道の北の浦と宮の谷のバス停の間の東側の低地に縦横に整備された条里が残されていました。条里は古代の土地区画で、戸籍とともに農民の生活を保障し、徴税を確保する班田収授の基礎となります。中央集権が進み、その支配のために法典である律令が整備されてきたのが奈良時代でした。その時代に条里制は敷かれました。

奈良時代やその後の平安時代の文化が地方にも伝わって来ました。北の浦のバス停の近くで寺院跡が発見されました。平安時代初期から後期まで続いたと思われる寺院で、北浦廃寺と呼ばれています。宮の谷バス停と南側の先の永犬丸中学校前バス停の間を南に入って行った永犬丸西町の住宅地の一角で、タタラ吹き製鉄炉を持つ古代の製鉄跡、またこの製鉄跡の近くで奈良時代前の古墳時代に使われた須恵器の窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。

この様に永犬丸には古代の遺跡が残されていました。いつの時代からこの地に人は住んでいたかを見てみます。都市計画道路の永犬丸中学校南角の信号を東に入って行くと、歩行者専用橋の貴船橋があります。渡った先の右手と手前の左手で貝塚が発見されました。永犬丸貝塚です。この地に人が住み始めたのは6,000年前の縄文時代前期で、貝塚が形成されたのは4,000年前の縄文時代中期から後期でした。6,000年前の人骨と、縄文時代中期から後期の縄文土器が発見されています。貴船橋を渡った先は字名で園田で、手前側は八反田です。貴船橋の上流の都市計画道路に架かった橋は砥石橋です。河口から砥石橋までは、昭和49(1974)年度からの河川改修工事が平成8(1996)年度に終了し、その後は砥石橋から上流の河川改修工事が行われています。河口から砥石橋までは傾斜の緩い河川ですが、砥石橋からは傾斜が急な河川に変わっていきます。

6,000年前地球は現在よりも温暖で、海進現象で洞海湾からこの地の低地に海水が進入して入江となっていました。潮が引くと入江は潟になって、そこに浅海性の貝やシジミが生息し、4,000年前には大量の貝類が採取されました。日本では2,300年前に稲作が始まり、弥生時代を迎えますが、その弥生時代前期の遺跡が宮の谷バス停の東側、永犬丸中学校の北東にあった松本遺跡です。この時代になると海退現象がみられ、低地の南側は沼沢化していました。ここに住み、農耕生活が行われました。弥生時代中期になると、低地は田地となり、宮の谷から春日台、更に下上津役にかけての低い丘陵地に住居を築いて住み、近くの台地に死者を葬りました。多くの弥生時代の遺跡が発見されています。

貴船橋の向こう、金山川の東岸は園田です。東岸の少し上流に八幡厚生病院があります。病院の北側の山に園田横穴があります。弥生時代の後の古墳時代後期6〜7世紀に築かれた遺跡で、この南の殿問(でんとう)や里中の山腹にも横穴を掘って埋葬し、入口を石で蓋した横穴が発見されました。八幡厚生病院の北側の山が南郭で、その北側は現在は永犬丸中央公園や住宅地になっている所に本郭や北郭があった中世の山城跡です。園田浦城といい、麻生氏の城といわれています。この城跡の麓の金山川の西岸に、園田浦城を守備していたと思われる武士の居住跡が発見されました。八反田遺跡といいます。則松の南、下上津役の北までは字が多数ありますが、大字永犬丸の中です。現在はほとんど新町名になっています。

都市計画道路の砥石橋交差点を過ぎて、里中3丁目交差点を直進しますと、筑豊電鉄のガードがあり、そこを直進します。ガードの西側に筑豊電鉄の三ヶ森駅があります。筑豊電鉄は1956(昭和31)年貞元(現在熊西)・筑豊中間間が開業し、1959(昭和34)年貞元(現在熊西)・筑豊直方間が全線開通しました。北の永犬丸駅と南の三ヶ森駅を中心に永犬丸の丘陵地の宅地開発が進みました。金山川は砥石橋から都市計画道路の東を流れますが、その上流は西側を並行して流れます。

三ヶ森の南、春日台の東に新町名の下上津役元町があります。かって下上津役村の本村であったといわれています。下上津役元町に役之郷清水ヶ池古駅水(やくのごうしょうずがいけこえきすい)と呼ばれる井戸があります。奈良時代、中央集権が進み、その支配のために法典である律令が定められ、中央と地方への命令、地方からの報告など連絡のための往来が盛んになり、駅(うまや)の制度が整備されました。平安時代の延喜式(式は律令の施行細目を定めたもの)に駅名が記されています。この地には夜久の駅があったと記されています。平安時代、上津役(こうじゃく)及び小嶺は役之郷と呼ばれ、夜久の駅が役之郷の語源と思われます。中世になると上津役郷になり、麻生氏の領地になりました。

上津役村は、江戸時代初期の慶長年間に下上津役村が分村したため上上津役村と称しました。江戸時代上津役を長崎街道が通っていました。その沿道の町屋部分を町上津役といい、上上津役村の枝郷でした。上津役は東から上上津役、町上津役、下上津役になっています。金山川は、上上津役金山谷の江戸時代初期に開かれた金山跡からの湧水を源流とし、中子川を合流して町上津役の南を流れ、下上津役で建郷川を合流して、永犬丸に流れて行きます。 
新々堀川の本陣橋から上流の眺めです。右手の川が新々堀川で、正面の川が金山川です。ここで合流して新々堀川として洞海湾に流れ込みます。
新々堀川やここから下流については、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
則松・永犬丸地区を縦断する都市計画道路の北は、国道3号線と交差して折尾警察署の横を通り、産業医科大の横に到ります。金山川は、国道3号線の南側で方向を変え、その北側では北東に流れますが、その南側では北西に流れます。則松・永犬丸地区では、砥石橋まで都市計画道路の東側を流れます。
国道3号線の南に堰が設けられ、その横に則松ポンプ場があります。左奥の白い建物が則松ポンプ場です。
   
則松ポンプ場の東側に親水施設の水辺の里があります。入って行くには、則松ポンプ場の上流に緑橋が架かっています。その上流が入口になります。都市計画道路からだと、水辺の里入口交差点から東に入って行きます。河川改修工事の結果、蛇行していた前の河川敷地が残りました。これを利用して、1989(平成元)年、水辺の里が竣工しました。水辺の里は、浅くて緩やかな流れです。しかし、洪水時には遊水池になります。
金山川の河川改修工事を記念して、金山川の両岸に、1984(昭和59)年地元則松の人々によって桜が植えられました。金山川の両岸は遊歩道になっています。
桜の花の後、金山川の両岸や東岸の畑でチューリップが咲きます。ボランティアの人達によって育てられた花が開きます。
緑橋の上流の氏田橋の東岸に金山川ボランティア公園があります。そこの川側の一段低い所に、ステージがあります。この周辺で、4月、則松金山川チューリップまつりがあります。
秋にはコスモスが咲き、10月、則松金山川コスモスまつりがあります。  
   
上流の凪野橋のたもとに金山川ポンプ場があります。都市計画道路の八枝(やつえ)小学校横交差点を東に行くと、道路の挟んだ八枝小学校の前にあります。この辺りの土地は低いので、大雨の時浸水しないように、雨水を金山川に流します。なお、施設の制御は、下流の則松ポンプ場で遠隔操作されています。
   
八枝小学校横交差点を反対に西に行きますと、すぐに永犬丸2丁目交差点になります。その左右、南北は県道281号下上津役・折尾線です。北に行くと北の浦バス停があります。その付近で平安時代の北浦廃寺と呼ばれる寺院跡が発見されました。その交差点を左折して南に向かいます。次のバス停が宮の谷です。この近くにも弥生時代の集落があり、高台には石棺群が発見されています。バス停の東側には弥生時代前期の松本遺跡が発見されています。次の永犬丸中学校前バス停の間から南側に入って行くと、現在の永犬丸西町で、古代の製鉄跡や須恵器窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。
県道を進むと、左手に永犬丸中学校があります。その南端を左折すると、都市計画道路に到ります。
 
   
都市計画道路の永犬丸中学校の南端の交差点を東に行くと、金山川に架かった歩行者専用の貴船橋に出ます。貴船橋の西側から対岸の上流方向の眺めです。右端の建物は八幡厚生病院です。橋を渡った右手付近と、橋の手前の左手付近で、縄文時代の永犬丸貝塚が発見されています。病院の左手の山では、古墳時代の園田横穴が発見されています。この山は中世の山城、園田浦城の南郭になります。八幡厚生病院の前の西岸で弥生時代の中伏遺跡が発見されています。また橋の手前の西岸の貝塚の北側では中世の住居跡の八反田遺跡が発見されています。
貴船橋を渡って、左の永犬丸中央公園への道を登って行きます。下流の凪野橋と上流の園田橋の間から貴船橋付近までの金山川東岸の高台が永犬丸中央公園になっています。その公園の一番高い所がここです。左下が金山川と貴船橋です。先方の山が園田浦城の南郭で、ここと後方に山があり、本郭と北郭でしたが、山は削られ、宅地と公園になっています。左手には展望台があります。中世、北九州市の半分と中間市と現在の遠賀郡を含む当時の遠賀郡を支配した麻生氏の山城であったといわれています。皿倉山の手前の麻生氏の本城があった花尾山を望むことができます。
都市計画道路に戻って南に向かいます。砥石橋交差点を過ぎ、里中3丁目交差点を直進します。金山川は、砥石橋から下流は都市計画道路の東側を流れますが、その上流は西側を並行して流れます。その西側を県道281号下上津役・折尾線は通っています。都市計画道路の先で筑豊電鉄が通っているガードをくぐります。ガードの西、県道の横に筑豊電鉄三ヶ森駅があります。都市計画道路の先の左手に沖田中学校があり、その先に中尾小学校がありますので、そこの交差点を右手に入って行きます。金山川に架かった下上津役橋があり、その先で県道は左、南に伸びています。その先、下上津役2丁目交差点があります。右折すると、県道で三ヶ森駅方面に到ります。道なりに直進します。右手に畑がある場所を道は坂を登ります。畑の端に木立があり、役之郷清水ヶ池古駅水と呼ばれる井戸があります。その先を左折すれば、塔野小学校があります。
左が井戸で、右の屋根の下に石仏が並んでいますが、その外、右端にもう一体石仏が立っていますが、仏像の両側に道しるべが刻まれています。右あかま道、左やまみちと読めます。
   
下上津役2丁目交差点に戻ります。県道は左側の北側から来てここで東に行き、カギ形に次に南に向かいます。下上津役橋の手前の県道を南に向かいます。左手に愛宕神社があります。その前を東に行くと、建郷川と金山川の合流点になります。県道を更に南に行くと、国道200号線に合流します。国道を南に行き、二つ目の交差点を左折して東に行きます。しばらく行くと、下上津役から町上津役になります。国道211号線に出ます。その手前の平行した道路はかっての長崎街道です。この付近の長崎街道については、「八幡のまちかど」の「曲里・石坂」をご覧ください。
国道211号線を横断して直進します。先に行くと橋があります。中子川に架かった橋です。そこを右に下って行くと、中子川と金山川の合流点になります。道を直進しますと、左側に上津役公園がありますので、、向こう端の交差点を右折します。都市高速の高架道をくぐり直進します。道なりに進みますと、道路が遮断されていて、車両は通行止めになっています。道路は林道登尾線で、この先は危険なので、森林関係者以外の車両は通行止めになっています。
 
   
歩いて行きます。左手下に大池があります。大池を過ぎ、舗装された杉林の中の林道を進みます。道が180度曲がっているカーブに出ます。そこを曲がった所から左の山手に細い山道が伸びています。その側に小川が流れています。金山川の源流からの流れです。山道を登って行きます。林に入ると谷川にコンクリートの板3枚の橋が架かっています。そこを渡ると、左上に帆柱新四国第60番札所があります。
   
札所の側を小さな滝が流れ落ちています。この水は、その上に金山跡の洞穴がありますが、そこから流れ出ています。滝の水は谷川に流れ込みます。滝の横を上に登って行きますと、洞穴が口を開けています。金山跡です。
黒田長政は、関が原の合戦の結果、筑前一国52万石が与えられ、1600(慶長5)年12月筑前に入国しました。入国後、黒田長政は遠賀郡畑・上津役で金山を開発しました。上津役の金山がここになります。
 


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