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蒲生  小倉南区  [2014/01/18]
 

蒲生は紫川の中流域の左岸で、川沿いに連なる丘陵地に挟まれた地域です。東側に連なる丘陵地には、北側に136mの鷲峰山、南側に121mの虹山があります。平安時代承平年間(931-38)に編撰された漢和辞典「和名類聚抄」(和名抄と略称される)によりますと、企救郡(現在の北九州市の東半分、規矩郡とも表される)に長野郷と蒲生郷の二郷があると記されています。実はもっと多くの郷があって遺漏があると思われますが、この記載が蒲生の地名の初見です。平安時代末期、蒲生では、宇佐神宮の荘園のひとつ蒲生安則(がもうやすのり)が成立しています。現在よりずっと広い地域が蒲生郷でした。

古代、万葉集に「企救の池」と歌われていますが、それ以前に、この辺りに大きな湖があり、その名残の池があったといわれています。蒲生の大興善寺の前に紫という池がありました。その池は「企救の池」を指すのではないかといわれています。その紫池は、種々ある紫川の名前の起源の一つにあげられています。紫川についてもう一つ紹介します。山の娘が漁師の若者に想いを込めてアイソメの木の実を川に流します。若者が海で死んだことも知らずに流し続け、このことを知った川沿い人々は、川を紫川と呼ぶようになりました。

鎌倉時代の1245(寛元3)年、時の支配者得宗(とくそう、北条氏嫡流の惣領家)北条時頼が家臣佐野源左衛門常世に命じて鷲峰山の麓に大興善寺を創建し、時頼から崇敬されていた叡尊によって律宗の寺として開山されたと伝えられています。翌年の寛元4年に、時頼は執権に就いています。得宗は全国の交通・流通の要衝に、律宗の寺院を建て、地方支配の拠点としていました。奈良西大寺の末寺になった大興善寺は、講堂・本堂・三重塔・経蔵・山門が次々に造営されました。

1333(元弘3)年、鎌倉の北条氏は攻められ、一族が戦死し、鎌倉幕府は滅亡します。翌1334(建武元)年、帆柱山で鎮西探題北条英時の養子の規矩高政を中心に北九州周辺の諸氏が、高政の弟の糸田貞義が筑後で北条氏再興の兵を挙げます。しかし、後醍醐天皇に味方する軍に攻められ、帆柱山城は落城します。規矩高政は虹山山上にあった居城の虹山城に逃げますが、攻められて討死しました。その後も、虹山城は規矩氏の居城ととして続きますが、天文年間(1532-55)長野氏の属城となり、1556(弘治2)年大友氏に攻められ落城しました。

大興善寺の本尊は如意輪観音坐像です。この胎内墨書銘から、1340(暦応3)年に厚東武村・武直父子が造らせたことが分かっています。南北朝時代、父が長門国守護であった厚東(ことう)武村は隣国の豊前国企救郡を与えられていました。厚東氏は物部氏を祖とすると伝えられ、長門国厚狭(あさ)郡東部出身の豪族でした。1338(暦応元)年には、大興善寺は厚東氏の庇護を受け、繁栄していきます。武村は父の跡を継いで、長門国守護となり、その子武直・孫義武も長門国守護となりました。義武の時代、周防の大内弘世と争い、長門守護職を奪われます。大内氏は防長二国の守護となり、その後、厚東氏は滅亡します。

大興善寺は大内義弘や室町時代の将軍足利義教から寺田の寄進を受けています。安土・桃山時代の天正年間(1573〜92)、大友軍の兵火によって大興善寺の伽藍は焼失しました。その後、曹洞宗の寺院として、徐々に復興が図られていました。江戸時代の1671(寛文11)年、小倉藩主小笠原忠真の夫人永貞院によって再建されました。しかし、1866(慶応2)年の長州藩との間の兵火により、被害を受けました。

虹山の南に蒲生八幡神社はありますが、古くは虹山に鎮座し、規矩氏の守護神でした。天正年間(1573-92)の初め大友氏の兵火により社殿が全焼しました。その後、社殿は企救郡高浜浦に遷し、建立されました。現在の井筒屋付近といわれています。企救八幡宮、高浜八幡宮と呼ばれ、小倉城下周辺の氏神となりました。1602(慶長7)年細川忠興は小倉城を築城し、城下町を整備するために八幡宮を再び蒲生に遷し、蒲生八幡宮になりました。

江戸時代には、蒲生に藩用の人馬継立の半宿が置かれました。江戸時代から1889(明治22)年まで蒲生村でした。明治22年蒲生・今・小熊野・篠崎村が合併して西紫村になりました。1908(明治41)年蒲生と今は企救村に分割合併されました。1917(大正6)年企救村は企救町となり、1937(昭和12)年小倉市に編入されました。
紫川沿いに南北に通る県道63号長行・田町線、小倉南区から戸畑区に東西に通る県道51号曽根・鞘ヶ谷線が蒲生で交差します。両県道は現在拡幅整備されています。蒲生交差点の西の曽根・鞘ヶ谷線から分岐して長行・田町線の南側に接続する新しい道路が開通しています。その道路から鷲峰山の麓に位置する大興善寺を眺めています。
大興善寺の山門は、江戸時代1671(寛文11)年に建築されましたが、1719(享保4)年に大修理されました。現在、享保の姿に復元されています。北九州市指定の文化財です。
   
山門には仁王像、すなわち、金剛力士像が安置されています。南北朝初期(14世紀中頃)の作品です。向かって右が、阿形(あぎょう)です。  
   
向かって左は、吽形(うんぎょう)です。桧の寄木造りの金剛力士像で、福岡県指定文化財です。
   
本堂の横に、この舎利殿(しゃりでん)があります。本尊の如意輪観音坐像の胎内に納められていた仏舎利を祀る建物です。建立は1690(元禄3)年と考えられています。
本尊の如意輪観音坐像は1340(暦応3)年作で、福岡県指定文化財です。他に福岡県指定文化財として南北朝初期(14世紀中頃)作の木造釈迦如来立像が伝えられています。
山門や舎利殿は、平成12〜14年度に保存修理が行われました。
 
   
大興善寺の前の道は、新しい道路より一段高い位置にあり、鷲峰山への入口になります。山手から新しい道を見ています。左端の木がある所が大興善寺です。
大興善寺の前から向こうにかけての新しい道路の位置に、紫という池がありました。その池は「企救の池」の名残の池ではなかったかといわれています。
   
鷲峰山山頂の東から南の麓は鷲峰公園という森林公園になっています。その公園内を通ってアスファルト舗装の登山道が山頂まで通じています。途中で、南東方向の小倉競馬場を見ることができます。手前が蒲生で、紫川の向こうに小倉競馬場があります。右端の山は標高711.6mの貫山です。
小倉競馬場は中央競馬会(JRA)の競馬場で、2・3月と7〜9月開催されます。この地に競馬場が建設されたのは1931(昭和6)年でした。
林の中を進むと、それほど時間はかからずに、鷲峰山山頂広場にたどり着きます。山頂広場の一隅に、小倉市街地を望むように、1966(昭和41)年平和観音が建てられました。  
   
鷲峰山山頂から東方向の小倉南区の眺めです。左端は標高597.8mの足立山で、右側に高架道路の都市高速が向こうに伸びています。その先に見える小山が苅田町の松山で、その左に曽根干潟のある海が見えます。そこに小さな無人島間島がかすかに見えます。その沖合に北九州空港はあります。
新しい道路を南に行くと県道63号長行・田町線と合流します。この付近から先の県道は現在も拡幅工事中です。次の蒲生4丁目交差点を左折します。紫川に青嵐橋が架かっています。橋の両側は紫川河畔公園になっています。川のこちらは蒲生です。橋からこちら側です。遊具のある公園があり、その向こうは北九州市立大学のグランドです。
   
川の向こうは徳力新町で、向こうに公園の駐車場はあります。橋を渡った先に、プール、テニスコート、グランドがあります。  
   
紫川の青嵐橋を渡り、川沿いに下流に進むと志井川が紫川に合流する地点に出ます。そこから紫川と蒲生の眺めです。左の鷲峰山山頂に平和観音がかすかに見えます。
紫川の山の娘と漁師の若者ついて、もう少し詳しく紹介します。
紫川が企救川と呼ばれていた時代、河口の漁師の村が海賊に襲われました。荒らされた村を再生させるため、上流の山里に棲む者に、山里で採れた食べ物をいかだで流してくれるように頼もうと、漁村の若者が思い立ちました。他の村の者が彼が住む山に入ると殺されると、若者の父は若者が山に行くことを止めました。若者の気持ちは変りませんでした。途中で、山里に棲む者の妹に出会いました。妹は兄に会っても殺されるので、自分に任せるように言いました。相手にしなかった兄も、妹の熱意に打たれ、1ヶ月以内に鯛100匹を持ってくるように条件を出しました。この話を聞いて頭を抱え込む若者に対し、娘は、紫色のアイゾメの木の実を流しますので、川が紫色に染まっている間、私が成功するように祈っています、と言いました。紫色の川の流れを眺めながら、若者は漁に励みました。約束の日が近く、今日こそ100匹と荒れた海に若者は出掛けました。しかし、若者は荒海の飲み込まれてしまいました。若者の死を知らない娘は、アイゾメの木の実を流し続けました。このことを知った川沿い人々は、企救川を紫川と呼ぶようになりました。
青嵐橋から西側に虹山が見えます。山上にあった虹山城は、元弘年間(1331-34)規矩高政によって築かれたといわれています。規矩氏の居城になりました。
   
県道63号長行・田町線に戻り、南に進みます。蒲生八幡宮前交差点の横に赤い鳥居が見えます。鳥居を入って行くと、この門があります。車は右側から入って行きます。  
   
右手に石段があります。江戸時代、小笠原氏が小倉藩主になると、その崇敬を受けます。蒲生が現在よりも広い地域であったことや一時小倉城下に遷され、再度蒲生に遷されたことなどから広い地域に蒲生八幡神社の氏子がいて、その崇敬を受けています。
   
蒲生八幡神社の拝殿で、1907(明治40)年頃建てられました。この奥に幣殿、本殿と独立した建物が続いています。幣殿は1831(天保2)年、本殿は1768(明和5)年に建てられました。  


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