北九州点描

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市瀬
  八幡西区  [2010/11/20]
 

市瀬は、都市高速黒崎インターの出入口に当たる国道200号線と211号線の引野口交差点の南東に位置し、町の中央を東から西に流れる割子川の南北と、東が都市高速、西が国道211号線に囲まれた地域が市瀬の中心部です。都市高速の東側は、割子川の流域に集落が鷹見神社近くまで続きます。更にその東先は権現山までの山地が市瀬です。ここでは、中心部を過ぎた先、都市高速の東から権現山までを紹介します。
国道211号線の西は、川の名前がそのまま地名になった隣町の割子川です。権現山の南西斜面を発する割子川は上流の市瀬・割子川を西に流れ、竹末付近で北に向きを変え、穴生の北で東に向き、陣原で東を流れていた宮川が合流して北流し、洞海湾に流入します。
江戸時代から1889(明治22)年まで市瀬村で、1889(明治22)年6村が合併して上津役(こうじゃく)村となり、1937(昭和12)年上津役村は八幡市に編入されました。
引野口交差点の西、都市高速黒崎インターへの陸橋の西側からの眺めです。道路は国道200号線で、国道の左が引野、右が割子川で、その先、国道211号線の向こうが市瀬です。権現山は手前の山に隠れていますが、鉄塔が立つ標高617.2mの山頂だけが見えます。
引野口交差点から国道211号線を南に行き、すぐの割子川1丁目交差点を左折し、国道と並行する道を左折します。その道を少し南下して、上津役郵便局の角を左折し、割子川に架かる橋の向こうに井上農園があります。その横を東に進むと、先方に高架の都市高速が見ます。
高架の都市高速の下をくぐると、右手に見えるのがこの山です。ここは竹ノ尾城跡です。
室町時代、北九州は大内氏の支配下にありました。八幡・戸畑・若松を含む当時の遠賀郡の領主麻生氏は、相続問題で内紛中でした。1478(文明10)年、大内政弘は反抗する花尾城主麻生家延に対して、部将らに命じて花尾城を包囲させます。家延は籠城して抵抗しますが、遂に降伏して花尾城を出ました。家延はここに竹ノ尾城を築いて蟄居し、のち遠賀郡岡ノ庄(遠賀郡岡垣町吉木)に岡城を築いて移り住みます。
戦国時代の1567(永禄10)年、一族間の対立で一族と宗像氏の攻撃を受け落城し、竹ノ尾城は廃城になりました。
竹ノ尾城跡の反対側、道路の左手に見える小山は市ノ瀬城跡です。
南北朝時代西下していた征西将軍宮懐良(かねよし、かねなが)親王に従っていた武士が跡取りがない香月氏の婿となり、ここに市ノ瀬城を築きました。竹ノ尾築城の百年ほど前です。香月氏は八幡西区香月を拠点とした豪族で、香月に館を構えていましたが、源平が争っていた頃、畑貯水池の堰堤の南側の山に畑城を築いていました。のち香月氏に男子が誕生し相続問題が起こり、この義弟の居城畑城とここの市ノ瀬城は交戦します。畑城側が敗れ、義弟は大内義弘を頼って山口に逃げます。一方の市ノ瀬城は大内氏を恐れ、麻生氏の婿となり、麻生氏を名乗りました。
室町時代、川の畔を歩いていた武士が玉を川に落としますが割れなかったため、割れん川と呼んだのが割子川のいわれといわれています。市瀬は割子川の上流に当たり、もともとは一ノ瀬と書かれていたといわれています。都市高速から山手に向かいますが、道の左を流れていた割子川は、この大平橋の先は右を流れます。
大平橋の先は上り坂になります。道路は右にカーブして広い所に出ます。道路は右の方に上って行きますが、ここから先は林道市瀬・奥田線4.9kmで、市瀬峠を越え、「河内温泉あじさいの湯」の横を通って河内貯水池に到ります。
道路の左奥に鷹見神社の鳥居が立っています。その前は駐車場で、割子川はその右手を流れていて、鳥居の先の権現橋が架かった流れは、その右手で割子川に合流します。
ここは権現山の西の山麓に位置しますが、ここから直接山頂を見ることはできません。
平城京に遷都される以前の文武天皇の慶雲期(704〜08)、役行者(えんのぎょうじゃ)により紀州熊野三所権現が勧請されたのが鷹見神社の由来と伝えられています。熊野三山に祀られる神々は、神仏習合の本地垂迹により、権現と呼ばれました。権現山は山頂に鷹見神社の奥院があったので、そう呼ばれました。山頂下に上宮があり、8合目に社僧の住居が六坊あったので、権現山は別名坊住山と呼ばれました。下から上宮まで十二宮がありました。それらを総称して見光山神昌寺と称しました。
権現橋を渡り、二つ目の鳥居の先の右手に、その一宮があります。
二つ目の鳥居の先に三つ目の鳥居があり、更に参道を昇って行くと、石段の上に鷹見神社の社殿が見えます。
鷹見神社は遠賀川の東側の村々の鎮守として、鷹見・高見神社の総本社として人々の崇敬を集めました。中世、この地を治めた麻生氏や、関が原の戦い後、筑前国に入国した黒田長政に寄進を受けました。しかし、南北朝時代の宮方・武家方の戦いの兵火で社殿・宝物・記録等を焼失し、戦国時代の1561(永禄4)年大友氏の兵火に再度遭っていました。江戸時代の元禄期(1688−1704)に再興されました。
鷹見神社の社殿の左側に権現山への登山道があります。この登山道は鷹見神社の上宮・奥院への参道になります。山道を登って行きますと、広く平らの所に着きます。三宮趾の石碑が立ち、三宮趾とおぼしき場所に自然石が積み重ねられ、注連縄が懸けられています。
結構傾斜の厳しい山道を登ります。少し広く手作りのベンチが置かれている所に出ます。四宮と五宮趾の間になります。山頂まで1/3の所です。ベンチといい、案内標識といい、参道を守る人々によって整備されています。ベンチは、三宮趾が最初で、ここは二番目で、権現周回路までに4つあります。三番目は六宮趾の先、四番目は九宮趾の所にあります。権現山や隣の皿倉山、帆柱山、花尾山にはたくさんの登山道があります。そのうち、この登山道は行者の森コースといいます。
十一宮趾の先で、権現周回路に出ます。そこが坊住跡です。神仏習合時代、仏事をつかさどった僧を社僧といいますが、社僧が住んでいたので坊住といい、六坊あったといわれています。権現山の8合目に当たります。権現周回路は権現山の8合目を一周する道です。
坊住跡から権現周回路を右に行きます。少し行くと、左に権現山頂(鷹見神社上宮)の案内がありますので、そこを登って行きます。すぐに鳥居があります。その先を登って行くと、左の大岩の上に石祠あります。十二宮の上宮です。
上宮の先を登って行きますと、奥院に着きます。ここは権現山山頂の南西端に位置します。権現山はかって鷹見山と呼ばれました。役行者が紀州熊野で三所権現の招請を祈願したとき、神殿から多くの鷹が飛び立ち、この山にやって来たので、山頂に祠を祀って鷹見大権現と号しました。
鷹見神社奥院に隣接して無線中継塔が3つほど立っています。山頂付近には、他にも赤白の鉄塔が立っています。鷹見神社奥院と無線中継塔の隣に西展望台があります。
西展望台から北西方向の眺望です。ここには南西方向から登って来ました。
二つの赤白の煙突は三菱化学で、その手前は黒崎の西側になります。水面は洞海湾の深奥部で、そこから左は本城、折尾です。その先、緑の部分は右が若松区で、左は芦屋町の山鹿になり、左端は遠賀川の河口です。先の海は響灘です。
無線中継塔と展望台の間を北に進むと、山頂の広場に出ます。標高617.2mの権現山山頂の標識があります。その先の北東端に東展望台がありますが、老朽化のためか立入り禁止になっていました。
山頂には祭祀遺構と思われる跡があったそうですが、戦時中の高射砲陣地の構築により失われたといわれています。
東側の皿倉平への登山道を下りて行きます。山頂に無線中継所がありますので、アスファルト舗装になっていますが、途中からは車両は通行止めになっています。少し下りて行くと、左手に鳥居が立っています。そこから帆柱権現山神社の石段が伸びています。1958(昭和33)年社殿を建立して、帆柱権現山神社に奥宮・上宮や山中の諸社の分霊を合祀しました。
帆柱権現山神社の鳥居前の登山道を下りて行き、帆柱キャンプ場入口の前を通って、皿倉平まで下りて来ました。
皿倉平から皿倉山頂の眺めです。山頂にはテレビ塔が林立しています。
ここは標高622.2mの皿倉山の8合目に位置し、広場になっていて、横にはトイレや飲み物の自動販売機がありますので一服できます。
皿倉山については、「北九州のみどころ」の「皿倉山」をご覧ください。
皿倉平から権現周回路に行きます。権現山から下って来た所の左右に権現周回路の入口がありますので、左側を行きます。権現山の南を通って西側の坊住跡に行き、そこから鷹見神社まで下山します。


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