北九州点描

ホーム


朽網
  小倉南区  [2015/10/31]
 

 
朽網(くさみ)は、京都郡苅田町と接し、貫山系水晶山の北東に当たります。景行天皇の土蜘蛛討伐の際、葛の網を敷きました。それが朽ちたことにより付いた地名との伝説が伝わっています。九州には景行天皇の伝説が残されている場所が多数ありますが、朽網はそういった場所の一つです。

江戸時代は中津街道の街道筋で、企救郡は朽網で京都(みやこ)郡と隣接していました。1615(元和元)年、曽根浜に千間土手が完成し、その土手内を新田にしました。この千間土手が曽根から朽網への街道に利用されました。その土手の海側も干拓され、曽根新田が1803(享和3)年に完成しました。国道10号線とその北側の県道25号門司・行橋線は旧中津街道と交差したり、重なったり、平行しながら伸びています。

1866(慶応2)年、第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、幕府軍は長州軍に破れ、小倉藩は小倉城自焼後、田川郡香春に退きました。田川に到る街道の金辺峠に展開する島村志津摩を総括とする軍と、中津街道の狸山に展開する小宮民部を総括とする軍が長州軍を攻撃しました。長州軍は高津尾と狸山口の二方面に総攻撃をかけました。小倉軍は善戦しましが、戦力からしてもう限界と感じ、止戦の調停を依頼し、小倉軍は金辺峠と狸山から撤退しました。この狸山は、朽網の京都郡との境近くの丘陵地です。

江戸時代から1887(明治20)年まで、東・西朽網村の二村でしたが、1887~89(明治20~22)年の間、朽網村となり、1889(明治22)年朽網村は曽根新田を合併し、1907(明治40)年からは曽根村の一部となり、1934(昭和9)年曽根村は曽根町となり、1942(昭和17)年小倉市に編入されました。

曽根から朽網にかけては、戦後まで農村地帯でしたが、1967(昭和42)年にはTOTOの工場が進出し、1970(昭和45)年頃から住宅地化が進み、宅地が造成されていきました。狸山も宅地造成で消滅しました。2006(平成18)年、東側の周防灘海上に北九州空港が開港しました。
国道10号線曽根バイパスを南進し、南端近くの朽網駅入口交差点を左折します。最初の信号を右折し、住宅地を道なりに進んで行きます。2階建ての市営住宅の前に、4・5個の大岩が塊になっています。帝踏石(たいとうせき)と呼ばれています。巨大な花崗岩が露頭したものです。
これは、景行天皇が土蜘蛛(天皇に恭順しない土着の豪族)を討つ時に、石占いをした石といわれています。帝踏石の石碑は、1933(昭和8)年に建てられました。裏面の碑文は、風雨で現在では解読が難しくなっていますが、そこに記された帝踏石記の要旨は次の通りです。
土蜘蛛を討つに際し、景行天皇はその成否を神に祈り、この石を蹴ると、柏葉のように舞い上がり、平定は容易であるとのことを示した。日本書紀に記載された踏石は、この巨石である。ここに碑を建てて、郷土史蹟として保存致します。
国道10号線バイパスに戻り、バイパス朽網交差点で右折して国道10号線を進みます。直進すると北九州空港の方向になります。次の国道10号線朽網駅東交差点を右折します。道は右にカーブして日豊本線JR朽網駅空港口に着きます。朽網駅は北九州空港への最寄り駅で、空港口からは空港へのバスが運行されています。
   
朽網駅の駅舎は2005(平成17)年12月に新築された橋上駅です。空港口から上に昇り、空港方面を眺めています。手前右下のトラックが通っているのが国道10号線です。その先が江戸時代に開拓された曽根新田で、白いラインはその堤防です。堤防の先に曽根干潟の海があり、グレーのラインが北九州空港で、朽網駅から約7km先になります。  
   
駅の連絡橋を渡ると、西口に出ます。1895(明治28)年、九州鉄道により小倉・行事(行橋市)間が九州鉄道により開業されました。その間の駅は城野・曽根・苅田の3駅でした。朽網駅は1952(昭和27)年に開業しました。西口に駐車場があります。東口にはありません。国道3号線曽根バイパスからは、朽網駅入口交差点から右折して来られます。国道10号線朽網駅東交差点からは、カーブの手前から直進しますと、始覚寺の前を通って踏切になり、そこを渡って右折して来られます。
   
始覚寺を訪ねます。帝踏岩と始覚寺の間の中津街道は、国道(現在県道25号門司・行橋線の旧国道を含む)とJRの線路の間を通っていました。  
   
始覚寺の境内に、堂上の松と呼ばれている黒松がありました。2006年11月撮影です。樹齢は400年の北九州市指定保存樹でした。
   
その黒松は切られています。若い松の横に切株が見えます。お寺にお尋ねすると、2008(平成20)年夏、マツクイムシの被害のため伐採したとのことでした。  
   
朽網駅西口の前の道を南に進みます。この道は県道254号須磨園・南原・曽根線です。次の踏切との十字路を右折します。先に行くと直進と右折の三叉路の交差点があり、そこを直進します。山手の方に進みます。右手に大きな朽網貴船神社の鳥居が見えてきました。
   
石段を昇って行きますと、社殿があります。昔、この山に神様が降臨されました。乗ってきた船をタブの木につなぎました。その船が石になったといわれています。景行天皇の代、山奥の洞穴に棲む土蜘蛛が村に出て来て害をなすので、景行天皇はこの神社で祈願して討伐しました。土蜘蛛を捕らえるために地に葛の網を張りましたが、その網が朽ちたことで、地名が朽網になったとの言い伝えがあります。  
   
石段の前の鳥居から右手に行きます。山車格納庫の横に岩があり、船石の石碑が立っています。神様が乗ってきた船をタブの木につなぎました。その船が石になったといわれています。
   
大きな鳥居の前の道を山手に進みます。高架の東九州自動車道の下を通り進みますと、左折の道があります。昭和池公園の展望台広場・駐車場への道です。展望台広場からの眺めです。1939(昭和14)年、灌漑用水確保のために朽網川を堰き止めて、昭和池が完成しました。
昭和池の堰堤です。堰堤下は桜広場と呼ばれます。右側に見えますが、広場の一角に昭和池之碑が立っています。広場の周囲や堰堤の周囲には桜が植えられ、桜の名所になっています。
桜の花は、「北九州の催事」の「北九州の花見」の昭和池の所をご覧ください。
 
   
昭和池之碑です。昭和池が完成する前は、曽根や朽網は旱魃に見舞われていました。
   
桜広場を出て、少し道を下った所から左手に入って行くと、勢いよく小川が流れています。そこを上流に行くと、昭和池から流れ出ている所に出ます。この流れが朽網川になり、朽網を流れ、曽根新田の南端から周防灘に流れ込みます。  
   
県道254号須磨園・南原・曽根線を右折した所まで戻ります。右折して県道254号須磨園・南原・曽根線を南進します。次の信号がある交差点を左折して進むと、国道10号線の宇土交差点に出ます。宇土交差点を右折し、松山入口交差点の手前の左手に2階建ての事業用建物があります。その横の砂利道を入って行った、人家の先に郡界石が立っています。この前を旧中津街道は通っていました。石柱の二面に、「従是西企救郡」「従是東京都郡」と刻まれていて、ここが企救郡(現在の北九州市の東半分に相当)と京都郡の境であったことを示しています。現在この地は京都郡苅田町若久町で、北九州市小倉南区から数m苅田町に入った所です。この辺りは狸山峠と呼ばれました。
   
国道10号線を小倉方面に戻ります。沿線にくさみ温泉という温泉施設があり、その前に歩道橋があります。その歩道橋から南の苅田方面の眺めです。右手にTOTOの工場が見えます。この付近から上り坂になり、先方横に低い丘陵地になっています。この峠がある一帯を狸山といいました。旧中津街道は国道の上を南下し、峠頂上付近の左手の高層のマンションの手前から左に入って行きました。その左手後方に郡界石はあります。1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘の後、小倉藩が単独で長州藩と戦った戦場の一つがこの狸山です。ここでは家老の小宮民部が指揮しました。
もう一つの金辺峠の島村志津摩については、「北九州点描」の「金辺峠」をご覧ください。
 


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 朽網


トップへ

北九州点描へ

ホームへ