北九州点描

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陣原
  八幡西区  [2011/11/05]
 

陣原(じんのはる)は洞海湾の奥の南西部で、北西の新々堀川と南東の割子川の間の地域になります。
応神天皇によって遣わされた武内宿祢(たけうちのすくね、たけのうちのすくね)が陣を張った所ということで、陣原の地名がついたという説があります。もう一つは、本城蛭子谷に陣を置いた源範頼(のりより)はここで平家方の香月秀則と対戦し、打ち破りました。これにより陣原という地名が付いたといわれています。
江戸時代、陣原村と隣の瀬板村は、穴生(あのう)村の枝村(開発により新しくできた村)でした。当時、皇后崎(こうがさき)から穴生にかけては、長崎川(現在の金山川)と割子川からの土砂の流出で干潟になっていました。1696〜98(元禄9〜11)年福岡藩は穴生潟の開作を行いました。金山川から皇后崎の間に土手が築かれ、その内側が田地化されました。この時期、金山川対岸の本城の郡開も行われました。この開作への入植で、穴生村の枝村から陣原村は独立したと思われます。
1889(明治22)年、陣原・則松・永犬丸・折尾・本城の五村は合併して洞南(くきなみ)村になりました。洞南村は、1904(明治37)年折尾村と改称し、1918(大正7)年折尾町となり、1944(昭和19)年に八幡市に編入されました。
本城と陣原を結ぶ橋が本陣橋で、二つの地名から合成した名前です。現在の本陣橋は1989(平成元)年に架け替えられました。1924(大正13)年に完成した旧本陣橋の橋柱が橋のたもとに遺されています。
本城については「北九州点描」の「本城」をご覧ください。
   
本陣橋から上流の眺めです。本陣橋の少し上流で金山川と新々堀川が合流して、新々堀川として洞海湾に注ぎます。右からの流れが新々堀川です。橋がない時代には、その合流点付近に渡し場があり、舟で渡っていました。1762(宝暦12)年に堀川は開通しましたので、元禄期には堀川は開削されていませんでしたので、金山川が洞海湾に注いでいました。
二つの川については、「北九州点描」の「金山川」と「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
本陣橋から新々堀川の下流の眺めです。左手が本城で、右手が陣原で、下流の橋は夕原大橋です。夕原大橋の本城側に建っているのは結婚式場です。元禄時代、その付近から下流沿いが郡開で開かれ、対岸の陣原では穴生潟の開作が行われました。
そこまでが当時の洞海湾でした。最下流の本城橋が架かっている県道279号本城・熊手線の東側は、戦後埋立てられました。
本陣橋から南に向かいます。JR鹿児島本線の踏切を過ぎてしばらく行くと、右手に舎月庵があります。ここは井上周防之房(すおうゆきふさ)の屋敷跡といわれています。
福岡藩初代藩主黒田長政は、1604(慶長9)年井上之房に黒崎城を築かせ、居城させました。井上之房は、黒田家の大身で、御牧郡(みまきぐん、遠賀郡のことで、1664年までこう呼ばれました。)のうち、1万7,000石が与えられました。1615(元和元)年一国一城令により黒崎城は廃城となりました。廃城後井上之房は、黒崎城があった城山の西麓の屋敷から陣原の屋敷に移りました。1634(寛永11)年井上之房はここで没しました。井上之房の墓は岡垣町高倉の龍昌寺に、妻と娘の墓は穴生の弘善寺にあります。龍昌寺については「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」の岡垣町の項を、弘善寺については「八幡のまちかど」の「穴生」をご覧ください。
 
   
舎月庵の先を進みますと、かって西鉄電車折尾線の廃線跡が道路になっています。西側折尾方面を見ています。右端に黒崎方面への陣原電停がありました。
黒崎駅前−折尾間の折尾線は1914(大正3)年九州電気軌道によって開通されました。1942(昭和17)年九州電気軌道は数社を合併して西日本鉄道が誕生しました。折尾線は、他の北九州線が路面電車だったのに対し、郊外型の路線でした。2000(平成12)年折尾線は廃止になりました。隣の電停は、西の折尾側が折尾東口、東の黒崎側が皇后崎(こうがさき)でした。
   
折尾線の廃線跡の道路を西に進みます。先の杭が立っている所は、折尾線の廃線跡がそのままになっています。
ここから左折します。国道3号線に出る手前の右手に、旗頭(はたがしら)神社の鳥居があります。
 
   
旗頭神社の祭神は武内宿祢です。応神天皇によって遣わされた武内宿祢が陣を張った所ということで、陣原の地名がついたという説があります。また麻生興春(おきはる)の霊も祀られています。
麻生興春が花尾城から山鹿城に移る時、この亀山(社地が亀の形に似ている)の地で花尾城を望み、自分の没後は、ここに葬るように旗を指し立てたといわれています。興春の遺志により、1523(大永2)年旗指社が創建されました。その後、黒崎城を築いた井上周防之房は武内宿祢を崇敬して社殿が再興され、陣原に移住した後は旗頭社として陣原の産土社として尊崇されました。
   
折尾線の陣原電停跡まで戻ります。東側黒崎方面を見ています。草地の部分が廃線跡です。右端に折尾方面への電停がありました。
先方に県道11号有毛・引野線の跨線橋が架かっています。左側の道を跨線橋をくぐって直進します。
 
   
県道11号有毛・引野線の跨線橋の下を東に行くと、西鉄電車折尾線の廃線跡は住宅地になっています。ここは跨線橋から最初の十字路です。廃線跡に住宅が一直線に並んでいます。
ここを左折すると、陣原駅前の通りに出ます。その交差点を右折して東に進むと、左手にある陣原駅の前に出ます。
   
JR陣原駅は2000(平成12)年11月開業しました。ここでは、1945(昭和20)年折尾駅の貨物操車場が開設され、1961(昭和36)年東折尾貨物駅になりました。しかし、1984(昭和59)年廃止となっていました。並行して走っていた西鉄電車折尾線の廃止と重なるようにして陣原駅は開業されました。
陣原駅は橋上駅です。駅の改札口の前は跨線橋の公共連絡路になっていて、駅の南北が連絡されています。階段の他に、エレベーター・エスカレーターで昇降できます。
 
   
陣原駅の北側に、皇后崎環境センター皇后崎工場があります。北九州市のゴミ処理施設の3工場のうちの一つです。この右手、南東には皇后崎浄化センターがあり、下水道処理施設があります。
ここは陣原の北側の夕原(ゆうばる)町で、市の施設のほかに、工場地域になっています。
夕原は江戸時代元禄期に穴生潟の埋立でできた原なので、潟原(せきばる)と呼ばれました。これを略して、潟と同音の夕を当てて書いていたものが、訓読みの夕原(ゆうばる)になったといわれています。
   
陣原駅の前を東に進むと、道は右にカーブして西鉄電車折尾線の廃線跡を通って、南に向かいます。割子川を渡ると国道3号線に出ます。その国道の上を黒崎バイパスが高架で通っています。
黒崎バイパスは国道3号線の黒崎地区の交通渋滞を緩和するために、八幡東区西本町を起点に、ここ八幡西区陣原2丁目を終点とする区間の道路が建設されています。陣原ランプ‐黒崎北ランプ間2.9kmは2003(平成15)年着工され、2008(平成20)年に4車線中2車線が供用開始されました。なお全線5.8kmの開通は2018年頃の予定です。
 
   
割子川沿いの道を東に進みます。割子川の上を、国道3号線から分かれた黒崎バイパスの高架道が通っています。
割子川に橋が架かっています。その橋の先で、割子川に宮川が合流します。
割子川と宮川の合流点の橋から下流を眺めています。左手が陣原で右手は皇后崎町です。
北部九州には神功皇后伝説がありますが、この地にもあります。仲哀天皇と神功皇后は熊襲を退治するために別々に九州に向かいます。神功皇后は洞海湾に入り、ここ皇后崎に滞在した後、洞海湾を渡り、江川を通って芦屋に向かいます。古代・中世には皇后崎は港の機能がありましたが、近世には干潟となり、その機能は失われました。
この先黒崎バイパスの高架道が右にカーブする手前の割子川に皇陣橋が架かっています。その横は西鉄電車折尾線の廃線跡で、その先にJR鹿児島本線・福北ゆたか線の鉄橋の下を割子川は通り、県道279号本城・熊手線の皇后崎橋の下を流れ、三菱化学と三菱マテリアルの間を通って洞海湾に流れ込みます。
   
割子川沿いの道を皇陣橋まで来ました。皇陣橋の下流側に西鉄電車折尾線の鉄橋がありました。皇陣橋を陣原から皇后崎町に渡ると、右手に西日本鉄道皇后崎変電所があります。1914(大正3)年九州電気軌道皇后崎変電所として建設され、折尾線に給電されました。折尾線廃線後は、近くを通る西日本鉄道系列の筑豊電鉄に給電されています。
西鉄電車折尾線が運行されていた時は、皇后崎変電所の前に皇后崎電停がありました。
 


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