北九州点描

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浅川
  八幡西区  [2011/05/21]
 

浅川はかって広大な地域でした。北に江川が流れ、西に曲川が流れています。南は折尾と東は北側が小敷、南側が本城と接していましたが、川に近い所に集落があり、南と東の後背部は丘陵地でした。
江川は今では小さな川ですが、かっては遠賀川と洞海湾をつなぐ重要な川でした。神功皇后が通ったとの伝説も伝わり、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、名護屋に赴いた時にもここを通りました。また遠賀川の舟運に川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)が使われた際は、川ひらた(五平太船)が江川も往復しました。沿岸の田地の開墾が進んだため、この付近の川は浅くなったとして浅川の地名が付けられました。
浅川が接する曲川の下流は、かっては遠賀川の本流でした。1744〜50(延享元〜寛延3)年の大工事で、現在の遠賀川の下流の姿になり、かっての遠賀川の下流は曲川の下流になりました。北流した曲川は、西流した江川に合流し、その江川は北流して遠賀川の河口付近で合流します。
浅川は江戸時代から浅川村でしたが、1889(明治22)年、浅川・高須・小敷・塩屋・払川・蜑住・有毛・乙丸・大鳥居の9村が合併して江川村になりました。1908(明治41)年、江川村と洞北村が合併して島郷村になりました。1931(昭和6)年島郷村は若松市に編入され、1963(昭和38)年五市合併で、北九州市若松区となりました。
1974(昭和49)年5市が5区になっていた区が7区に分離される際、地域の実情が勘案され、浅川は八幡西区になりました。その後、後背部の丘陵地帯が開発され、大浦・医生ヶ丘・千代ヶ崎・浅川台・浅川日の峯・自由ヶ丘・浅川・藤原・浅川・三ツ頭・浅川学園台と新地名が付けられました。北九州の中で大変貌した地域の一つです。
左の川は江川です。前の交差点は、江川沿いの道路と高須と折尾を結ぶ道路とが交差する浅川橋交差点です。江川の左、南側が八幡西区浅川地区で、道路側の右、北側が若松区高須地区です。まず浅川橋交差点を直進し、江川沿いの道を進みます。浅川橋交差点の先すぐに、左手浅川から宿ノ内川が江川に合流します。
江川については「北九州点描」の「江川」をご覧ください。
江川に沿って進みます。左が三ッ頭(みつがしら)で、右の高台が高須です。三ツ頭は江川・曲川が合流した所に、遠賀川から満潮の潮流が川を遡り、三つの流れがぶつかる様子からつけられた地名です。先方に三ツ頭橋が架かっていますので、橋を渡り、住宅地を進みます。
住宅地を抜けた所に県道202号水巻・芦屋線の三ッ頭橋交差点があり、その先の曲川に三ッ頭橋が架かっています。江川と曲川に同名の三ッ頭橋が架かっています。
三ッ頭橋から曲川の上流、南側を眺めています。左側が三ッ頭で浅川の西端になり、先に行くと水巻町になります。右側は水巻町猪熊です。
曲川と遠賀川の江戸時代の工事については、「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」の遠賀川の部分をご覧ください。
先程の浅川橋交差点まで戻ります。
浅川橋交差点まで戻り、浅川を南北に通っている高須と折尾を結ぶ道路を南に行きます。この道路をメインにそこから東西に訪ねて行きます。
浅川橋交差点から江川を渡り、少し南に行った所です。左手に塀に囲まれた所があります。日本化薬折尾作業所跡地です。
ここは、1928(昭和3)年中外雷管折尾作業所として開設され、雷管を製造しました。1934(昭和9)年日本火薬製造は中外雷管を含む傍系数社を合併しました。戦後日本火薬製造は日本化薬と改称しました。折尾作業所は1977(昭和52)年閉鎖されました。
高須と折尾を結ぶ道路を南に進むと、縄手橋交差点で左に分かれる道があります。縄手橋は交差点の右手を流れる宿ノ内川に架かっている橋です。交差点を直進すると上り坂になり、水巻町と学研都市ひびきのとを結ぶ道路とが交差する浅川交差点に出ます。縄手橋交差点を左に入って行きます。
縄手橋交差点を左に入って来ました。左に道がある三叉路です。先の横断歩道がある場所に浅川本村バス停はあります。この付近から左に道を入って行った辺りが、かっての浅川の集落があった所と思われます。先のバス停の先が上り坂になり、水巻町と学研都市ひびきのを結ぶ道路とが交差する浅川2丁目交差点に出ます。浅川2丁目交差点は浅川交差点の東になります。
東西の水巻町と学研都市ひびきのを結ぶ道路の浅川交差点から少し西に行き、西側を眺めています。右の山は標高113.8mの日峯(ひのみね)山で、道路の右手は浅川日の峯で、左手が浅川台です。
浅川台には、1969(昭和44)年まで日炭高松三鉱があり、この付近の浅川には炭鉱住宅(炭住)がたくさん建っていました。
日炭いわゆる日本炭礦については、「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」の後半、水巻町の項をご覧ください。
浅川交差点から西に坂を下りて行った最初の交差点を右折して住宅地に入って行き、突き当りを左折すると日峯神社の鳥居があります。日峯山の北東山麓に当たります。鳥居を入って行くと、石段の前に次の鳥居が立っています。
日峯神社は、平安時代、隠岐の焼火(たくひ)神社の神を日峯山上に勧請したのが始まりといわれています。かって山麓まで海が湾入していました。暴風にあった舟が、日峯山の神に祈りますと、山上に火が現れ、助かりました。こうして海上安全の神として崇拝されました。
山上の神殿は参拝に不便なため、この山麓に下宮として神殿が建立され、近隣の産土神として崇拝されてきました。鳥居の右手の一段高い所に上臈岩が祭祀されています。日峯山の山頂付近に琵琶岩、国見岩とこの上臈岩の3つの岩が鎮座していましたが、日峯山に配水池が建造された際、この岩がここに移されました。石段を昇ると社殿があります。
浅川交差点に戻り、反対側の東方向に向かいます。坂を下りた所に浅川2丁目交差点があり、そこから上り坂になり、坂の頂上から水巻町と学研都市ひびきのを結ぶ道路の東側を眺めています。道路の左右とも新町名の浅川です。
水巻町と学研都市ひびきのを結ぶ道路の坂を下りて来ると、浅川中学校前交差点があります。道路の左手は浅川学園台になります。高台の建物は、左が光貞市民センターで、右が浅川中学校です。次の交差点は県道11号有毛・引野線と交差する浅川中学校東交差点です。そこを直進すると、学研都市ひびきのになります。
浅川交差点に戻り、高須と折尾を結ぶ道路を南に進みます。坂を上って来ると、左からの道が合流します。
この道は、縄手橋交差点を左に入り、浅川本村バス停の前を通り、浅川2丁目交差点を直進して来た道で、以前から浅川と折尾を結ぶ道でした。水巻町と学研都市ひびきのを結ぶ道路や高須と折尾を結ぶ道路は、近年拡幅や新設された道路です。
高須と折尾を結ぶ道路は、ここまで上り坂で、一旦なだらかになりますが、先で再度上り坂になります。道路の左手は藤原で、右手は浅川台です。藤原は浅川の字名の一つでした。
高須と折尾を結ぶ道路の坂を上って来ると、右手に九州共立大学のキャンパスが広がっています。左手は藤原です。キャンパスは坂を下りて国道199号線まで続きます。そのキャンパス内に同じ福原学園経営の九州女子大学・短大や自由ヶ丘高校があります。このキャンパスがある場所は自由ヶ丘と呼ばれ、それが新町名にもなっています。自由ヶ丘は浅川と折尾との境になります。
高須と折尾を結ぶ道路の九州共立大学前交差点の先、下り坂に産業医大入口交差点があります。そこを左折して東方向に向かいます。道の両側は大浦で、更に進みますと、左手に産業医科大学のキャンパスが広がります。この付近の町名は医生ヶ丘で、医者が生まれるということで命名されたようです。大浦も医生ヶ丘も浅川と本城との境でした。
これは産業医科大学の正門ですが、向こうの建物は産業医科大病院です。
1972(昭和42)年産業医制度が創設され、産業医学の振興と産業医の養成を目的にする産業医科大学を創設することになりました。その誘致が北九州市に決まり、1978(昭和53)年産業医科大学が開設されました。
高須と折尾を結ぶ道路の産業医大入口交差点に戻り、南に向かいます。下り坂はJR鹿児島本線まで続きます。先の交差点は国道199号線と交差する九州女子大前交差点です。
道路の右手のキャンパスに九州女子大学・短大や自由ヶ丘高校があります。この場所に、1947(昭和22)年女子教育に重点を置いた福原高等学院が創設されたのが始まりでした。
道路の左手はショッピングセンターのサンリブ折尾店で、その背後は大浦です。更に坂を下ると折尾です。その間は学園大通りと呼ばれています。
学園大通りを通り、JR鹿児島本線のガードを通り過ぎると折尾駅西口が左手にあります。


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