北九州点描

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呼野
  小倉南区  [2014/06/07]
 

   
小倉南区呼野(よぶの)は北九州市の南端で、その南は古来より交通の要衝の金辺(きべ)峠でした。かって呼野は企救郡の南端で、金辺峠を越えると田川郡の採銅所(さいどうしょ)でした。採銅所では奈良時代より銅が採掘されました。呼野も同じ頃から銅が採掘されました。それらの銅は東大寺の大仏鋳造にも使われました。江戸時代初め、小倉藩主の細川氏は、採銅所、呼野で金山経営を始めます。1622(元和2)年頃呼野金山の採掘は始まり、1627(寛永4)年頃には、5〜6,000人の採掘夫が働いて、呼野は金で賑わっていました。しかし、1632(寛永9)年、細川氏は熊本に転封されますが、その頃には金の生産は止まっていました。幕末に藩主の小笠原氏によって採掘されますが、その量は大したことはなく終わりました。

呼野は秋月街道の宿場跡です。秋月街道は小倉から秋月藩城下を経て久留米に到りますが、部分的には香春(かわら)街道・田川街道と呼ばれました。小倉を出て次が徳力で、その次が企救郡南端の呼野宿でした。呼野の次は金辺峠を越えた田川郡の採銅所、そして香春になりました。これらは本宿といい、自他藩に関わらず荷物の運送継ぎ立てを行いますが、自藩だけ行うのを半宿といいました。呼野の北にある石原町は、寛永年間(1624-44)に宿駅に定められますが、享保年間(1716-36)に大火にあい、宿駅の機能が停止になったため、徳力が宿駅に定められました。その後、石原町は半宿になりました。

江戸期から1889(明治22)年まで呼野は呼野村でした。江戸時代小倉藩では、行政区域として郡があり、その下に大庄屋が10〜20数か村を管轄する手永(てなが)がありました。幕末の小倉藩の企救郡には、6手永があり、呼野村は小森手永23村の一つでした。合馬川が紫川に合流し、その下流で東谷川が紫川に合流します。小森手永の村々は、合流点上流の3川の支流を含めた流域にありました。1889(明治22)年、江戸期の小森手永の村々は、東谷村、中谷村、西谷村の3村に統合合併されました。東が東谷川、中が紫川、西が合馬川流域になり、これらを合わせて三谷と呼びました。石原町、新道寺、母原、井手浦、木下、市丸、小森、呼野、矢山の9村が合併して東谷村になりました。1948(昭和23)年、東谷村は小倉市に編入されました。

小倉に筑豊からの石炭輸送の鉄道敷設のために、1897(明治30)年金辺トンネルの掘削に金辺鉄道が着工しました。金辺峠にトンネルを掘るのは難工事でした。金辺鉄道は資金が続かず解散しました。小倉鉄道が後を引き継ぎ工事を継続しました。1915(大正4)年小倉鉄道により、東小倉・上添田間が開通しました。東小倉駅は現在はなく、上添田は現在は添田駅になっています。小倉鉄道は、1943(昭和18)年国有化されました。線路は南に延長され、更に統合されて、現在は貨物列車の通らない、JR日田彦山線になっています。呼野駅はスイッチバック駅でした。ここから南の金辺トンネルに向かう線路が急勾配であったため一旦バックし、勢いをつけて上って行きました。しかし、蒸気機関車もなくなり、石炭輸送していた貨物列車もなくなって、1983(昭和58)年スイッチバックは廃止になっています。

1960年代世界的にエネルギー革命があります。我国では、1962(昭和37)年原油の輸入が自由化され、エネルギーの主役は石炭から石油に代わっていきました。筑豊の炭鉱の閉山も相次ぎ、石炭の貨車輸送も無くなっていきました。東谷地区の平尾台や金辺峠の南、田川郡香春町の香春岳は石灰岩の山です。1935(昭和10)年には香春町に浅野セメント(後日本セメント)が進出し、セメントを生産し、貨車で輸送しました。1986(昭和61)年鉄道輸送は廃止され、1998(平成10)年日本セメントは秩父小野田と合併して太平洋セメントになりますが、2004(平成16)年香春工場は閉鎖になりました。尚、石灰石の採掘は現在も行われています。

東谷地区にある平尾台は、小倉南区、行橋市、京都郡苅田町・みやこ町、田川郡香春町にまたがるカルスト高原です。地上の高原や地下の鍾乳洞に生息する動植物は貴重で、その景観は貴重な観光資源です。戦後の1952(昭和27)年セメント会社から石灰岩の試掘権が申請され、許可されました。小倉市は天然記念物に申請し、試掘権の取り消しを申請します。裁判になり、結果勝訴となりますが、天然記念物指定地以外に採掘が進み、1967(昭和42)年、合併後の北九州市により鉱区禁止地区指定が申請されました。1969(昭和44)年自然保護を優先に、鉱区禁止地区が指定されました。また、1972(昭和47)年には北九州国定公園にも指定されました。現在平尾台は、北東部の国定公園の保存ゾーンと南西部の石灰石を採掘する産業ゾーンとに分かれます。

かって合併して東谷村になった9ヶ村は、大字となりました。今回、そのうちの石原町・新道寺・木下・市丸・小森を経て、呼野を紹介します。
母原と井手浦は、「北九州点描」の「井手浦」をご覧ください。新道寺の一部は平尾台に飛び地があります。矢山の斜面地は平尾台、麓はみやこ町の勝山になります。平尾台については、「北九州のみどころ」「平尾台」をご覧ください。
金辺峠については、「北九州点描」の「金辺峠」をご覧ください。
金辺峠の南の香春町については、「北九州の近隣」の「香春町・赤村」をご覧ください。
かっての中谷村については、「北九州点描」の「紫川上流」「ます渕ダム」をご覧下さい。
かっての西谷村については、「北九州のみどころ」の「合馬の竹林・三岳梅林」、「北九州点描」の「長行」をご覧下さい。    
国道322号線を九州自動車道小倉南インターの先に南下しますと、旧322号線の右折の案内がありますので、右折します。以降、直進する国道322号線バイパスを新国道、右折した旧322号線を旧国道と表します。右折した所は、かって中谷村だった高津尾ですが、その先で石原町に入ります。
旧国道に入って1km程南に行くと、石原町公民館前の信号機があり、その先右手、大応寺門前の郵便ポストの横に、江戸時代末に建てられたと思われる里程標があります。南側に呼野まで1里2町、道路側に小倉まで2里25町、北側に大里まで3里25町の里程がしるされています。江戸時代の旧街道と旧国道は概ね重なっています。1里は36町で、約3.93kmです。1町は約109mです。
石原町も宿場でしたが、享保年間(1716-36)の大火で宿駅機能が焼失したため、1774(安永3)年本宿を徳力に移し、石原町は藩内の御用だけの半宿になりました。
   
大応寺の先、左に入って行く道があります。そこを左折します。すぐに東谷川に架かった橋に出ます。橋を渡って先に行くと、JR日田彦山線の石原町駅があります。1996(平成8)年に中止されるまで、石原町駅から三菱マテリアル東谷工場まで専用線が延びていました。1982(昭和57)年までの10年間、石原町駅の貨物発送量は九州全駅中第1位でした。  
   
石原町駅前を先に進み、突き当たりの左手に踏切があります。そこを左折して踏切を越えて行きますと、新国道の井手浦浄水場入口交差点に出ます。突き当りを右折しますと、突き当りで旧国道に出ます。旧国道の石原町局前交差点を左折したすぐの右手に無法松酒造があります。ここは新道寺で、新道寺は新旧国道の東西に広がった大字です。平尾台に飛び地があります。
無法松酒造は1877(明治10)年創業の造り酒屋です。清酒、焼酎、梅酒を造っています。会社名の無法松は、郷土の作家岩下俊作(1906−1980)の1938(昭和13)年の作品「富島松五郎伝」に由来します。「無法松の一生」として映画化されました。無法松酒造のサイトは次の通りです。
   http://muhomatsu.ntf.ne.jp/
   
旧国道を南下します。JR日田彦山線のガードの下を旧国道はくぐり抜けます。その付近が木下です。その先で田畑が広がり、旧国道は新国道と隣接します。次の、家並に入ってすぐの信号機から左折します。新国道の市丸東交差点に出ます。新国道を越えて直進します。新旧国道の東西に広がるこの辺りは市丸です。
突き当たりで右折すると、その向うに鳥居が見えます。大清水(おしょうず)神社です。古くからの社で、この社の市があったので、市丸の地名が付けられたといわれています。鳥居の先に石段があり、そこを昇ると社殿があります。
 
   
大清水神社社殿の左手では、石灰石が採掘され、山が切り取られています。住友大阪セメント小倉鉱山です。平尾台は石灰石を採掘するゾーンと国定公園のゾーンに分かれます。採掘されているのは、平尾台の南西側になります。
新国道の市丸東交差点に戻ります。そこを左折して、新国道を南下します。次の小森橋交差点を過ぎます。この辺りは小森です。次の小森東交差点を右折します。左手は三菱マテリアル東谷鉱山です。
新国道の小森東交差点を右折し、突き当りの旧国道小森西交差点を左折します。右側一段高い所がJR日田彦山線の呼野駅です。旧国道の先を右折して、駅前の広場に入ります。プラットホームから東側を見ています。呼野駅は現在は無人駅で、駅舎もありません。手前の敷石の所が昔の駅舎だった所と思われます。1915(大正4)年開業時に建てられた木造の駅舎は、1990年代に撤去されました。スイッチバック駅でしたが、1983(昭和58)年廃止になっています。
向かいの石灰石の採掘で削られた山は、三菱マテリアル東谷鉱山です。東谷鉱山は1956(昭和31)年から操業され、現在採掘された石灰岩は、ベルトコンベアーで平尾台を東側に越えた、苅田町のセメント工場に運ばれます。かって東谷工場でセメントが製造されていましたが、現在は中止されています。
南に行くと、左手に呼野公民館があります。その前に呼野の里程標が立っています。北側に大里まで4里27町、道路側に小倉まで3里24町、裏の公民館側に採銅所まで14町の里程がしるされています。元は次のお糸地蔵堂の前に立っていました。その時は、90度時計回りに回転した形で、道の反対側に立っていました。方向がおかしいのはそのためです。
   
公民館の先に右折の道があり、呼野駅の西にある採石場への道になっています。そこは横に広くなっています。ここは江戸時代の宿場の高札場でした。禁制や処罰の内容の高札が立てられました。その右隅にお糸地蔵堂があります。人柱になったお糸の霊を祀ったものです。お糸については後程紹介します。
更に南にに進むと、右手に円龍寺があります。お糸地蔵堂の所からこの付近までが呼野宿の中心だったようです。呼野金山に関連する屋敷、本陣であった御茶屋、そして宿屋があったようです。街道筋と円龍寺の間にはJR日田彦山線が通っています。  
   
円龍寺の隣に大山祇(おおやまつみ)神社の鳥居があります。この鳥居の先を昇ると日田彦山線の線路になりますので、安全のために旧国道を南に行って、右手の日田彦山線のガードをくぐって右折しますと、鳥居の先に出ます。
   
日田彦山線の西側、円龍寺の横を山手に上って行きますと、大山祇神社に到ります。大山祇神社は山の神で、呼野金山の守り神でした。江戸時代寛永期、細川忠利は呼野と採銅所で金の採掘を行いました。  
   
大山祇神社境内に福岡県指定天然記念物の大山祇神社の公孫樹(いちょう)がそびえ立っています。
   
ガードをくぐって旧国道に戻ります。南に行くとすぐに踏切があります。踏切を渡らずその横を進んで行きますと、真下に公園があります。その先に小川が流れています。川に架かっている道路は新国道です。その橋の下をくぐり抜けます。その先に堰堤があります。そこを昇りますと、手前にお糸の墓があり、稗の粉池(ひえのこいけ)が広がっています。呼野は灌漑用水の不足で困っていました。村人は稗の粉を食べて飢えを凌いでいました。そこで堤防を築いて川の水を堰き止めようとしましたが、堤防は度々決壊しました。お糸が人柱を申し出て犠牲になったため、1718(享保3)年堤防は完成しました。  
   
お糸の墓が立っている堰堤の先に稗の粉池が広がっています。稗の粉池はガシャモクの日本で唯一の自生地です。ガシャモクは淡水に生育する多年草です。一時はこの池での生育状況の悪化もありましたが、町内会、市丸小学校、町内の有志による保存活動が行われ、現在は保全されています。
旧国道に戻り、踏切を越えたすぐ右に大泉寺があります。大泉寺はお糸の菩提寺です。
当時お糸は14歳で、父を亡くして母娘の二人暮らしでした。お糸に土がかけられると母おたねは泣き崩れ、その死後はお堂にこもってお糸の冥福を祈ったといいます。呼野の里人はお糸地蔵尊として尊崇し、毎年8月24日地蔵堂から大泉寺に迎えられて、お糸祭りが盛大に行われるようになりました。


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