北九州点描

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  小倉南区  [2013/03/02]
 
貫(ぬき)は、周防灘に東流する貫川の流域です。貫川は、標高711.6mの貫山から流れ出て、曽根平野から周防灘の曽根干潟に流れ込みます。曽根平野は、貫川と、その北で周防灘に東流する竹馬川によって形成された沖積平野です。東は周防灘で、西は貫山系や南の水晶山系に囲まれた南北約3q、東西約1.5q程度の小平野でした。干拓された江戸時代以前の曽根平野の海岸線は、概ねJR日豊本線の近くでした。貫の北側は、西から長野、津田、田原、曽根で、貫の東側は北から曽根、朽網です。曽根、朽網は周防灘に面します。貫の西側は貫山系、貫の南側は水晶山系の山地です。

3世紀後半から始まったといわれる前方後円墳は、全国に広まりましたが、大和政権との結びつきが強い地域で築造されました。古墳時代の支配階級の墳墓形態で、その規模は首長の勢力を反映するものでした。北九州市内の前方後円墳は、曽根平野周辺に集中します。荒神森古墳(曽根)、茶毘志・上ん山・両岡様古墳・御座古墳(貫)、畠山古墳(田原)、観音寺古墳(長野)の7古墳が数えられますが、更に2古墳も入れて9古墳があるともいわれています。527(継体天皇21)年、大和政権に反旗を翻した磐井の乱が起こります。乱を制圧した大和政権は、535(安閑天皇2)年九州に直轄地の屯倉(みやけ)を置きます。そのひとつの大抜屯倉は貫に比定されます。

現在の貫地区は、宇佐八幡宮の荘園であった貫荘に一致するといわれています。貫荘の成立は平安時代の1054(天喜2)年でした。宇佐八幡宮からは荘官として永広氏が派遣されていました。鎌倉・室町と時代が下ると、貫荘の荘園経営は困難となりました。在地武士の貫・黒水両氏の力は強くなり、戦国時代以降中世末期まで、両氏は貫荘を所領しました。貫城跡は、貫氏の居城跡といわれています。しかし、両氏も他の北九州の在地武士と同様に、中国の大内氏、その後の毛利氏と豊後の大友氏の間の争乱に翻弄されます。

江戸時代から1887(明治20)年まで、貫は上・中・下貫村に分かれていました。1887(明治20)年上・中・下貫村は貫村になりました。1889(明治22)年貫・長野・津田村が合併して、貫山の別名の芝津山から芝津村になりました。1907(明治40)年曽根・朽網・芝津・霧岳村が合併して曽根村になりました。1934(昭和9)年曽根村は曽根町になりました。1942(昭和17)年、曽根町は小倉市に編入されました。貫は農村地帯でしたが、昭和40年代から曽根に隣接する地域から宅地開発が始まり、1985(昭和60)年国道10号線の曽根バイパスが完成すると、そのスピードは加速され、弥生が丘と呼ばれる大型ニュータウンなどが建設されました。  
国道10号線曽根バイパスを南に行くと、県道256号新道寺・曽根線と交差する貫交差点があり、その少し先の左手に店舗があります。その背後の小山が茶毘志山(ちゃびしやま)古墳で、現在は後円部しか残されていません。1970(昭和45)年に前方部が採土により削られました。全長54m、前方部幅44m、後円部径30mで、5世紀後半から末にかけて築造されました。曽根平野の中央部に当たります。
   
茶毘志山古墳の前の店舗から、東側にある住宅地に100mほど入って行くと、上ん山(うえんやま)古墳があります。前方後円墳で、左手が前方部で右手が後円部です。全長50m、前方部幅31m、後円部径30mで原形がよく保たれています。築かれたのは6世紀前半で、茶毘志山古墳と上ん山古墳は近くにあるため、同じ系統の豪族のものと思われます。
ここから約1km北に行った所に荒神森古墳(こうじんのもりこふん)があります。古代では海岸近くになります。3古墳とも北九州市の文化財に指定されています。
荒神森古墳については、「北九州点描」の「曽根」をご覧ください。
貫交差点に戻り、県道256号新道寺・曽根線を西の山手の方に進みます。しばらく進むと、左手に荘(しょう)八幡神社の案内がありますので、左折します。先の方に鳥居が見えます。その手前に朱色の欄干の橋が架かっています。貫川に架かった御座橋で、右手の上流側に貫山が見えます。
貫山は標高711.6mで、秀麗な山形は古来より山岳信仰の対象でした。山麓には多くの社寺がありました。貫川は貫山から北東に流れ出て、曽根平野の貫、曽根を流れ、曽根新田を潤うして、周防灘の曽根干潟に流れ込みます。
 
   
橋を渡り、鳥居をくぐって行くと、左手に荘八幡神社の石碑があり、石段が真っ直ぐ上に伸びています。この地に宇佐八幡宮の荘園、貫荘があったことを考えますと、荘園開発に伴い、荘園の守護神として宇佐八幡宮から勧請されたと思われます。
かって荘八幡神社にあった梵鐘が、滋賀県長浜市内保町にある浄土真宗の誓願寺(戦国時代小谷城の浅井氏を支援した一向宗の城郭寺院)にあります。梵鐘には、正平21(南朝年号1366)年12月17日の日付の銘文が記されています。
   
石段を昇ると、社殿があり、その右手前に鈴石と呼ばれる大岩があります。神社の由緒によりますと、平安時代初期の859(貞観元)年、宇佐八幡宮の分霊を京都にお祀りするため、神輿で上京途中、貫に着きました。鈴石の上で、分霊は一夜を過ごしました。そして、神輿は京都に無事着き、分霊は祀られ、860(貞観2)年石清水八幡宮が創建されました。その数年後、ここに社殿を建て、宇佐八幡宮の分霊をお祀りしました。
荘八幡神社から貫川の右岸の道を下流に進みます。荘八幡神社の鎮守の森がある山の先、田の中に小山があります。これは両岡様(もろおかさま)古墳です。貫山系からの丘陵地の先端に築かれています。右が前方部で、左が後円部です。左端の後円部の北西側の1/3が削られています。推定も含めて、全長27m、前方部幅14m、後円部径18mです。両岡様古墳には前方後円墳の向こう側、東側に後円部とくびれ部に接して円墳も築かれています。径が10m程の小円墳です。前方後円墳は6世紀後半の築造と思われます。
両岡様古墳の先は、川沿いの道と橋を渡る道との交差点になっています。そこを右折して山手の方に進みます。分かれ道がありますので、右に行きますが、後程左にも行きます。右の山手への道を行きます。車一台が通れる道で、途中に荘八幡神社の案内があります。この道は山手側から荘八幡神社に行く道です。その案内の手前に左に入れる道があり、鳥居が立っています。そこを入って行きますと、左手が開け、右手に鳥居があり、奥に松尾神社の社殿があります。鳥居の横には景行天皇に由来する井戸跡があり、神社の古い歴史を物語っています。  
   
松尾神社の前の西側には、低い丘陵地が左右に伸びています。そこは貫城跡です。南北に長い半島状の舌状台地に貫城はありました。南北朝時代、西征府将軍懐良(かねよし、かねなが)親王が九州に下向した際に従った馬ヶ岳城主(京都郡みやこ町)新田義基(新田義貞の一族)が応安年間(北朝年号1368〜75)に築き、養子の貫宗景(ぬきむねかげ)に守らせたと伝えられています。
丘陵地の手前、左右に伸びる道があります。左側に丘陵地に向かう道があります。直接そこには行けません。分れ道まで戻り、反対側の道を進むとそこに到ります。
その道は、右側に小川が流れる車一台が通れる道です。右手の一段高い所に松尾神社の鳥居が見えます。そこから左折して丘陵地に向かいます。上って行くと、右手に畑が広がり、左手に牛舎があります。その付近に駐車して、歩いて直進し、山道を進みますと、右手に切通しがあります。そこを入って行くと畑の中に一段高い所があります。ここは貫城の本丸跡で、その中に30m程の方形で、高さ3m程の台になっています。後に天守台に発展したと推定される物見櫓台跡と思われます。台上は畑になっています。地形的に二の丸や三の丸跡が階段状に丘陵地に残されているといわれていますが、現在は畑地になり、城跡の面影はありません。
丘陵地に入って来た道を戻り、左折して小川沿いの道を先に進みます。大きな道路に出ます。市道の貫弥生が丘1号線です。左手はまだ完成していません。将来は国道10号線に連絡します。右折して進みますと、左右は一段高い団地になっています。ニュータウンの貫弥生が丘です。最初の交差点を左折します。その先を右折しますと、右手に貫中央公園があります。公園の奥の丘陵地に御座古墳(おんざこふん)はあります。公園左手の奥に進むと、フェンスがあり、人は入れるようになっています。その先は草地になっていて右手は丘陵地が半円状に取り囲んでいます。左手は崖で、貫川が流れる貫を一望できます。御座古墳は、1985(昭和60)年弥生が丘団地の宅地造成に伴う調査で発見されました。1つの前方後円墳と3つの円墳からなります。
左端のフェンスの間から草地に入ってきました。丘陵地の向こう側が公園のグランドになっています。丘陵地が左に高くなって続きます。まず円墳があります。
丘陵地の続きです。円墳が3つあります。左側の丘陵地の頂上部に前方後円墳があります。左側が前方部で右側が後円部になります。全長は22m、前方部幅9m、後円部径14mです。後円部に粘土槨(ねんどかく、木棺を粘土で覆う形態)と木棺直葬の2基あるようで、木棺直葬の覆土上面から三角縁神獣鏡の破片が発見されています。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から賜った鏡といわれていて、北九州市では初めての発見です。築造時期は4世紀後半から5世紀初頭といわれています。円墳は径が約15m程で、前方後円墳より後の時期のものと思われます。
草地から丘陵地に昇る階段があります。前方後円墳はその右手にあります。その左手にも丘陵地は続きますが、古墳等はありません。
草地から北側の眺めです。道路があり、白いガードレールがあります。その向こう側を貫川が流れています。その向こうは県道256号新道寺・曽根線沿線の貫の市街地です。中央の低い丘陵地はゴルフ場の小倉カンツリー倶楽部です。先方の山は標高597.8mの足立山です。
貫中央公園の前の道を先に進みます。道が二つに分かれますので、右折して坂を下って行くと、貫川を渡り、県道256号新道寺・曽根線に出ます。そこを左折して西の山手へ進みます。東九州自動車道の高架道の手前に西専寺(さいせんじ)はあります。浄土宗西専寺の本尊は、鎌倉時代初期の一木造りの阿弥陀如来坐像です。北九州市指定の文化財です。
高架の東九州自動車道の先を進みますと、終点の上貫バス停になります。その先は上り坂の、車の離合が難しい幅の道になります。しばらく上ると、左手が梅園で、右手が石垣で、その下が広場になっていて、石垣の上に芝津神社があります。
芝津神社に梵鐘が残されています。鐘身66cm、龍頭高20cmの大きさです。この梵鐘は貫山権現に奉納されたものですが、戦国時代兵火で焼失し、この鐘だけ残されました。江戸時代に嶽音寺が建立されますが、明治時代になると神仏分離で芝津神社になりました。
この梵鐘の銘文は、荘八幡神社にあった梵鐘と同じ内容です。日付は1年早い正平20(南朝年号1365)年4月22日で、施主沙弥願阿(しゃみがんあ)、荘八幡神社のものは大願主伊勢守沙弥是心(しゃみぜしん)と別人ですが、貫氏の一員と思われます。こちらは貫山の北側ですが、貫山の西側山麓、井手浦の西光寺に梵鐘があり、大願主祖西は願阿の孫であることが記されています。鋳造年は20年後の至徳2(1385)年8月で、北朝年号になっています。北九州は南朝の勢力下にあったものが、北朝側に追い出される状況になっていました。鋳工は龍頭の技法から、港湾都市小倉津の、いわゆる小倉鋳物師と推定されます。
井手浦の西光寺の梵鐘については、「北九州点描」の「井手浦」をご覧ください。
   
貫山中腹にある芝津神社から上って来た北東方向を見ています。中央の小山は荘八幡神社がある山で、その右手前の小山は御座古墳がある小山です。その左横や先は貫で、その先は曽根で、右側水田が広がる所が曽根新田です。水面の左側は竹馬川の河口部で、右側は周防灘の曽根干潟です。


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