北九州点描

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洞北緑地
(奥洞海緑地・二島緑道を含む)  八幡西区・若松区  [2013/07/06]
 

洞海湾の深奥の西部から北西部にかけて、3つの緑地・緑道がつながっています。これらの緑地や緑道は、工場地と住宅地との分離帯になっています。洞海湾の深奥部の八幡西区の新々堀川の河口から、同じく八幡西区と若松区の境を流れる江川の河口部にかけて、緑のベルトの奥洞海緑地(八幡西区洞北町・本城5丁目)があります。江川の河口西側には、広い芝生広場がある洞北緑地(八幡西区本城5丁目)があります。江川の河口から筑豊本線の線路沿いの東側に、二島緑道(若松区南二島2丁目)があります。

緑地・緑道は洞海湾の埋立地につくられています。洞海湾沿岸の各地は、江戸時代には新田開発のため干拓が行われ、明治以降は主に若松築港会社(現在若築建設)が防波堤を築造し、航路を浚渫し、海の浅い場所を埋立て、それらは工場用地になりました。ここでは主に本城地区の埋立の歴史を見てみたいと思います。1673(延宝えんぽう元)年松ヶ鼻開作、1681(延宝9)年船ヶ浦開作が行われました。松ヶ鼻が北、船ヶ浦が南と隣接していました。旧国道199号線と県道279号本城・熊手線の本城(古開)交差点を北に行くと筑豊本線の踏切があります。その付近の北と南側が松ヶ鼻開作と船ヶ浦開作で生まれた新地です。

現在、陣原(じんのはる)は北西の新々堀川(下流で金山川と新々堀川が合流し、新々堀川になります)と南東の割子川の間の地域になります。当時、陣原の東には陸地はなく、皇后崎(こうがさき)から穴生にかけては、長崎川(現在の金山川)と割子川からの土砂の流出で干潟になっていました。1696〜98(元禄9〜11)年福岡藩は穴生潟の開作を行いました。金山川(堀川の開削は完成していませんでした)から皇后崎の間に土手が築かれ、その内側が田地化されました。その土地は陣原の一部と夕原町になりました。穴生潟の開作の一環として、本城の郡開(ぐんびらき)が行われました。それは穴生潟の開作の金山川の対岸の北岸でした。この結果、金山川河口は洞海湾側に延長されました。郡開とは郡代が郡夫(郡代による労働使役)を使って開作することです。

江戸時代の本城地区に於ける最大の開作は御開(おひらき)でした。郡開として行われた御開は、1745〜50(延享2〜寛延3)にわたって、江川の河口部の南岸の開作が行われました。この開作には、直後に開始される堀川の開削で活躍する一田久作が参加しています。この工事の結果、江川河口から金山川河口までの海岸線は開作地になりました。江戸時代まで、江川沿岸は御開の上流の蜑住まで洞海湾が湾入していました。御開の前に、1684〜88(貞享元〜元禄元)年にかけて江川の北岸の蜑住・竹並村の開作が行われ、竹並村の南に蜑住村から新村の払川村ができました。

1869(明治2)年の北部九州は雨天続きの冷害に見舞われ、大庄屋の佐藤扇十郎は飢饉の窮民対策として、碇地(いかじ)の海面の埋立工事を計画し、1870〜71(明治3〜4)年防潮堤の工事を行いました。本城村やそれ以外14・5村から窮民が作業に参加しました。その新地は田地化しました。これより少し前、1865(慶応元)年、二島の開作が行われました。現在の二島駅付近から東と思われます。

1891(明治24)年若松・直方間の筑豊興業鉄道が開通しました。1890(明治23)年若松築港会社が設立されました。エネルギー源としての石炭の重要性は増し、筑豊の石炭は若松に運ばれました。1894(明治27)年筑豊興業鉄道は筑豊鉄道と改称されます。1997(明治30)年筑豊鉄道は九州鉄道(現在の鹿児島本線の前身を開通させた)と合併し、九州鉄道になりました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。若松築港は若松港の水深が十分でなく、港口が泥砂で塞がれているため、防波堤を築造し、航路を浚渫し、海の浅い場所を埋立てました。大正に入ると、若松築港は、大工場誘致を目的にした前田から本城に到る埋立の工事を申請し、若松周辺から洞海湾一円の築港工事を行うようになりました。

明治時代後半、若松築港によって洞海湾の浚渫・埋立が進み、1921(大正10)年藤ノ木から堀川河口までと二島東から江川までが浚渫され、藤ノ木・二島地先が埋立てられました。鮎川 義介は日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成していました。1934(昭和9)年鮎川 義介は日本炭礦を設立しました。1937(昭和12)年二島地先の埋立地を所有していた貝島鉱業から買収します。社名を日産化学工業に改称します。日産化学工業の用地になっていた二島地先の埋立地の東側に、石油不足に対応するため石炭を原料とした人造石油を生産する日産液体燃料若松工場が建設され、1941(昭和16)年から生産を始めました。1939(昭和14)年二島斜坑が開坑されましたが、戦争に突入したため中断されました。日産液体燃料若松工場の委託で、若松築港は二島地先の浚渫と埋立を行います。

前述の前田から本城に到る埋立の工事は、1920(大正9)年に着工し、1955(昭和30)年に竣工し、長期間を要しました。工期は1・2期と分かれ、1期の竣工は1929(昭和4)年の予定でしたが、1927(昭和2)年の時点で20%強の進捗状況でした。これに対し、福岡県は工事の促進を命じました。若松築港は工事計画の変更を出願しました。工事の部分は10に分かれていました。本城地区は、江戸時代及び明治初期に干拓した先の海面で、2つの部分に分かれていました。計画では、第1期工事が1935(昭和10)年、2期が1期終了後7年以内に竣工で、本城地区は2期になっていました。

しかし、その後も工事は予定通りに進行せず、1期工事の竣工を待たずに、2期工事は着手されました。本城地区は金手川を挟んで北と南に分かれますが、北側は竣工前でしたが、1941(昭和16)年日本発送電株式会社の若松貯炭場として使用を始めました。日本発送電株式会社は、電力の国家管理のために、1939(昭和14)年に設立された発電と送電を行う特殊法人で、1942(昭和)年には配電の全国9配電会社が設立されました。終戦時には北側は埋立工事は終わっていましたが、南側は埋立工事はまだ半ば程度でした。戦況が厳しくなり、1941(昭和19)年工事は中止になりました。戦後も資金不足のため休止状態が続いていました。南側は、戦後福岡県と八幡市の要望により、埋立が終わっている部分に、1950(昭和25)年県営八幡競馬場が開設されました。北と南の埋立工事が完了したのは1954(昭和29)年で、竣工認可が下りたのは翌1955(昭和30)年でした。

戦時の電力の国家管理は廃止され、1950(昭和25)年日本発送電株式会社と全国9配電会社は全国9地域の電力会社に分割されました。戦後、若松築港は中央に進出し、1965(昭和40)年には若築建設と社名変更します。1952(昭和 27)年日本炭礦の経営権は鮎川義介から菊地寛実に代わります。翌1953(昭和 28)年二島鉱は着炭します。。しかし、1960年代世界的にエネルギー革命があります。1971(昭和46)年若松鉱業所(二島鉱は若松鉱業所になっていた)は閉山し、同時に 日本炭礦も閉山となりました。筑豊の炭鉱も閉山が相次ぎ、若松港の着炭量も減り、昭和40年代後半には石炭車が連結された筑豊からの石炭列車の姿も消えました。モータリゼーションの発展により、国鉄は赤字に陥っていました。1987(昭和62)年国鉄は分割化され、民営化されました。  
国土地理院発行の2.5万分の1の地形図(折尾)の一部で、左は昭和11年(1936)第2回修正測図を使用しました。洞海湾沿岸の田の記号の部分は、江戸時代から明治初頭にかけて開作された新田です。順に追っていきますと、碇地の南を筑豊本線が通っています。その南の田地の左隣の鉄道の北と南側付近が1681(延宝9)年の松ヶ鼻開作と1681(延宝9)年の船ヶ浦開作での新地です。堀川の南の広い田地が1696〜98(元禄9〜11)年の穴生潟の開作での新地です。その新地の堀川の北岸が同時期の本城の郡開での新地です。上の御開から碇地の間の田地が1745〜50(延享2〜寛延3)の御開の新地です。碇地の南の田地が1870〜71(明治3〜4)年の碇地の海面の埋立による新地です。二島駅付近は1865(慶応元)年の二島の開作による新地で、その南は二島沖の二児島を含んで1921(大正10)年に二島地先が埋立てられました。

右は昭和25年(1950)第3回修正測図を使用しました。洞海湾沿岸の新田の先に埋立てられています。地図の記号は荒地になっています。江川の南、堀川の北が本城地区の埋立部分で、中程に流れているのが金手川です。堀川の南は同時期に竣工し、三菱セメント(現在三菱マテリアル)に譲渡されました。本城地区の埋立部分の金手川の北側の一部が1941(昭和16)年から日本発送電株式会社の若松貯炭場として使用されました。金手川の南側に1950(昭和25)年県営八幡競馬場が開設されました。金手川に近く、東西に長く、西寄りに造られました。しかし、1956(昭和31)年には廃止されました。  
新々堀川の最下流に本城橋が架かり、県道279号本城・熊手線が通っています。本城橋の北側の本城橋交差点の北東角に本城ポンプ場があります。その東側の新々堀川河口に面した道路横が、奥洞海緑地の南端の入口になります。左手には、小さなキク科の花、ヒメジョウオンとクローバーの一種のムラサキツメクサなど野の花が咲いていました。
   
本城橋交差点の北の県道に本城団地入口交差点があります。そこから奥洞海緑地に入りことができます。そこを入った所にこのような休憩所があり、近くにトイレもあります。、その先は右手に林が鬱蒼としています。  
   
緑地の右手にある洞北町の工場団地を結ぶ道路を横断します。緑地の中に広場があり、草が生い茂っています。向こうから手前にアレチハナガサ、、ヒメジョウオン、チガヤの花が咲いています。この辺りの緑地の東から北の金手川にかけて、1950(昭和25)年開場し、1956(昭和31)年廃止された八幡競馬場がありました。
   
緑地の中の道が県道279号本城・熊手線の本城東1丁目交差点に出ます。この交差点で、県道から二島工業団地への道が分かれます。本城東1丁目交差点の歩道を横断しますと、奥洞海緑地は北に続きます。その先に休憩所があります。緑地・緑道内は車両の通行はありません。道はアスファルト舗装です。緑地・緑道内の道はたくさんあり、分かれたり、合流したりしますが、道に迷うことはありません。林の中を通る道もありますが、メインの道は、明るく分かりやすい道です。  
   
すぐに金手川に出ます。そこに歩行者専用の緑橋が架かっています。下流の二島工業団地への道には新洞北橋が架かっています。こちらは上流方向で、先の橋は金手橋で、県道279号本城・熊手線と旧国道199号線とが交差する本城(古開)交差点です。
   
緑橋を渡って、北に進みます。この先も奥洞海緑地です。右手にゴルフ練習場のネットが見え、野草の生える広場になっています。
この先で、緑地の北側をJR筑豊本線の若松線が通ります。
道の所々にアジサイが植えられています。この先に休憩所があります。  
   
休憩所の先が広場になり、ヒメジョウオンが茂っています。鉄塔のある山は、若松区の標高220.9mの岩尾山です。右手は東に続く石峰山の西側です。この先を進みますと、二島工業団地への道に出ます。そこは、二島工業団地への道から、洞北緑地の南側にある西部斎場への分かれ道、西部斎場入口交差点です。奥洞海緑地は、この先、二島工業団地への道の北側、江川河口に架かった奥洞海橋まで続きます。
西部斎場入口交差点から奥洞海橋まで、二島工業団地への道の南側に洞北緑地はあります。洞北緑地の二島工業団地への道に接した北側は、駐車場になっています。洞北緑地の入口は、二島工業団地への道の東側、奥洞海橋に近い方にあります。通路はレンガ敷きで、両側はメタセコイアの並木になっています。先方に皿倉山が見えます。通路左側に、遊具が設置されています。右側は土のグランドで、その先は芝生広場になっています。
   
通路左側の遊具のある公園の先に、洞海ビオパークがあります。これは水辺の生物のすみかをつくるビオトープで、市の皇后崎浄化センターの下水処理水を利用しています。まず、植物を利用した水質浄化施設があります。下水の処理水は水中の植物によってチッソやリンが吸収されて浄化されます。  
   
植物によって浄化された水は水路に流れ込みます。アジサイが咲いていますが、水辺には植物が植えられ、水中では小動物が生息し、水は更に浄化されます。
   
浄化された水はせせらぎになって、池に流れ込み、更に、この池から左手の洞海湾に流れ込みます。後の木立の先には、市の西部斎場がありますが、全く見えません。  
   
池の右手までが洞北緑地の東半分で、西半分はこの様な芝生広場になっています。南側からの眺めで、北側に駐車場があり、二島工業団地への道に面しています。
洞北緑地の芝生広場の北側からの眺めです。左の山は標高622mの皿倉山です。
奥洞海緑地・洞北緑地の東側は、江川が洞海湾に流れ込みます。江川が八幡西区と若松区の境界になります。江川の河口に架かる奥洞海橋の上から南方向の眺めです。水面は洞海湾で、左の山は皿倉山です。右の緑地が洞北緑地です。奥洞海橋を渡ると、二島工業団地に入ります。橋の先左手に続くのが 二島緑道です。
この辺りの二島については、「北九州点描」の「二島」をご覧ください。
二島緑道に入って間もなく、この休憩所があります。この先すぐ左手の木立の先が二島駅です。
   
二島駅の先で左手に広場があります。そこを過ぎると、緑道は途切れ、踏切の横を過ぎると、再び二島緑道は続きます。この先で二島緑道は終わります。緑道を出て、左に行くと踏切があり、その先は国道199号線東二島3丁目交差点になります。  


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