北九州点描

ホーム


長野  小倉南区  [2010/01/30]
小倉南区長野は、北は竹馬川から南は長野城跡の城山のある山地で、東は津田、西は今は住宅になっている舞ヶ丘がある丘陵地を挟んだ横代で、農地が広がる南北に細長い土地です。

古代、豊前国企救郡(概ね現在の北九州市門司・小倉北・小倉南区に当たります)には長野郷と蒲生郷の地名が見えます。平安時代には大宰府領の長野荘でしたが、永保(えいほ、1081〜84)年間、大宰権帥藤原資仲(すけなか)により宇佐宮に寄進されました。1181(治承5)年中原氏が地頭に任命され、宇佐宮は中原氏の長野荘の知行を認め、中原氏は長野荘の開発を進めました。
1157(保元2)年平時盛の子、康盛が豊前の国司として下り、長野に築城し、長野氏を名乗り、その子長盛は、平氏滅亡後、赦免を得て規矩(企救)郡地頭職を安堵されるとの長野氏の祖を平氏とする伝承が残されています。南北朝時代には、中原姓長野氏と平姓長野氏が現れますが、その関連ははっきりしません。
室町時代、長野氏は長野から東谷・中谷・西谷、さらに蒲生、徳力まで勢力を伸ばし、長野城を本城に、大三岳(おおみつがたけ)城(小倉南区辻三)、小三岳(こみつがたけ)城(辻三)、稗畑山城(高津尾)等に長野氏一族は割拠しました。
戦国時代、北部九州は中国地方の大内氏、その後の毛利氏と豊後の大友氏との勢力拡大の舞台となりました。麻生・門司・長野氏等の北九州の国人達はその狭間で翻弄されました。
1587(天正15)年、豊臣秀吉は大軍を率いて出陣し、九州を平定しました。長野氏を含めた筑前・豊前の諸氏が豊臣軍に参陣し、秀吉に謁見しました。この後、長野氏は筑後に国替えになり、長野城は廃城になりました。

江戸時代には長野村になりました。江戸中期には上長野と下長野村に分かれ、1887(明治20)年に両村が合併して長野村になりました。1889(明治22)年長野・貫・津田村が合併して芝津村になりました。1907(明治40)年更に合併を行って曽根村となり、1934(昭和9)年曽根村は曽根町になりました。1942(昭和17)年曽根町は小倉市に編入されました。
国道322号線の桜橋北交差点から高架のモノレールの下の道を東進します。志井公園の先の新しい道路は、2004(平成16)年3月から供用されました。国道322号線の桜橋北交差点から国道10号線津田西交差点までの間を主要地方道徳力・葛原線といいます。
岳の観音トンネルを通り、横代への交差点を過ぎた先の信号機から右に入ります。そこから山手を眺めています。手前は長野緑地の工事現場です。中央に東自動車道長野トンネルの入口が見えます。その上の山が標高230mの長野城跡の城山です。
工事現場の塀沿いに、高速道路に向かって山手に進みます。
東自動車道長野トンネルの入口の下を通る林道長野線がありますが、手前にゲートが設けられ、車両は通行止めになっています。歩いて林道を進みます。
高速道路の下がトンネルになっていて、そこをくぐると道は右カーブし、坂道を登ると視界が開けます。そこからの眺めです。
手前に東自動車道があり、長野緑地の工事現場があります。その先に主要地方道徳力・葛原線が見えます。その先の山の右端に長野氏の菩提寺の護念寺があり、後ほど訪ねます。右の山は、城山から伸びた山地で、その反対側に、現在利用されている長野緑地があります。長野城跡の後に訪ねます。遠くの山は、標高597.8mの足立山です。
林道は大雨のため陥没個所があります。3つ目の陥没個所の先の林道に通行止めにロープが張られています。そこの林道脇の木に、手作りの「二の丸入口」の案内があります。その先は急斜面ですが、ロープが張られていますので、それを頼りに登って行きます。空堀と思われる窪地を登ります。その先はそれほど急な傾斜ではありません。左手には土塁が続きます。登り切ると左右に山道が分かれます。左手に登って行くと長方形の台地があります。二の丸跡です。その先が一段高くなっていて、「二の丸」の案内が木に架けられています。そこが櫓台で、その向こう下を登って来ました。
二の丸から下を眺めますが、木々や草に覆われて、山腹斜面の竪壕はよく分りません。
二の丸に入って来た分かれ道に戻り、南に進みます。左右より高い位置を進みます。緩やかな上り道が続きます。道が右に曲がり、山頂の平地の本丸跡に着きます。中央部分に一段と高い櫓台があります。
長野城は辺安末期に築かれたといわれていますが、その連続竪壕群の畝状阻塞(うねじょうそさい)が我が国最大の山城といわれる規模に発展したのは、戦国時代といわれています。山全体が城郭で、この他に出丸や馬場跡の遺構が残されています。また山麓には屋敷跡があり、発掘されています。
櫓台から西側の本丸跡です。「本丸跡」の案内が木に架けられています。
室町時代から戦国時代にかけて、長野氏は幾度も戦っています。1568(永禄11)年には、毛利元就は5万の大軍で北九州に進出し、この長野城は攻め落とされ、大三岳・小三岳城も落城し、長野氏は大打撃を受けました。この後も長野城は長野氏の本城として続きますが、豊臣秀吉の九州平定後、長野氏が筑後に国替えされ、長野城は廃城になりました。
本丸跡から南に下りて行きます。杉林の間に連続竪壕群の畝状阻塞が見えるはずですが、下草で隠されていました。
杉林を過ぎて下りて行くと、林道に出ます。車も通りませんので、山道と何ら変わりません。林道を北に向かって戻ります。道の両側は林に囲まれていますが、右手の視界が開ける所があります。そこからの眺めです。
手前の林の先の平地が長野です。その中の右から1/4の所の点に見える木立の所が若宮八幡神社です。その先に高架の九州自動車道が見えますが、その辺りまでが長野です。先の高い山は足立山です。
林道の陥没個所がもう1箇所あって「二の丸入口」の案内の所になり、更に下るとゲートまで戻ります。ゲートから往復1時間半の行程です。
主要地方道徳力・葛原線に戻り、先に進むと左手に駐車場があります。長野緑地の駐車場です。駐車場の奥に長野緑地はあります。水の流れがあり、芝生広場が広がっています。
長野緑地の奥、山裾に建物が建っています。市立緑地保育センターの「もりのいえ」です。市内の保育園・幼稚園が宿泊と日帰り利用できる、幼児のための集団生活施設です。
長野緑地の駐車場横の主要地方道徳力・葛原線の交差点を渡り、主要地方道と平行に伸びる道を左に行くと、石垣の上に建つ護念寺前に出ます。護念寺は長野氏の菩提寺でした。
護念寺の本堂です。室町時代末期、護念寺の住職になった長野氏一族の行念上人は、護念寺中興の祖といわれます。この時代に、当初は禅宗の寺だった護念寺は、浄土宗西山派の寺になりました。
護念寺は、企救郡内をはじめ、京都郡・仲津郡・築城郡に数多くの末寺をもったといわれています。
護念寺本堂前に上長野石棺群の案内があり、本堂から左手奥に進みますと、板状の石材が見えます。5世紀頃古墳時代前期の箱式石棺墓で、墳丘はなく、近くにもう一つ計2基発見されています。
また、護念寺本堂前には、長野城跡から発見された銅戈(どうか)の説明板が立てられています。弥生時代後期のもので、武器様の祭器です。
主要地方道徳力・葛原線と平行に伸びる、護念寺前の通りを北に進みます。二つの信号機のない交差点を通過します。道は田圃の中を一直線に伸びています。
道は若宮八幡神社の前を左に直角に曲がります。
平安時代、長野の山に神功皇后と応神天皇を祀ったのがはじまりで、のち長野城主が仁徳天皇を祭神に勧請しました。若宮八幡神社は、八幡神応神天皇の御子の若宮仁徳天皇を祀っていることをあらわしています。
若宮八幡神社の前を左に曲がって、先に進むと寺の鐘楼が見えます。浄土真宗の玄福寺です。その手前右手に老人ホームがあり、玄福寺の所から道は右に曲がります。先に進みますと、県道51号曽根・鞘ヶ谷線に出ます。
県道曽根・鞘ヶ谷線を右折して進みますと、長野川に架かる長野橋がありますので、そこを渡り長野川の右岸を進むと、すぐに国道10号線小倉東インター交差点に出ます。小倉東インター交差点で国道10号線を横断し、長野川の右岸を進みます。高架の九州自動車道の下を過ぎると、長野川が竹馬川に合流します。
長野城跡の城山の西側から流れ出した長野川は、長野を南から北に縦断して、北側を流れる竹馬川に流れ込みます。
竹馬川については、「北九州点描」の「竹馬川」をご覧ください。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 長野


トップへ

北九州点描へ

ホームへ