北九州点描

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野面
  八幡西区  [2010/08/28]
 

野面(のぶ)は八幡西区の南西部に位置します。野面の北は真名子・楠橋・金剛、南は直方市、東の北側は笹田、東の南側は住宅地に開発された星ヶ丘、西は木屋瀬に接します。
野面は野夫・野母とも書き、野に意味があったようです。鎌倉時代、山鹿時家は嫡子に山鹿氏嫡流を継がせ、弟の資時に山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職を譲っています。これが麻生氏の始まりです。この野面荘は鎌倉・室町時代の荘園名で、現在の野面・木屋瀬を中心にした地域と推定されます。
江戸時代から1889(明治22)年まで鞍手郡野面村でした。明治22年、木屋瀬・野面・笹田・金剛村が合併して木屋瀬村となりました。1898(明治31)年木屋瀬村は木屋瀬町となり、1955(昭和30)年木屋瀬町は八幡市に編入されました。
この木屋瀬地区にも炭坑がありました。石炭輸送のため、1915(大正4)年に鞍手軽便鉄道が香月‐野面間を開業しました。その鉄道も1954(昭和29)年に廃止され、炭坑も閉山されました。
現在の野面は農地が広がり、一部に工場が進出しています。
野面には北九州市の無形民俗文化財に指定されている野面の盆踊が伝えられています。8月13・14日に踊られますが、初日に長泉寺の境内で踊られて、初盆の家を中心に回ります。時間は夕方6時頃からです。大番傘の下の三味線・太鼓の地方と唄の地謡の周りを輪踊りします。
北九州の西部から遠賀川流域には、江戸時代から明治にかけて盛んだった地方歌舞伎の芦屋歌舞伎・植木歌舞伎の影響を受けた盆踊りが残されていますが、野面の盆踊もその一つです。遠賀川流域系の盆踊りに共通するように、技巧的で、洗練されています。野面の盆踊は中間の盆踊りを習得したといわれていますが、踊りの合間に「ほめ言葉、返し言葉」が入るのは中間の盆踊りと同じです。
国道200号線と211号線との馬場山交差点から、バイパスでなく、211号線の延長になる国道200号線を直方方面に進みます。坂を下りた所に香月立石交差点があります。そこを左折し、すぐに金剛川に架かった橋を渡り、突き当りまで進みます。突き当たりを左折し、すぐに市営野面団地の手前を右折します。
狭い通りの先100m行くと、左手に長泉寺の駐車場があります。その奥に山門があります。
長泉寺の山門は、直方市の鷹取山にあった鷹取城の城門が、一国一城令により廃城になったため移築されたといわれています。
長泉寺の本殿です。この境内で野面の盆踊は踊られます。龍頭山長泉寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。
長泉寺には左手に入りましたが、右手に入ると野面公民館があります。公民館の前に市指定無形民俗文化財の野面の盆踊の説明が掲示されています。公民館の上に野面公園があります。
遊具がある先に直方四国札所があります。それほど広くない野面公園の左手にもう一つ札所があります。その右横に洞穴があります。野面古墳です。
野面古墳は玄室・羨道(せんどう)からなる横穴式石室墳です。築造は古墳時代後期の6世紀頃です。野面古墳は現在は羨道・墳丘は消失していて、玄室が残っているのみです。古墳の開口は早い時期だったようで、副葬品も残されていません。
入ってきた道に戻ります。先に進むと小さな道との四つ角がありますが、道成りに右に曲がって行きます。坂を下って高架の九州自動車道の下を行くと、笹尾川に架かった橋に出ますので、そこを渡らずに手前を左折します。次の橋の袂に八所神社鳥居が立っていますので、鳥居をくぐって坂を上りますと、この鳥居の前に着きます。
石段を昇りますと、八所神社の拝殿があります。
八所神社は平安時代創建されますが、鎌倉時代末期、香月氏がこの地の一泉山に移しました。江戸時代には木屋瀬出身の博多の豪商伊藤小左衛門吉次により正殿が造営されたり、木屋瀬村・野面村の産土神であったので、両村の氏子により本殿が造営されています。なお現在の社殿は1975(昭和50)年に造営されました。
現在、八所神社は九州自動車道八幡インターのすぐ横に位置します。
笹尾川の側の鳥居から、川沿いの最初の橋まで戻り、そこを渡ります。農協の先が点滅信号の交差点になります。そこを直進します。最初は狭いですが、その先は広い上り坂になり、そして下り坂になります。野面の集落の南側になります。広い道路が東西に通っています。そこから東方向の眺めです。
先の高架の道路は国道200号線バイパスです。その先は住宅団地がある星ヶ丘です。山が連なっていますが、左側の高い山は北九州市と直方市の境にある標高608mの尺岳です。右側の高い山は直方市の標高607mの雲取山です。
東西に通っている広い道路の西方向の眺めです。右手からこの道路に来ました。左手までが野面で、その先は直方市になります。突き当たりが国道200号線です。そこを右折して、鋭角の木屋瀬交差点を左折します。先に進むと木屋瀬に入ります。左手に木屋瀬小学校があります。その先の川までが木屋瀬でなく野面です。
木屋瀬小学校の西側に山浦池があります。池と川に池尻橋が架かっています。橋から南にある山浦池を見ています。小学校は左、東側の道路の隣です。川は池の右、西側に流れています。その西が木屋瀬で、その先に遠賀川が流れています。
山浦池は南北に細長い沼といえます。この辺りは低地で、かってここで採れる蓮根は野面村の特産だったそうです。野面の集落は高い所にありますが、笹尾川の流域やこの辺りは低地であったため、昔は洪水の時は水没する恐れがありました。
池尻橋から川の手前を右折して、北に向かいます。高架の九州自動車道の下を通り、突き当たりは笹尾川になります。山は雲取山で、その下に見える橋は、上流の国道200号線に架かった野面大橋です。かって木屋瀬地区にも炭坑がありました。炭坑は野面を中心に金剛・笹田に中小、更に零細な炭坑が分布していました。
明治期、木屋瀬の石炭は川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)で笹尾川・堀川・洞海湾を通って若松に運ばれました。笹尾川のここに積み場があり、石炭は、炭坑からここまで馬に曳かせたトロッコで運ばれました。炭坑からここまで馬車の道がありました。その後、エンドレスでも運ばれました。エンドレスでは、トロッコをワイヤーロープで曳きました。動くワイヤーロープに点々とトロッコがつながれて軌道上を運ばれました。
笹尾川の川沿いの道を上流に進みます。野面大橋の横の国道200号線を横断して、更に上流に進みます。次の西郎丸橋を渡ります。その先で、左手の田圃の中に農道が伸びています。この道は、鞍手軽便鉄道の線路跡です。
西郎丸橋を渡り、左手の田圃の中に伸びた農道の先です。長泉寺に行った道は、左の国道200号線の香月立石交差点から来て、この道に出て、右折して長泉寺に向かいました。
鞍手軽便鉄道は、国鉄香月線の香月駅とこの先の野面駅を結ぶ全長3.8kmの単線でした。途中に木屋瀬駅がありました。先程の笹尾川積み場跡の対岸にショッピングセンターがありますが、その前付近、真名子に木屋瀬駅はありました。
1915(大正4)年に鞍手軽便鉄道が香月‐野面間を開業しました。採用された機関車は、ドイツのコッぺル社製でした。翌年2号機が購入され、大正13年には3号機が購入されました。1926(昭和元)年には1号機を川崎造船所に売却しました。初年には1日7往復しました。最後尾には客車が1両連結されました。
経営主体は、鞍手軽便鉄道から帝国炭業、九州鉱業、筑豊鉱業鉄道と代わり、最後は筑豊鉄道でした。同名の会社が過去にありました。1891(明治24)年、若松‐直方間を筑豊興業鉄道が開業しました。1894(明治27)年には筑豊鉄道と改称しました。その路線は現在の筑豊本線として延伸されていきますが、九州鉄道に合併され、のち国有化されます。
道路の先、野面団地付近に鞍手軽便鉄道の野面駅はありました。駅の近くに金丸炭鉱がありました。駅の南東には宮下炭坑がありました。それから南、笹尾川の南に椎森炭坑がありました。駅が開設されると、エンドレスによってトロッコが石炭を積み込み桟橋(ポケット)に運び、炭槽はすぐ一杯になりました。中規模以上の炭坑では機械化が進み、大正末期の最盛期には、炭坑夫が炭坑付近に住み、保育所や商店が中心に炭坑町が栄えました。その一方では、家族だけの人力に頼る零細炭坑も多くありました。戦時中の石炭増産による乱掘の結果、土地の陥没や地盤沈下が起こりました。
香月‐野面間の鉄道は、1954(昭和29)年に廃止されました。1908(明治41)年開業された中間‐香月の香月線も1985(昭和60)年廃止されました。木屋瀬の炭坑は1963(昭和38)年にすべて閉山されました。


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