北九州点描

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紫川上流
  小倉南区  [2014/07/19]
 

 
紫川の上流は中谷と呼ばれる地域です。紫川は鱒淵貯水池の上流から北流し、関門海峡に流れ込みます。その流域には弥生時代の遺跡が分布しますが、中流域に多数見受けられます。上流域には高津尾遺跡があります。九州自動車道小倉南IC建設を前に、1984(昭和59)年より調査が行われました。高津尾遺跡は弥生時代の大集落跡で、南から張り出した丘陵地の北側斜面にあります。遺跡の西側を南西から北東に紫川が流れ、東側を南から北に東谷川が流れ、高津尾の北東で東谷川が紫川に合流します。丘陵地斜面の集落跡の下部には湿潤な土地が広がっていました。調査の結果、貯蔵穴と墳墓群、水田関連遺跡が発見されています。

宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺ですが、弥勒寺は各地に荘園を所領していました。中谷と東隣の東谷にかけて大野荘があり、西隣の西谷には得光名があったといわれています。大野荘の成立は平安時代後期といわれています。1157(保元2)年平時盛の子、康盛が豊前の国司として下り、長野に築城し、長野氏を名乗り、その子長盛は、平氏滅亡後、赦免を得て規矩(企救)郡地頭職を安堵されるとの長野氏の祖を平氏とする伝承が残されています。南北朝時代には、中原姓長野氏と平姓長野氏が現れますが、その関連ははっきりしません。

室町時代、長野氏は長野から東谷・中谷・西谷、さらに蒲生、徳力まで勢力を伸ばし、長野城を本城に、大三岳(おおみつがたけ)城(小倉南区辻三)、小三岳(こみつがたけ)城(辻三)、稗畑山(ひえはたやま)城(山本)等に長野氏一族は割拠しました。戦国時代、北部九州は中国地方の大内氏、その後の毛利氏と豊後の大友氏との勢力拡大の舞台となりました。麻生・門司・長野氏等の北九州の国人達はその狭間で翻弄されました。1587(天正15)年、豊臣秀吉は大軍を率いて出陣し、九州を平定しました。長野氏を含めた筑前・豊前の諸氏が豊臣軍に参陣し、秀吉に謁見しました。この後、長野氏は筑後に国替えになり、長野城は廃城になりました。

江戸時代、小倉藩では行政区域として郡があり、その下に大庄屋が10〜20数か村を管轄する手永(てなが)がありました。幕末の小倉藩の企救郡には6手永があり、23村の小森手永はその一つでした。合馬川が紫川に合流し、その下流で東谷川が紫川に合流します。小森手永の村々は、合流点上流の3川の支流を含めた流域にありました。1889(明治22)年、江戸期の小森手永の村々は、東谷村、中谷村、西谷村の3村に統合合併されました。東が東谷川、中が紫川、西が合馬川流域になり、これらを合わせて三谷と呼びました。中谷村は、高津尾・山本・春吉・道原(どうばる)・頂吉(かぐめよし)の5村が合併して発足しました。

中谷・西谷村は1941(昭和16)年に小倉市に編入され、東谷村は1948(昭和23)年に小倉市に編入されました。ここではかっての中谷村の頂吉を除いた高津尾・山本・春吉・道原を紹介します。この地域は紫川の水利を生かした農村地帯です。  
国道322号線の徳光交差点の南に、九州自動車道の小倉南ICの入口があり、その手前に西鉄バスの中谷営業所があります。徳光交差点の北東までが高津尾で、そこで東谷川が紫川に合流します。北から来て徳光交差点を右折すると、合馬方面に行く交差点がありますが、直進します。この道は県道258号呼野・道原・徳吉線です。右手に菅生(すがお)中学校があります。その先の県道に合馬川の御園橋が架かっています。その手前を左に入って川沿いに行くと、合馬川が紫川に合流する地点に出ます。右手から合馬川が流れてきます。中央に紫川の上流の堰が見えます。
左側の紫川の対岸、東側が高津尾です。合馬川の対岸、南側が山本です。
   
御園橋から南が山本になります。御園橋の少し先に細い道が交差しています。そこを左に入って行きます。紫川に八ヶ瀬橋が架かっています。そこから下流の眺めです。堰の先の左側から合馬川が流れ込みます。
八ヶ瀬橋の上流には九州自動車道の高架道が架かっています。九州自動車道は1971(昭和46)年の植木・熊本間の開通に始まり、1995(平成7)年福岡県北九州市・鹿児島県鹿児島市間の全線が開通しました。小倉南ICは、1988(昭和63)年小倉東・八幡間開通に伴い、供用が開始されています。  
   
八ヶ瀬橋を渡り、右折して行きます。すぐに、九州自動車道の小倉南インターへの誘導路のガードがありますので、そこをくぐると、道は左カーブします。そこからは高津尾です。その先に右折の道があります。右折して行くと、右手にこの意吉(こころよし)神社があります。その由緒の概略次の通りです。
高津尾は、西は紫川、東は東谷川に挟まれていましたが、水利の悪い高台でした。戦国時代の元亀年間(1570-73)、高津尾村郷原(ごうばる)の心吉は、紫川の上流の春吉に堰を築き、水路を山の側面に通して高台に水を引くことを計画し、実行しょうとしました。村内の者は勿論、水路が通る山本村の村長も反対でした。心吉は時の城主に懇願しました。通水に失敗したら心吉が、成功したら山本村村長が磔になるという条件で、懇願は認められました。村民も総出で協力し、約十年後、堰と水路が完成しました。通水しますが流水が少なく、失敗だとして心吉は磔に架けられました。心吉の死後大雨が降り、郷原の開田に水が注ぎ込みました。村民は心吉に感謝し、祠を建てました。
   
県道258号呼野・道原・徳吉線に戻り、南下します。九州自動車道の高架道の下を通り、その先の左手、紫川に橋が架かっています。地蔵堂の前の、堂の前橋です。その橋から上流を見ています。右の県道沿いにすがお小学校があります。すがお小学校は、2008(平成20)年春、1874(明治7)年に創設された山本小学校と道原小学校が統合されて、山本小学校の場所に開校されました。
堂の前橋から左手の田圃の向うに西大野八幡神社の鳥居が見えます。神社はその向うの山の麓にあります。この山は標高240mの稗畑山で、大野山、宮山とも呼び、山頂は高津尾と山本の境界になっています。東谷・中谷に、平安時代から南北朝時代にかけて宇佐八幡宮の神宮寺、弥勒寺の荘園の大野荘がありました。666(天智天皇5)年、高津尾で大野八幡宮は創建されたと伝えられています。1055(天喜3)年には山本に遷されます。1536(天文5)大野山山上に鎮座し、この地大野郷の産土神(うぶすながみ)として大野八幡宮と称しました。稗畑山には長野氏の稗畑山(大野、宮山)城がありました。
1667(寛文7)年、大野八幡宮は分社され、母原に東大野八幡神社が建立されました。翌1668(寛文8)年、大野山山上から麓に遷され、西大野八幡神社が建立されました。
西大野八幡神社の拝殿に飛行機のプロペラが架けられています。
1903年12月17日ライト兄弟による人類初飛行に成功しました。それから22年後の1925(大正14)年、朝日新聞社により、初風(はつかぜ)号、東風(こちかぜ)号の2機の搭乗4人による訪欧大飛行が行われました。東京からピョンヤン、ハルピン経由、シベリアを横断してモスクワ、更にパリ、ロンドン、ローマと95日間、飛行実日数28日間の飛行でした。
東風号の操縦士、河内一彦は道原の出身で、東風号のプロペラを奉納しました。この2機は、朝日新聞がフランスから輸入したブレゲー19A2長距離連絡機です。
 
   
県道に戻り、すがお小学校の前を南に進みます。その先は春吉です。左の川の方に下りて行く道がありますので、県道から左に入って行きます。その先に洗出橋が架かっています。その橋から紫川の上流の眺めです。
   
洗出橋を渡り、川沿いの道を上流に進みます。先方に春吉の堰が見えきました。  
   
紫川を挟んで県道とは反対の道を上流に進みます。道が狭くなった先に橋が架かっていて、右に曲がって渡ると県道に出ます。橋の横から川に下りて行く階段であります。下りて行くと石橋の全体が見えます。北九州市指定史跡の春吉の眼鏡橋です。
橋がない頃は、簡単な板を渡しただけでした。1917(大正6)年、ここから子守の女の子が転落死しました。地元の人々の間に恒久的な橋の建設の気運が盛り上がってきました。1919(大正8)年、石橋の眼鏡橋は完成しました。春吉の人々の悲劇を繰り返さないとの願いが、多額の寄付金を集めました。石工は道原の人です。
県道258号呼野・道原・徳吉線を南に進みます。左側に県道28号直方・行橋線の広い道がつながっています。県道28号直方・行橋線の河原橋から上流を見ています。この付近は春吉と道原の境になります。
西の方向になります。一番高い山は北九州市と直方市の境にある、標高608mの尺岳です。道原はほとんどが山で、尺岳の東までの広い範囲になります。
   
更に県道258号呼野・道原・徳吉線を進みますと、左手に旧道原小学校が見えます。1874(明治7)年に創立された道原小学校は、2008(平成18)年3月31日閉校しました。山本小学校と道原小学校が統合されて、山本小学校の場所にすがお小学校が開校しました。
道原の菅生の滝には、雨乞い社の須川神社が祭られていますが、道原には雨乞い祈願の太鼓踊りの道原楽(どうばるがく)が伝わっています。田楽に風流や念仏踊りが加わった芸能といわれています。1787(天明7)年に始まったといわれ、1954(昭和29)年県指定の無形民俗文化財になっています。旧道原小学校の校庭が、昔から楽庭になっていました。旧道原小学校の体育館の外側、校庭に面した壁面に道原楽が描かれています。
 
   
この先、県道258号呼野・道原・徳吉線は左にカーブします。直進しますと、菅生の滝の方に行く県道28号直方・行橋線です。
直進し、道原浄水場の横の坂を上ると、分かれ道があります。そこに道標が立っています。右菅生の滝 頓野越、左赤松集落とあります。左に下りて行くと、道原貯水池の中を通る道になります。そこから南西方向に標高539mの赤松山が見えます。この山頂に赤松(赤松ヶ畑)城がありました。この城には次のような話が伝わっています。
戦国時代、豊後の大友氏が攻め込み、赤松城を囲みますが、守りが固く城を落とすことはできません。しかし、城内では兵糧が尽きてきて、死を覚悟するようになりました。城主赤松氏は、色とりどりののぼりを集めさせ、城に立てます。兵達は太鼓・鉦・笛を鳴らし、舞を舞いました。これを見た大友勢は、死を覚悟して見事に演じた舞楽に感じ入り、囲いを解き、引き揚げて行きました。この舞楽が道原に伝わり、道原楽の元になったといわれています。
道原浄水場・菅生の滝については、「北九州点描」の「菅生の滝」をご覧ください。
   
県道258号呼野・道原・徳吉線がカーブする角に戻り、右に曲がると楽庭橋が紫川に架かっています。橋の向うに道原サイクリングセンターとして使われていた建物があります。建物の裏側にある駐車場は使うことができます。右手のサイクリングロードの橋は紫川に架かっています。その前で、畑川が紫川に合流します。畑川の上流に道原貯水池があります。紫川の上流にます渕ダムがあります。
ます渕ダムは頂吉にあります。ます渕ダムや頂吉については、「北九州点描」の「ます渕ダム」をご覧ください。


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