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金辺峠
  小倉南区呼野・田川郡香春町採銅所(かわらまちさいどうしょ)  [2015/03/28] 
 

 
金辺(きべ)峠は、小倉南区呼野と田川郡香春町採銅所を結ぶ標高217mの峠です。東側は標高680.6mの竜ヶ鼻がそびえ、平尾台に連なり、西は福智山地に連なります。金辺峠は、古代より豊前国企救郡と田川郡を結ぶ交通の要衝でした。峠を通る街道は、時代や目的地によって田河道・香春(街)道・小倉(街)道・秋月街道などと呼ばれました。金辺峠の交通路は、近代になるとトンネルが掘られ、峠を重層的に通っています。峠の一番上は、古代から続いた徒歩で越えた街道、一番下は明治期に掘削が始まり、大正期に貫通した鉄道トンネル、街道の下は大正期に開通した道路のトンネル、その下で、鉄道トンネルの上が国道322号線の上下2本のトンネルです。峠から数えて3番目の国道トンネルと4番目の鉄道トンネルが現役の交通路になります。

金辺峠は、歴史の舞台に登場します。以下それを見ていきます。740(天平12)年、政治の乱れを指摘し、玄昉と吉備真備を退けるように訴えて、大宰少弐の藤原広嗣は乱を起こします。広嗣軍は板櫃(いたびつ、小倉北区到津)鎮(ちん、兵営)を目指します。軍を3つに分け、そのうちの一軍が田河道を通り金辺峠を越えました。板櫃川で広嗣軍と官軍が対峙しました。左岸に広嗣軍1万余人が、右岸に官軍6,000余人が布陣します。官軍は投降を呼びかけます。すると、広嗣軍から離反者が続出し、遂には広嗣軍は敗退します。藤原広嗣は斬罪に処せられました。

島津の豊後侵攻に対し、大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願い出ました。秀吉は出陣に先立って、毛利・吉川・小早川に先遣を命じました。1586(天正14)年毛利軍によって香春岳城は落とされ、高橋元種は降伏します。秀吉は大軍を率いて、翌1587(天正15)年出陣しました。秋月種実は秋月古処山城に籠城しますが、豊臣軍の圧倒的兵力に恐れ、降伏します。秀吉の九州平定の一連の戦闘にも、この峠は使われました。

1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。企救郡と田川郡の郡境の金辺峠と企救郡と京都郡の郡境の狸山に小倉軍は布陣しました。金辺峠は島村志津摩(しづま)が、狸山は小宮民部が指揮しました。島村は金辺峠を拠点に、企救郡内からの農兵を集めて、反撃に出ることを決めました。領内を長州軍からの侵略から守るとの郷土防衛意識をもって志願した農兵が数多く集まり、狸山と連携して遊撃戦を行いました。しかしその後、小倉軍の戦力からして、限界になってきました。島村はともに戦ってきた企救郡の農兵達と決別し、島村率いる軍は金辺峠から退きました。翌1867(慶応3)年小倉藩と長州藩の間で、止戦協定が締結されました。

奈良時代、金辺峠の南の採銅所の銅が貨幣、和同開珎や東大寺の大仏、盧舎那仏の鋳造に使われたことは有名です。同じ頃金辺峠の北の呼野でも銅の採掘が行われました。江戸時代初め、小倉藩主の細川氏は、採銅所、呼野で金山経営を始めます。1622(元和2)年頃呼野金山の採掘は始まり、1627(寛永4)年頃には呼野は金で賑わいました。金辺峠のきべは古くは木辺と書かれたようですが、呼野の金山にちなんで、金辺と書かれるようになったといわれています。1909(明治42)年呼野の金辺峠近くに吉原鉱山が開鉱しました。

1949(昭和24)年創立された日本磁力選鉱は、磁力選鉱機器を使った製鋼鉱滓(スラグ)処理業者でした。1959(昭和34)年、吉原鉱山で採鉱事業を始めました。しかし、1969(昭和44)年頃にこの吉原鉱業所を閉山しました。銅や石灰の採鉱中止や粗鋼減産によるスラグの減量のため新規事業として不動産部門を設けました。後、分離独立して日選開発として事業展開を行いました。

1897(明治30)年、金辺峠で鉄道トンネルの掘削が始まります。金辺トンネルは金辺鉄道が着工したものでしたが、この路線で金辺峠にトンネルを掘るのが一番の難工事でした。金辺鉄道は資金が続かず、解散しました。小倉鉄道が後を引き継ぎ、工事を継続しました。1915(大正4)年小倉鉄道により、東小倉・上添田間が開通しました。この路線は筑豊からの石炭輸送が目的でした。

東小倉駅は現在はなく、上添田は現在は添田駅になっています。小倉鉄道は、1943(昭和18)年国有化されました。線路は南に延長され、更に統合されて、現在は貨物列車の通らない、JR日田彦山線になっています。金辺トンネルの北側の呼野駅はスイッチバック駅でした。金辺トンネルに向かう線路が急勾配であったため一旦バックし、勢いをつけて上って行きました。しかし、蒸気機関車もなくなり、石炭輸送していた貨物列車もなくなって、1983(昭和58)年スイッチバックは廃止になっています。金辺トンネルの南側は採銅所駅です。

かって街道は、金辺峠の北の呼野宿と南の採銅所宿を結んでいました。金辺峠の鉄道トンネルに続いて、街道の峠道のすぐ下に、1917(大正6)年に小倉と田川地方を結ぶ道路の金辺隧道が開通しました。これがトンネルの一番上です。その下に、国道トンネルとして、1967(昭和42)年に新金辺トンネルが、その横に上り専用として、1989(平成元)年第二金辺トンネルが開通し、上下線が分離されました。国道トンネルの下に鉄道トンネルが通っています。
国道322号線を南下しますと、次第に左右に山々が連なってきます。国道322号線(新国道、呼野バイパス)に旧国道が交差します。中央分離帯がありますので、そこでUターンし、すぐ手前の高架の新国道から左折できますので、国道から下に下りて行きます。下りて行くと、右手にJR日田彦山線の踏切があります。踏切から南側に丸山トンネルがあります。金辺トンネルの手前の全長110mのトンネルです。踏切の西側の一段高い所に旧国道が通っています。宿場があった呼野を通る街道は旧国道を通り、踏切付近を通り南に進みます。
呼野の詳細は、「北九州点描」の「呼野」をご覧下さい。
   
踏切から国道の高架橋の橋脚の下まで戻り、高架橋の下を南に進みます。数軒の集落の間を旧街道は通ります。集落の端にレンガ造りの跨線橋があり、橋の上に水路があり、川が流れています。橋の下を日田彦山線が通っています。北側に丸山トンネルが見えます。集落から跨線橋までは道幅がありませんが、跨線橋の先で駐車する程度の道幅はあります。  
   
跨線橋の反対側の南側に金辺トンネルがあります。全長1,444mの金辺トンネルの線路はその中央を通ってなく、トンネルの幅が広くなっています。石炭輸送が増えて、いつでも複線化ができるように計画されていたようですが、予想ほどには増えなかったようです。金辺鉄道の起工式は1897(明治30)年に行われますが、1900(明治33)年難工事のためトンネル工事は中止され、翌年資金調達ができず会社整理に追い込まれました。1903(明治36)年設立の小倉鉄道がこの路線を引き継ぎました。金辺鉄道時代にトンネルの竣工率は87%で、導坑は貫通していました。1912(明治45)年トンネル工事は再開されましたが、放置期間が長かったためか、落盤事故もありましたが、1915(大正4)年に鉄道は開通しました。
   
跨線橋の東側に吉原鉱山記念碑があります。1909(明治42)年の開鉱までのいきさつや、大正初期までの発展の様子が刻まれています。1915(大正4)年に建立されました。  
   
鉄道の金辺トンネルの先で、旧街道は吉原鉱山の敷地を通って金辺峠に上って行ったのですが、その道は失くなっています。跨線橋の先に行くと、国道322号線の新国道と旧国道の交差点の先の旧国道に出ます。そこを左折すると、旧国道は新国道に合流します。更に南に進みますと、金辺トンネルが見えてきます。先に見えてきたのが、反対車線の右側上り専用、全長850mの第二金辺トンネルです。1989(平成元)年の呼野バイパスとともに開通しました。第二金辺トンネルには「第二金辺トンネル」と書かれています。第二金辺トンネルには歩道が完備していますので、金辺峠を通る歩行者や自転車は上り下りに関係なく、第二金辺トンネルを通行します。
   
下り専用のトンネルは、第二金辺トンネルの左側に、開口部はもっと先になります。1967(昭和42)年、全長590mの新金辺トンネルは開通しました。新金辺トンネルには「新金辺隧道」と書かれています。第二金辺トンネルというのは、新金辺トンネルに対して、第二ですし、新金辺トンネルというのは、このトンネルのもっと上にある金辺隧道に対して、新しい道路トンネルということです。金辺隧道や旧街道の峠道へは、トンネルの手前、土処分場の看板が出ている所を、国道から左折し、坂道を上ります。  
   
坂道を上って行きます。左手の土処分場の入口を過ぎると、その先は舗装されず、道路は荒れています。左右から山が迫ってきます。先方左手は竜ヶ鼻の山腹です。先方手前の暗い所に金辺隧道があります。その上方が金辺峠です。
   
全長100mの赤レンガ造りの金辺隧道です。1917(大正6)年に小倉と田川地方を結ぶ目的で造られました。下に掘られた国道の新金辺トンネルができるまでその役目を果たしました。トンネルの銘板には、「道隧邊金」と右から書かれています。トンネル内には水が流れ込んでいます。  
   
金辺峠の峠道へは、金辺隧道の手前、左手に上る坂道があります。その付近に駐車して、歩きになります。この道は竜ヶ鼻への登山道でもあります。ほどなく、竜ヶ鼻と金辺峠への分れ道になります。その手前に猿の侵入を防ぐ防御柵が設けられています。そこを開けて入り、入ってからは柵を閉じます。分れ道を右に行くと、すぐに標高217mの金辺峠です。
峠の右手の崖の上に、郡境の石碑が立っています。北が企救郡、南が田川郡の郡境であることがしるされています。
   
石碑の先の街道脇の樹木の根っこ部分に石組みがあり、水が滴り落ちています。往時は、峠には関所・茶屋・水飲み場があったとのことですから、水飲み場でしょうか。峠の先に、携帯電話のアンテナの鉄塔が2基建てられています。  
   
峠の反対の左手に、島村志津摩の碑があります。小倉城自焼後、小倉軍の最高責任者島村志津摩は、金辺峠に向かいました。小倉城下を占領した長州軍との間で遊撃戦を繰り広げました。1876(明治9)年島村志津摩は死去します。この石碑は、死後10年の1886(明治19)年に、彼の遺徳をしのんで建てられました。碑文には、第二次長州征討戦の小倉口の戦闘の経過や、小倉城自焼後の金辺峠を拠点とする島村の戦いの指揮ぶりが描かれています。銘文をあらわしたのは、小倉藩儒医吉尾敦です。
小倉城自焼前の小倉口の戦闘については、「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。
   
島村志津摩の碑の背後に石段があり、その上に金辺観音堂があります。  
   
金辺隧道の北側、呼野側から国道322号線に戻り、新金辺トンネルを抜けるとすぐに左に入る道があります。トンネルを抜けると田川郡香春町採銅所です。道なりに進み、山手に上って行きます。道は細くなり、曲がりくねった道が上に続きます。やがてトンネルが見えてきました。金辺隧道の南側、採銅所側です。右手の道が峠道で、登って行くと、先程の金辺峠に出ます。
   
金辺隧道の採銅所側から坂を下りて来て、途中から南方向を眺めています。眼下の道路が国道322号線です。中央の山は、標高511mの香春岳の三ノ岳です。国道322号線は、北九州市側の呼野バイパスから金辺トンネルを通り抜けた採銅所側も、バイパスの新国道が開通しています。国道トンネルを採銅所側に抜けた最初の交差点が金辺峠交差点で、直進するのがバイパスの新国道で、右折するのが旧国道です。街道は、金辺峠から金辺隧道の横を通り、山腹の傾斜を真っ直ぐ金辺峠交差点付近に出る、かなりの坂道だったと思われます。
採銅所や香春岳については、「北九州の近隣」の「香春町・赤村」をご覧ください。
国道322号線金辺峠交差点に下りて来て、直進し、旧国道を進みます。左にカーブする所がありますが、そこから振り返った眺めです。山は標高680.6mの竜ヶ鼻です。左端に鉄塔が2基見えます。その辺りが金辺峠で街道が通っていました。その下の平行の線が新国道のバイパスです。左手の線は旧国道で、かっての街道は旧国道とほぼ同じ所を通っていました。新国道のバイパスの下に白い三角屋根が見えますが、その右付近が鉄道の金辺トンネルの南側、採銅所側です。その横に線が横に伸びていますが、その下に線路はあります。
旧国道の坂を更に下ると、その先に信号機があります。そこを左折すると、すぐに跨線橋があります。その上を水が流れていて、フェンスに囲まれています。そこから振り返って、鉄道の金辺トンネルの南側、採銅所側を見ています。  


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