北九州点描

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小嵐山
  小倉南区徳力・長行・徳吉  [2010/06/05]
 

1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの結果、豊前国企救・田川郡を領知していた毛利勝信・吉政父子は、西軍に属していたため改易されました。筑前国と筑後国二郡を領知していた小早川秀秋は東軍に寝返った功により、岡山に転封されました。豊前国の企救・田川以外を領知していた黒田長政には、筑前一国52万石が与えられました。毛利・黒田氏の後の豊前一国と豊後国国東・速見郡の39万石が細川忠興に与えられました。
1600(慶長5)年、丹波宮津12万石であった細川忠興は、黒田氏の居城であった中津城に入りました。
1602(慶長7)年、忠興は小倉城を築き、小倉に入りました。忠興は父細川幽斎(藤孝)とともに風雅を好む武将で、三斉と号する趣味人、茶人としても有名です。小倉北区徳力・長行・徳吉を流れる紫川とその沿岸の山の風景が京都の嵐山に似ているとして、細川氏はこの地が気に入って、京都の嵐山から桜を取り寄せて植えたと伝えられています。その後、その山は小嵐山(こあらしやま)と呼ばれるようになりました。
1632(寛永9)年、肥後の加藤忠広が改易されたあとに、忠興の跡を継いだ細川忠利は転封されました。細川氏のあとの豊前国の企救・田川・京都・仲津・築城の5郡と上毛郡の一部15万石に播磨明石10万石の小笠原忠真(ただざね)が入部しました。
小嵐山の川沿いに、江戸時代には秋月街道が通っていました。秋月街道は土地によって、小倉道、香春道、田川道、猪膝道、松崎道と呼ばれました。その始・終点に関しては諸説ありますが、小倉城下と久留米城下を結びました。
北九州から久留米に到る国道322号線の小倉南区徳力と長行との間に架かった桜橋から、紫川の上流を眺めています。左の手前の徳力山は、小嵐山と呼ばれるようになりました。
国道322号線を徳力方面に戻ります。高架のモノレールの徳力嵐山口駅の北側に神理教の鳥居が立ち、その奥に神理教本院の広大な敷地が広がっています。
神理教は、1894(明治27)年に佐野経彦によって、古代神道を復活した教派といわれています。1834(天保5)年生まれの経彦は、若くより歌を詠み、国学を学びました。その後神道を研究し、1876(明治9)年には教祖神になって人神一致の境地に到りました。一方では、国学・史学の研究に励み、多くの著書を残しています。また、郷土の産業開発にも尽力しました。
小倉城下から最初の秋月街道の宿場は徳力でした。当初は、最初の宿場は石原町でしたが、享保年間(1716-36)の大火で宿駅機能が焼失したため、1774(安永3)年本宿を徳力に移し、石原町は藩内の御用だけの半宿になりました。現在の徳力は、高度成長時代大規模な住宅団地が形成され、区画整理が行われ、国道が拡幅され、その上にはモノレールが通り、宿場跡の痕跡は残されていません。
神理教の境内に、道標が残されています。道標には、「従是北小倉道」「従是東中津道」「従是南田川道」と刻まれています。小倉道と田川道は秋月街道です。中津道は中津街道で、城下から曽根を通って中津に向かいましたので、この道標は、徳力の曽根への分かれ道脇に立てられたと思われます。
国道322号線を桜橋まで戻ります。桜橋の手前の国道の中央に、フェンスで囲まれた分水地があります。桜橋の上流の堰で取水され、ここまで導水されて、ここで分水されます。
桜橋を渡らず、小嵐山入口の案内がありますので、橋の手前から紫川沿いに入って行きます。こちらは紫川右岸(下流に対して右側の岸)です。
江戸時代の1728(享保13)年まで、現在より上流に桜橋の仮橋が架かっていました。そこを渡って左岸を街道は通っていましたが、洪水の度に仮橋が流されるため、右岸の小嵐山の岩を切り落として、新しい道をつくりました。
その道がこの道路です。この道の幅は、現在も車が1台通る程度です。5月の端午の節句を前に、地元の人達の力で、川面の上を鯉幟が泳いでいます。
桜橋を振り返っています。現在の桜橋は、交通量も多くなり、国道も拡幅されていますので、上下二つの橋が架けられています。
上流に亀年(きねん)橋が見えます。この周辺は現在は徳吉になっていますが、かっては古川といっていました。遠くの高い山は、標高901mの福智山です。山頂は北九州市小倉南区・直方市・福智町の境に位置します。
亀年橋の右岸側には、川沿いの道から上流からと下流から上って行く道があります。亀年橋への下流から上って行く道の手前から、反対の左に入って行く道があります。突き当たりに日蓮宗の妙真寺があります。本堂の右横に、毘沙門堂があります。
亀年橋から紫川の右岸を眺めています。標高221.8mの椎山(古川)山です。この山は椎山(古川山)城跡です。山の向こうは志井ですので椎山城で、こちらは古川なので古川山城と呼ばれました。右の奥が山頂で城の主郭部があり、尾根上に曲輪が続いていました。鎌倉時代に長野氏が築城し、長野氏一族の居城でした。室町時代の1399(応永6)年、大内盛見(おおうちもりみ)に攻められて降伏し、城は破却されました。
紫川の右岸に戻って、亀年橋を上流から眺めています。亀年橋は架け替えられて、2010(平成22)年3月に竣工しています。亀年橋を渡って直進すると、右手に古川公民館があります。古川の地名を残すものは、ほとんど無くなっています。
亀年橋の右岸側から上流に下りて来て、最初の反対の左への道に入って行きます。奥の右手の民家の敷地の奥に地蔵堂があり、その左隣に駒繋(こまつなぎ)碑があります。
椎山城は山城なので、姫達はこの石に馬を繋ぎ、縁台に乗り換えて城に上ったといわれています。
紫川の右岸に戻り、上流に向かいます。山が左から迫ってきます。先に進むと、住宅が建ち並ぶ所に出ます。そこで、紫川に東谷川が合流します。右が紫川で、左が東谷川です。ここから上流の紫川とその支流は、三谷を流れます。紫川は中谷を、そこに流れ込む合馬川は西谷を、東谷川は東谷を流れます。ここからは東谷川沿いに進みます。
紫川の上流は「北九州点描」の「紫川上流」をご覧ください。
紫川と東谷川の合流点から上って来ると、東谷川に加用(かよう)橋が架かっています。旧街道は加用で川を渡りました。街道筋の加用は、かっては三谷の中心として賑わっていました。
加用橋を渡り、川の向こう側を左折して、川沿いの人家と、向こうの丸山との間を進むます。
川沿いに加用公民館があります。その手前に山川式部切腹岩があります。
香春岳城主原田五郎義種の家臣の山川式部は、主君の代わりに丸山の東麓のこの岩の上で、壮絶な切腹をしたと伝えられています。
ここより南の田川郡香春町の香春岳一ノ岳にあった香春岳城は、1561(永禄4)年3万の大友義統(おおともよしむね、宗麟の子)に攻められました。守るは毛利方の城主原田五郎義種以下200余騎でした。落城の直前、城主は諸将の勧めで間道沿いに採銅所まで落ちのびましたが、遂に大友方に見つかり、自害しました。城では門を開いて討って出て、激戦の末全滅し、落城しました。
丸山の先を進むと、視界が開けます。手前の山の反対側が中谷です。向こうの山の手前側が西谷です。そのまま進むと、十字路に出ます。左に曲がると、東谷川に架かる高津尾橋です。右に曲がると国道322号線に出ます。真っ直ぐ進むと、高架の九州自動車道の下付近で国道に出ます。旧街道筋はここで国道と一緒になります。その先、国道322号線バイパスと旧道に分かれますが、国道322号線旧道が街道筋です。石原町を通り、次の宿場の呼野に到ります。
この先は「北九州点描」の「呼野」をご覧ください。


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