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曽根干潟
   小倉南区  [2013/06/22]
 

曽根干潟は、小倉南区の北・西・南を陸地に囲まれた、曽根新田海岸の沖合概ね1.7kmの間島(まじま)を含む約517haの海面域で、満干差3mを超える干潮時に現れる干潟です。曽根干潟には西から竹馬川、大野川、貫川、朽網川が流れ込み、水と土砂を干潟に運んで来ます。バクテリアによって有機物を分解し、プランクトン・ゴカイや二枚貝などの底生動物・魚介類・鳥類の食物連鎖によって干潟の生態は守られています。

曽根干潟にはゴカイや二枚貝などの底生動物、シオマネキ、アオギスやトビハゼの魚類が生息しています。夏の大潮の時、沖合からカブトガニがやって来て砂地に産卵します。幼い時期、カブトガニは干潟で過ごします。タカの一種のミサゴは海岸に生息し、曽根干潟で魚を捕ります。曽根干潟周辺に生息するサギもいれば、夏鳥として飛来するサギもいます。カモやシギが越冬するために飛来します。絶滅危惧種のズグロカモメの越冬地として曽根干潟は有名です。中継地として飛来するシギやコアジサシもいます。

周防灘のうち、福岡県の東部から大分県の北部沿岸海域を、旧国名に因んで豊前海と呼びます。豊前海は遠浅の海岸でしたので、古くから沿岸各地で干拓が行われてきました。その中でも曽根海岸は周防灘が深く入り込んでいましたので、古くから大規模に干拓が行われてきました。その総面積は、現在の干潟面積を超える規模になっています。江戸時代の元和元年(げんながんねん、1615)細川忠興は曽根海岸で新地を開発しました。曽根から朽網の海岸に築かれた土手は、千間土手と呼ばれて、中津街道として利用されました。

曽根を通る現在の主要な道路を見てみます。国道10号線は、曽根バイパスが開通して安部山入口交差点を右折し、横代交差点を左折し、バイパス朽網交差点で右折して従来からの国道10号線を南下します。バイパス開通以前の国道10号線は、安部山入口交差点を直進して葛原を通り、寺迫口交差点を直進し、下曽根駅北口前を通ってバイパス朽網交差点に到ります。寺迫口交差点からバイパス朽網交差点間は県道25号門司・行橋線の一部になっています。バイパス朽網交差点から先は、県道25号門司・行橋線は左折して埋立地を通り、国道10号線の東側を南下します。葛原から、門司方面から寺迫口北交差点を通り、下曽根駅北口前を通らず、その東側を通る道路が整備されています。この道路は、中曽根新町交差点の1つ南側の交差点で、県道25号門司・行橋線と合流します。

現在の道路と旧中津街道筋を見てみます。葛原を東に通って来た旧国道10号線は、竹馬川の栄橋を渡って曽根を南に向かいます。旧中津街道はその北を通って唐戸橋を渡り、その東を南下します。唐戸大橋を渡る新しい道路のすぐ西側を通る道です。旧中津街道は中曽根新町交差点から反対に旧国道、県道25号門司・行橋線の西を通り、神田橋付近で旧中津街道は県道と重なります。それも少しの間で、その後朽網まで県道、バイパス朽網交差点からは国道の西を通っていました。

実は細川忠興によって築かれた土手はもう少し海側で、小笠原氏が藩主になってから土手は陸地側に改築され、その後になって千間土手と通称されたと思われます。土手の西側の新地は、元禄期(1688-1704)には田地になり、塩浜としても利用されました。中曽根新町交差点の北側で、東側の海岸に近い新町名で中曽根東と呼ばれる地域は、大浜と呼ばれていました。藩主の命を受けて、ここで大野正矩が大野新地を開発しました。詳細な記録がなく、その時期は天明期(1781-89)でなかったかといわれています。

小倉藩家老に就任した犬甘兵庫知寛(いぬかいひょうごともひろ)は、藩政改革のため新田開発を行いました。その中の最大のものが、曽根新田の開発でした。大里村や猿喰(さるはみ)村で干拓による新田開発を行っていた元大里村庄屋石原宗祐(いしはらそうゆう)に、犬甘は曽根浜の干拓を命じました。1794(寛政6)年に始められた干拓は1803(享和3)年完成し、約85町歩(町歩はhaとほぼ同等)の新田が開発されました。溝・水井樋・川を設け、入植が行われました。しかし、1817(文化14)年、大風雨による高潮で堤防が決壊し、人命が失われる大被害がありました。

竹馬川を挟んで1838(天保9)年から下曽根側で、翌年からは対岸の沼側で堤が築かれ新田が開発されました。竹馬川の下流側、沼の東側の吉田で、1869(明治2年)小倉の酒造業の岡野権三郎が堤を完成させましたが、度々高潮で堤が崩れました。全私財を岡野は投入しましたが足りず、小倉の広島屋の援助で、1877(明治10)年新田は開作されました。広島屋は守永家の屋号で、藩政時代、酒造、質屋、製塩を営んでいました。明治になると、神田屋の神崎家と共に幾多の企業の創立に参加し、明治期の北九州の地場資本として活躍しました。

昭和に入ると、沼の新開やその東の吉田の新開の南側で竹馬川の対岸、曽根側の大浜の北側が干拓されました。戦況が厳しくなると、1944(昭和19)年、干拓された新地に陸軍曽根飛行場が建設されました。戦後は民間空港として利用されますが、一方は海で、三方が山に囲まれた地形で1600mと滑走路が短く、間近に山が迫り、霧が発生しやすい地形のため、離着陸の難しい欠航もある空港でした。1994(平成6)年、曽根の海岸からは6km以上離れた周防灘沖の人工島に、海上空港の北九州空港が開港しました。

昭和30年代に入ると、曽根新田の南側、朽網から苅田町(かんだまち)松山の北側の西にかけての南側が埋立てられました。埋立地は小倉南区朽網と一部苅田町になりました。昭和50年代になると、その続きで松山の北側の東にかけての南側が苅田町として埋立てられました。これらの埋立地は工業用地に供されました。1994(平成6)年の海上空港、北九州空港の開港を控えて接続する県道、東九州自動車道が整備されました。
国土地理院発行の5万分の1の地形図(小倉と行橋)の一部で、明治33年(1900)側図を使用しました。鉄道は1895(明治28)年4月九州鉄道が小倉から分岐させ、小倉・行事(現在行橋市)間を開業しました。現在の日豊本線です。その東を通っている道路は、当時まだ旧中津街道筋でなかったかと思われます。その西側の鉄道が通っている付近は、江戸時代元和期に細川忠興によっ干拓された部分です。曽根村と書かれた上の大浜は、天明期の大野正矩による大野新地です。曽根新田は、寛政・享和期家老犬甘兵庫知寛が命じ、石原宗祐が干拓しました。北の竹馬川の新開と対岸の曽根側は、天保期に干拓されました。新開の東側は、明治初期岡野権三郎が広島屋の援助を受けて干拓しました。

その後の干拓は、上の地図をご覧ください。昭和に入ると、大浜の北側で竹馬川河口の南側が干拓され、戦時中に飛行場が建設されました。曽根新田の南側、左の地図には黒崎の地名がありますが、その付近から松山の北側の西にかけての南側が、昭和30年代に埋立てられました。その部分は上の地図で黒崎海岸になっています。昭和50年代になると、その続きで松山の北側の東にかけての南側が埋立てられました。平成に入ると海上空港の北九州空港の開港を控えて、接続する県道、東九州自動車道が整備されました。
曽根については、「北九州点描」の「曽根」をご覧ください。
 
県道25号門司・行橋線の貫川に架かる神田橋の左岸の上曽根交差点を東に入ります。貫川沿いに下流に進みます。県道の東、貫川の南北に曽根新田が広がり、その北は大野川が、南は朽網川が流れています。
貫川に堰があります。神田橋のすぐ下流に田中新橋が架かり、その下流にこの堰があります。堰のすぐ下流に上の橋が架かり、下流に中の橋、下の橋が架かっています。
 
   
川の左側を行くと貫川河口で、曽根干潟になります。満潮でしたが、干潮になると、川底が見えて干上がります。右の建物は、曽根漁協の魚市場です。右端に貫川最下流の下の橋が見えます。
   
県道から入って来た貫川左岸の道を東に進みます。堤防の先は曽根干潟で、大潮の満潮でした。島は間島(まじま)です。その形からクジラ島とも呼ばれます。  
   
上と同じ場所からです。満潮から5.5時間経ちました。干潮まで後1時間です。車が1台通る程度の幅員のコンクリートの道が、干潟の先まで伸びています。満潮から干潮の中間時間になると通行可能になります。
   
川沿いの道を中の橋まで戻り、橋を渡り集落の中を通り、突き当りを左折すると龍神を祭った綿都美(わたつみ)神社があります。1819(文政2)年小倉藩は曽根新田の鎮護のために、吉田の綿都美神社を勧請し、この地に創建しました。毎年5月3日に曽根の神事が行われます。1841(天保12)年綿都美神社の龍神祭に「挑燈山(ちょうちんやま)」(提灯山笠)5台を出して盛大に祭りを行ったことに由来します。6地区の飾り山笠が神社に上り、神事の後下って行く神幸行事で、北九州市の無形民俗文化財に指定されています。かってはすべての地区の山笠が提灯山笠、幟山笠、飾り山笠と衣替えしていたといわれています。  
   
社殿の横に、犬甘兵庫知寛(いぬかいひょうごともひろ)と石原宗祐(いしはらそうゆう)の曽根新田開発の偉業を伝える石碑があります。
小倉藩家老の犬甘兵庫は、1794(寛政6)年、曽根浜の干拓を元大里村庄屋石原宗祐に命じました。石原は85歳でした。それまで石原は、大里村や猿喰(さるはみ)村で干拓による新田開発を行っていました。8年の歳月を要して曽根新田は開発されました。石原宗祐は94歳になっていました。この費用の半分を石原は負担しました。小倉藩は石原宗祐に水田50余町歩を下賜しましたが、高齢を理由に石原はこれを断り、企救郡に下賜されました。石原宗祐は1806(文化3)年97歳で死去しました。
犬甘兵庫は厳しい藩政改革を断行しました。1803(享和3)年、小倉城下に2千人の農民が集まり、騒擾寸前でした。藩の守旧派は犬甘を糾弾しました。このため、犬甘は頂吉(かぐめよし)の石牢に幽閉され、ここで死去しました。
猿喰新田については、「北九州点描」の「猿喰」をご覧ください。
犬甘兵庫知寛の最期については、「北九州点描」の「ます渕ダム」をご覧ください。
   
綿都美神社の横を東に行きますと、突き当たりますので、そこを右折して南に行きます。曽根新田の中を南下するこの道は、貫川の下の橋を渡って南に行く道です。曽根新田の南端で振り返っています。一番高い山は北西にある足立山です。
この先で朽網川を渡り、バイパス朽網交差点の東にある、県道25号門司・行橋線の朽網大橋交差点に出ます。
県道25号門司・行橋線の朽網大橋交差点を左折して、次の交差点空港・IC入口交差点を左折して県道245号新北九州空港線を東に向かいます。この交差点付近から京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)です。右手に松山が見えます。松山は山の名前と共に、この一帯の地名にもなっています。標高127.9mの松山城跡の山頂まで登ります。駐車場のある登山口は南側の住宅地のはずれにあります。登り25分、下り15分程度です。
手前が苅田町側の海岸で、左に曽根の海岸、右が間島です。満潮から2時間余経過していますが、曽根の海岸から伸びたコンクリートの道は見えませんが、間島の南の曽根漁港とそこと道を連絡する橋梁が見えます。
貫川の河口の左岸から東にコンクリートの道が伸びています。これは曽根漁港の施設です。その先は橋が架かり、間島の南にある曽根漁港と連絡しています。満潮から5.5時間、干潮まで1時間の様子です。右手の先方に北九州空港連絡橋が見えます。県道245号新北九州空港線の先になります。曽根漁港の橋の所まで約1km、曽根漁港の先端まで約1.5kmです。コンクリートの道を歩いて行きます。
沖合600mの所から曽根干潟の北西方向の様子です。一番高い山は標高597.8mの足立山です。
同じ所から曽根干潟の南西方向の様子です。一番高い山は標高711.6mの貫山です。右の道が貫川の河口から伸びているコンクリートの道です。
同じ所から曽根干潟の南々東方向の様子です。左の山が山頂まで登った松山です。
サギが餌を捕っています。広い干潟ですので、目で捉えることは難しですが、じっと目を凝らすとあちこちに餌を捕りに来ています。  
   
防波堤に囲まれた曽根漁港です。干満の差が激しい曽根干潟の中にあります。潮位によって上下する浮桟橋が設置されています。後方に松山が見えます。
曽根漁港の北側に間島が見えます。後方は門司区恒見の山です。
曽根漁港の先端から北九州空港連絡橋が見えます。右側の一番近い所で、約2.5km先方です。左に渡ると海上空港の北九州空港です。北九州空港は苅田町の陸地から約3km沖合にあります。
北九州空港については、「北九州点描」の「北九州空港」をご覧ください。


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