北九州点描

ホーム


本城
  八幡西区  [2011/07/02]
 

本城は、洞海湾の深奥部に位置し、北の江川と南の堀川の二川に挟まれ、東は洞海湾、西の陸部は北側が塩屋、南側が折尾に接する広い地域でした。
かっての洞海湾は広く、深く湾入していて、本城の洞海湾、江川、新々堀川(堀川の下流の現在の呼称)に接する標高のない部分は、かっては海でした。陸地は低い丘陵地で、海は遠浅の内海でしたので、古くから人々は住みつき、縄文時代後期から弥生時代までの柳原貝塚(本城東1丁目)、弥生時代の本城南遺跡(貴船台)などの遺跡が発見されています。古墳時代になると、丘陵地に横穴形態の古墳が散在するようになりました。赤坂横穴群(本城東3丁目)、夜越横穴群(本城東4丁目)、帯田山横穴群(本城東5丁目)、更に相坂横穴群(大字本城)が発見されています。力丸遺跡(力丸町)では平安時代から鎌倉時代にかけての貝塚が発見されていますが、遺跡近くまで洞海湾が湾入していたことが分ります。源平の合戦時、現在の本城霊園の場所に源範頼(のりより)が城を築いたといわれ、本城の地名はこのことに由来します。中世この地を治めた麻生氏の文書には、本庄と記されています。開発が進み遺跡が消滅したり、その場所が分らなくなった遺跡もあります。
関が原の合戦後、筑前国には黒田氏が入り福岡藩が成立します。江戸期に入ると遠浅の洞海湾岸は干拓が行われ、次々と新田が開発されました。本城の水田のかなり部分は、江戸時代以来の干拓によるものでした。1673(延宝えんぽう元)年松ヶ鼻開作、1681(延宝9)年船ヶ浦開作が行われました。松ヶ鼻が北、船ヶ浦が南(本城3・4丁目)と隣接していました。元禄期(1688-1704)郡開(ぐんびらき)と呼ばれる金山川河口部(本城東4丁目)と古渡潟(本城東3・6丁目)の開作が行われました。この結果、金山川河口は洞海湾の中に延びていきました。1762(宝暦12)年堀川は開通し、堀川河口部になります。本城での最大の開作は1745-50(延享2-寛延3)年の御開(おひらき、御開1-5丁目)の開作です。これは郡の役所が管轄する郡開でした。この開作には堀川の開削に活躍する一田久作も参加しています。この開作で江川の洞海湾の河口部南側が形成され、それ以前の元禄元年の対岸の蜑住・竹並の開作で新しく払川村が誕生しますが、この江川の洞海湾の河口部北側の形成があったため、洞海湾の一部になっていた江川が川状になりました。御開は開作の結果、御開村として本城村の枝村になりました。それまでに、郡開でないこれら以外の開作も行われてきました。明治になった1870(明治3)年碇地(いかじ、本城5丁目・御開2丁目)の開作が行われました。
工場立地のための洞海湾岸の埋立工事が、若松築港会社により明治以来行われました。本城地先の埋立工事は戦前に着工され埋立てられました。戦後の1950(昭和25)年、竣工前の埋立地(洞北町)に八幡競馬場が開設され、1955(昭和30)年に埋立工事は竣工しました(本城5丁目、洞北町)。八幡競馬場は翌1956(昭和31)年廃止されました。
本城は、江戸期から1889(明治22)年まで遠賀郡本城村でした。1889(明治22)年、永犬丸・則松・折尾・本城・陣原の5村が合併して洞南(くきなみ)村となり、1904(明治37)折尾村と村名を変更し、1918(大正7)年折尾町となり、1944(昭和19)年八幡市に編入されました。
戦後は開発が進みます。特に1971(昭和46)年から本城西部土地区画整理事業が始まり、その後本城西部第二、本城東部、本城南部土地区画整理事業と続きます。1978(昭和53)年医生ヶ丘に産業医科大学が開設されました。戦後、国道3号線を補完し、臨海部の工場地帯を結ぶ国道199号線が計画され、1954(昭和29)年より逐次部分的に着工され、1978(昭和53)年の本城のバイパスの開通で完工となりました。こうして本城は大変貌しました。平成に入ると、本城の北西から若松区小敷・塩屋にかけて学術研究機能をもつ創造的な都市、学研都市ひびきのが1995(平成7)年から開発され、現在も事業は進行中です。
かっての本城の範囲は、現在の町名の本城・本城東・御開・貴船台・星和町・友田・光貞台・洞北町・本城学研台で、それに大浦・医生ヶ丘・千代ヶ崎がかっての浅川との境界になり、楠木がかっての折尾との境界になります。
国道199号線と県道11号有毛・引野線が交差する力丸交差点から西に県道を進み、すぐに本城霊園と案内がありますので右折します。寺ヶ浦池を右に見て進みますと、霊園の中の十字路に出ます。そこを左折したすぐの霊園の最高部に高圧線の鉄塔が立っています。その脇の木立の中に祠があり、その前に蛭子神社の鳥居が立っています。この付近が本城(蛭子谷、えびすたに)城の本丸跡といわれています。
源範頼・義経兄弟(父は義朝、頼朝は異母兄で、それぞれ母は異なる)は平家追討のため西下します。1185(文治元)年1月範頼は豊後より九州に上陸し、ここ蛭子谷に陣を張ります。同年2月芦屋で平家方の原田種直を打ち破ります。そして3月義経により壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ、滅亡します。範頼が鎌倉に戻った後、都落ちした義経は奥州で頼朝の命を受けた藤原氏に討たれ、藤原氏も頼朝によって滅ばされます。後、範頼も頼朝から謀反の疑いをかけられ、誅殺されました。
本城霊園の北西は光貞台で、住宅地として開発されました。霊園の北東には隣接して寺ヶ浦池があり、その先は本城緑地保全地区になります。光貞台の南は産業医科大学がある医生ヶ丘で、本城霊園の南は千代ヶ崎です。
県道11号有毛・引野線に戻り、県道を横断して直進して坂を上りますと、左手に力丸記念公園があります。1971(昭和46)年から始まり、1970(昭和55)年に完工する本城西部土地区画整理事業を記念した公園です。
この事業の途中に、この丘陵地で平安時代から鎌倉時代にかけての貝塚と室町時代の墓の力丸遺跡が発見されました。貝塚があることによりこの近くまで洞海湾が湾入していたと思われます。国道199号線の東側の低い所を金手川が東に洞海湾に流れます。その先南東には丘陵地が続きます。
力丸交差点に戻り、国道199号線を南西に行くと左手にJR本城駅があります。
1891(明治24)年筑豊興業鉄道によって現在の筑豊本線の直方−若松間が開通しました。石炭輸送が目的の鉄道敷設でしたので、炭鉱に支線を伸ばしていきました。やっと1929(昭和4)年鹿児島本線の原田(はるだ)駅に延長されて、筑豊本線になりました。この間、筑豊興業鉄道は筑豊鉄道と改称し、後に鹿児島本線を敷設した九州鉄道に合併され、九州鉄道は1907(明治40)年国有化されました。戦後、エネルギー革命により炭鉱は閉山となり、石炭の鉄道輸送はなくなり、支線の多くは廃線となりました。しかし、筑豊から福岡や北九州への通勤・通学の利用は増えました。そのため、かっての路線を越えた運行形態となり、篠栗線・筑豊本線・鹿児島本線を通って、福岡・筑豊・北九州を結ぶ運転系統が福北ゆたか線との愛称で呼ばれ、筑豊本線の北と南の部分は若松線、原田線と呼ばれるようになりました。
折尾‐若松間の若松線の一番新しい駅、JR本城駅は2003(平成15)年開業しました。橋上駅舎で、駅の反対側とは跨線の連絡路で結ばれています。左手には高架式の駐輪場があります。駅の向こうに見える集合住宅は、友田の折尾東団地です。
国道199号線を反対に北東に行き、力丸交差点の先すぐ左手に、八剱(やつるぎ)神社があります。祭神はヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)で、本城の産土神になっています。
国道脇に立つこの鳥居を入ってすぐ右手に、現在は桜の木で隠れたようになっている佐藤実氏顕彰碑があります。1862(文久2)年大庄屋の佐藤家の長男に生まれ、洞南村村長に就き、遠賀郡会議員、福岡県会議員を務めました。
八剱神社から国道199号線を渡った先に力丸東公園があります。その東側に地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・毘沙門天が祀られた祠が4つ並んでいます。
かって本城駅付近は水田で、その一角は沼地で石仏が祀られていて、湯屋堂と言っていたのが湯庵堂と呼ばれるようになったといわれています。その沼地には薬効のある温泉が出ていて、戦いで傷ついた武士が傷を治したと伝えられていました。土地区画整理事業を行うに当たり、石仏をこの地に移したと湯庵堂由来の石碑が祠の前に立てられています。
力丸交差点から県道11号有毛・引野線を南東に行きます。JR若松線の跨線橋になります。跨線橋の下は金手川が流れ、その南側にJR若松線が通っています。その南は本城東3・6丁目で、この辺りが江戸時代郡開の古渡潟の開作地だったと思われます。県道11号有毛・引野線のJR若松線の跨線橋を渡ると上り坂になり、本城中学前交差点の先から下り坂になります。この辺りは小字名で赤坂・夜越・帯田といった丘陵地が続きます。それらの丘陵地には横穴形態の古墳が散在していましたが、現在はそれらを見ることはできません。
県道11号有毛・引野線と国道199号線旧道が交差する帯田交差点を右折します。国道199号線のバイパスが開通するまで、国道199号線は国道3号線から折尾市街地を通り、若松区二島に到りました。ここではバイパスは国道199号線、それまでの国道199号線は旧道と表します。帯田交差点を右折したすぐに右に入る路地があります。その先すぐに小山があります。それが聖塚(ひじりつか)です。
室町時代、高野山で修業する僧が一人でここを通りますが、賊に襲われ殺されます。その後僧の悪霊が現れ、ここを通る人々は祟られました。そのため、僧の霊が浮かばれないとして、塚を建てて供養しますと、祟りはおさまったと伝えられています。
国道199号線旧道に戻り、その先で右折して坂を上ると左手に小田利三郎翁之碑が立っています。小田利三郎は1853(嘉永6)年に生まれ、遠賀郡会議員、福岡県議員を務め、折尾町長に就いています。その後芦屋町長に就いています。戦前等身大の銅像が台座の上に建てられましたが、戦時中供出され、その位置に石碑が建てられています。
国道199号線旧道に戻り、南に進みます。本陣橋交差点で国道199号線旧道は右折して折尾に向かいます。交差点を直進すると新々堀川に本陣橋が架かっています。本陣橋は本城と陣原の間に架かっていますので、それぞれの地名からとって付けられています。手前に旧本陣橋の親柱があります。1924(大正13)年に架けられた時のものです。現在の橋は1989(平成元)年に架け替えられました。
本陣橋から上流の眺めです。真っ直ぐ先の流れが金山川で、右からの流れが新々堀川です。合流点から手前に木橋が架かっていましたが、それ以前は渡し船による渡場でした。江戸時代以来、堀川は川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)による筑豊の石炭の舟運に重要な役割を果たします。しかし、鉄道が開通すると、次第に鉄道に主役を奪われ、川ひらたは1938(昭和13)年に姿を消しました。
堀川については「八幡のまちかど」の「堀川」を、金山川については「北九州点描」の「金山川」をご覧ください。
対岸の陣原村の渡場付近で、佐藤慶太郎は1868(明治元)年生まれました。父佐藤孔作は本城村の佐藤一族の出で、渡場付近で商売をしていました。慶太郎は明治法律学校(現明治大学)を出て、石炭の積出港の若松の石炭商山本商店に勤めます。その後山本の義妹と結婚し、独立します。商売に才覚を発揮し、炭鉱経営にも乗り出します。しかし、若い時からの胃腸病に苦しみ、第一線から引退します。事業を整理し、財産を社会奉仕に使うようにしました。別府に病院を建て、若松に医療の財団法人を設立しました。また、慶太郎だけの寄付金で東京府美術館が上野公園に開館しました。妻が亡くなると別府に移り、若松の邸宅は若松市に寄付しました。その跡地が高塔山の麓の佐藤公園です。晩年は食生活改善を勧め、生活刷新運動を行いました。1940(昭和15)年に死去しましたが、遺産は寄付に使われるように遺言しました。
本陣橋から新々堀川沿いを下ります。現在の堀川は、かっての堀川のように遠賀川の水がここまで流れて来ていません。寿命唐戸から中間唐戸までの間が堀川、新堀川で、中間唐戸から下流の堀川の大部分は新々堀川になります。
本陣橋のすぐ下流に県道11号有毛・引野線の夕原大橋が架かっています。その先の対岸から下流を眺めています。先の方にゆうじょう橋と名付けられた歩行者専用橋が見えます。夕原大橋付近からゆうじょう橋の先までは郡開で開作されました(本城東4丁目)。対岸のこちら側も元禄期に開作されました。それはもっと大掛かりで、穴生潟の開作と呼ばれ、郡開はその一環に行われたといわれています。この結果入り込んでいた洞海湾が陸地化され、その中を川が洞海湾側に延長されました。
ゆうじょう橋の先に本城東1丁目の本城団地が見えています。あの付近で柳原貝塚は発見されました。その先に県道279号本城・熊手線の本城橋が架かっています。その先は洞海湾になります。
本城橋から県道279号本城・熊手線を北西に行きます。右手は戦前に埋立てられ、戦後に完成した埋立地です。左手は本城団地です。
県道279号本城・熊手線と国道199号線旧道が交差する古開(こびらき)交差点です。先に見えるのはJR若松線の跨線橋で、その先で国道199号線のバイパスに出ます。この交差点を右折して国道199号線旧道を進みます。
先にJR若松線の踏切があります。この付近から延宝期に船ヶ浦開作、その先に松ヶ鼻開作が行われ(本城3・4丁目)、大開、古開、松ヶ鼻の小字名が残っていました。
JR若松線の踏切を通り越し国道199号線旧道を進むと、十字路交差点があります。交差点を右折し、住宅地の狭い道を通ります。右手にJR若松線が見えてきて、左手の高台に福祉施設の建物があり、その下に小公園があります。その一角にこの開墾之碑が立っています。碇地開作(本城5丁目・御開2丁目)のいきさつが刻まれています。
1869(明治2)年は冷害で大凶作になりました。大庄屋の佐藤扇十郎は飢饉の窮民対策の一つとして、碇地海面の開拓工事を計画し、1870(明治3)年に認可を得て着工しました。この工事には本城村だけでなく、周りの村々から窮民が作業に集まり、労米が支払われました。翌1871(明治4)年には防潮堤が完成し、その後農地化が進められました。
開墾之碑の前の道を道なりに進みますと、反時計回りで国道199号線旧道に戻り、碇地交差点に出ます。
碇地交差点から国道199号線旧道を北東に進みます。若松区の間を江川が流れていて、そこに架かっている栄橋を渡り、若松側から御開を望んでいます。かっては洞海湾は右手奥まで入り込んでいました。延享期に本城最大の開作が始まりました。それは御開と呼ばれる開作でした。それ以前の元禄期にずっと右側奥若松側の蜑住・竹並で開作がありました。左端は八幡自動車学校で、右に見える照明塔は本城公園の陸上競技場のものです。
江川については「北九州点描」の「江川」を、本城公園については「本城公園」をご覧ください。
若松側の二島1丁目交差点を左折して国道199号線を西に進みます。鴨生田交差点を左折して江川に架かる江川大橋を渡り、国道199号線を南西に進みます。
本城公園の前の国道199号線を南西に進みます。相坂交差点を右折して北西に進みます。国道199号線の相坂交差点からの道と本城3丁目交差点からの道が交差する交差点を直進しますと、左手に低い丘陵地が見えます。もう少し見やすい場所に向かいます。右手に八幡電機精工の工場が見えます。その前を左折して南に進みます。八幡電機精工の横は水田でしたが、現在は住宅がずいぶん建っています。少し行くと水田があり、その先に標高20m程度の丘陵地があります。先程は丘陵地の東側でした。こちらは西側からで、相坂横穴群がある丘陵地です。
1934(昭和9)年調査されましたが、それ以降調査されず、1990(平成2)年から1990(平成7)まで5次の本格的な調査が行われました。丘陵地全体に40基以上の横穴があったといわれ、38基が確認されています。
横穴は、低い丘陵地を利用した古墳時代後期の横穴墓(おうけつぼ)です。
更に南に進みます。丘陵地の山塊の南端に向かう道がありますので、左折して東に向かいます。そのまま直進して南に行くと鵜巣池の堰堤下に着きます。東に行くと、左手がこのような景色になります。左側手前の木立内も横穴が確認されていますが、中央の奥が平成2年から5次の調査が行われ、17基の横穴が確認されました。須恵器、土師器、碧玉製管玉、ガラス製小玉等が出土しています。横穴は古墳時代後期の6世紀後半から7世紀前半に造られました。特徴的なこととして、墳丘を持つ横穴が7基ほど見つかりました。墳丘を持つ横穴は直方市の水町遺跡にみられますので、「北九州の近隣」の「直方市」の水町遺跡の項をご覧になってください。遠賀川流域で有名な横穴墓群に古月横穴(ふるつきよこあな)があります。「北九州の近隣」の「中間市・鞍手町」の鞍手町古月横穴の項をご覧になってください。
この道の先は行き止まりになります。国道199号線の相坂交差点からの道と本城3丁目交差点からの道が交差する交差点に戻り、右折して相坂池を右に見て本城3丁目交差点に向かいます。
本城3丁目交差点を右折して国道199号線を南西に進みます。本城2丁目交差点を右折すると、本城第一トンネルが見えます。この先第一から第三までの本城トンネルが続きます。
学研都市ひびきのが開発されるのに従い、黒崎から北九州学術・研究都市へのアクセス道路として、県道279号本城・熊手線の延長上に3つのトンネルと橋梁により、本城と学術・研究都市を結ぶ道路が完成し、2005(平成17)年から利用されています。
本城と学術・研究都市を結ぶ道路は、本城緑地保全地区を通るため環境に悪影響を与えないように、トンネルと池の上の橋梁が建設されました。
トンネルの上を歩いて訪ねてみます。本城2丁目交差点から国道199号線を南西に進み、次の本城小学校入口交差点を右折します。車1台程度のアスファルト道です。鬱蒼とした森の中を進み、寺ヶ浦池の側を通って行きますと、分かれ道になります。右に行きますと、本城第二トンネルの上に出ます。左に行きますと、本城第三トンネルの上に出ます。
本城第二トンネルの上に出ました。本城第三トンネル方向の西側の眺めです。
分かれ道に戻り、左に行きます。森の中の坂を上って、下って行くと視界が開けます。アスファルト道は伸びていますが、右に入って、南東方向を眺めています。本城第三トンネルの上で、遠くに見えるのは皿倉山です。
アスファルト道を更に進むとフェンスがあり、下は道路です。本城第三トンネルの北側の学研都市からの上り線の西端のトンネル上です。フェンスの手前から左に入る小道があり、階段があります。階段を下りると、南側の学研都市への下り線の本城第三トンネルの西端の歩道に出ます。本城トンネルは1車線分程の歩道が完備されています。第三・第二・第一と本城トンネルを進むと、本城2丁目交差点に戻ります。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 本城


トップへ

北九州点描へ

ホームへ