北九州点描

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浅生
  戸畑区  [2011/03/26]
 

古代、戸畑は鳥旗と記され、古代から中世にかけて飛幡・戸幡・戸端・都波多・鳥羽田とも書いて「とばた」と呼びました。それは、洞海(くきのうみ、洞海湾のこと)の狭い入口である岫門(くきと)の端のことといわれています。その南の海岸は汐(塩)井崎で、現在の戸畑駅付近になります。鳥旗の北側で、外海に突き出た岬は名護屋岬で、現在は埋立てられ、八幡製鐵所戸畑地区の内部になっています。汐井崎の西側に天籟寺川が洞海湾に流れ込んでいますが、かっては天籟寺川の奥まで洞海湾が湾入していました。

鎌倉時代、東国の御家人宇都宮氏は山鹿荘に入り、山鹿氏を名乗りました。その一族は山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職に就き、麻生荘に因み麻生氏を名乗りました。南北朝時代以降は、麻生氏は本家山鹿氏に代わって、花尾城(八幡東区・八幡西区)を本拠に、現在の北九州市の半分に当る戸畑区・八幡東区・八幡西区・若松区を含む遠賀郡を支配するようになりました。浅生の地名は、戸畑にあった麻生荘によるものです。
安土桃山時代の天正年間(1573-92)、現在の枝光八幡宮から八幡大神を戸畑村・中原村の産土神として汐井崎に分祀しました。麻生氏が筑後に移されると八幡神社は衰退し、江戸時代の寛文年間(1661-73)鳥旗に社殿は移されました。また、中原村の八幡神社は独立し、現在の中原八幡宮となりました。1920(大正9)年、八幡神社は浅生に遷座されました。戸畑駅の北側に東から西に元宮町、明治町、北・南鳥旗(とりはた)町、銀座という町名が並んでいます。元宮町は八幡神社が浅生に遷座されるまで社殿があった所といわれています。戸畑駅の北側は戸畑が発展するに従い大幅に町名が変わりました。

汐井崎付近は江戸時代から干拓が行われていましたが、明治に入ると、洞海湾の築港工事の一環として戸畑の洞海湾岸部は埋め立てられました。1895〜1900(明治28〜33)年に汐井崎から牧山の干潟が埋立てられました。その埋立地や臨海部に多くの工場が立地するようになりました。また現在の南鳥旗町には1890(明治23)年戸畑村役場が設置され、その後町役場になり、1933(昭和8)年に移転するまで市役所がありました。戸畑駅の北側が戸畑の中心でした。
現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年4月、黒崎−門司間が開通しましたが、その時の黒崎−小倉のルートは、現在と違い、戸畑は通らない内陸ルートでした。1897(明治30)年、八幡村に官営製鉄所が開設され、若松港が石炭積出港として飽和状態になっていましたので、対岸の戸畑に港が建設されていました。そんな状況の中、海岸ルートの要望が高くなりました。1902(明治35)年12月、戸畑を通る路線が開業され、当時の駅舎は線路の北側にありました。戸畑が発展するとともにその中心は南に移っていきました。1964(昭和39)年、戸畑駅の駅舎も南側に建替えられました。
1902(明治35)年12月、戸畑駅は開業しました。駅舎は線路の北側にありましたが、1964(昭和39)年、南側に建替えられました。その駅舎は現在より120m東にありました。駅の西側の工場(日立金属)が撤去されたため、戸畑駅前の区画整理が行われ、JR戸畑駅は、1999(平成11)年西側に移動し、新築されました。
駅の北側については、「北九州点描」の「川代・銀座」をご覧ください。
JR戸畑駅の東側移転跡地に、総合福祉プラザ、ウエルとばたが建設され、福祉活動の拠点になっています。南に4階と北に12階の建物があり、低層の建物には戸畑市民会館のホールがあります。低層南側2階の外側にペデストリアンデッキ(歩行者回廊)が設けられ、駅前の県道50号八幡・戸畑線の反対側と連絡しています。
ウエルとばたの東端が旧戸畑駅になります。ウエルとばたの東端のペデストリアンデッキで県道50号八幡・戸畑線を渡り、県道50号八幡・戸畑線と交差している県道271号下到津・戸畑線に架かる歩道橋の中央部から南東を見ています。
左が県道271号下到津・戸畑線で、右は中本町商店街のアーケード入口です。
現在、県道271号下到津・戸畑線は拡張され、中央通りと呼ばれていますが、旧戸畑駅から東に伸びるこの道路沿いは、古くからこの付近が浅生と呼ばれていましたので、浅生通りと呼ばれていました。
中央通りの南側に中本町商店街はあります。そのアーケードの通りをあやめ通りといいます。戸畑あやめに因む命名です。その中程から左右に分かれます。そこを左に行き、アーケードを抜けた道路は旧電車通りです。
左のアーケードを抜けた先の旧電車通りを直進すると、飛幡(とびはた)八幡宮の参道です。車両は向こうからこちらへの一方通行になります。道の両側は新町名の浅生です。
飛幡八幡宮参道の北側にある中央通りと旧電車通りが交差する浅生交差点です。
浅生通りと呼ばれた現在の中央通りを西に進みます。中央通りの右手の新町名が浅生で、左手が新池です。
中央通りの左手の新池に孫次凧の店があります。孫次凧は明治末期から地元で作られている手作り民芸品で、セミ、鶴、達磨、フクロウ、鬼、ウサギなど種類が豊富で、鮮やかの色遣いとユニークな形が特徴です。
孫次凧の先で通りは二つに分かれます。右側が中央通りで、そこに飛幡八幡宮の鳥居が立っています。先程は西側の鳥居ですが、こちらは北側の鳥居になります。鳥居を通って行くと飛幡八幡宮になります。
1194(建久5)年、下野国の上野介重業(こうずけのすけしげなり、のちに麻生を名乗る)が花尾城主になり、城の鬼門の宮田山に八幡大神を祀りました。それが現在の枝光八幡宮です。そこから安土桃山時代の天正年間(1573-92)、戸畑村、中原村の産土神として汐井崎に分祀されました。江戸時代に鳥旗に移され、1920(大正9)年、ここ浅生に遷座されました。浅生八幡神社といわれましたが、現在は飛幡(とびはた)八幡宮と呼ばれています。
飛幡八幡宮の北側に中央通りはあり、その西側で道は二つに分かれ、南側が中央通りです。二つの道路に挟まれて浅生第1公園があります。公園の東側にも道路が南北に通っています。公園の形は三角形で、公園とそれを取り巻く道路が戸畑祇園大山笠競演会会場になります。
公園の東側の道路に沿って戸畑区役所の新庁舎が完成し、2007(平成19)年1月から業務を開始しています。ここは新町名で千防(せんぼう)です。ここにあった市民会館や福祉文化センターがウエルとばた移転するに伴い、その跡地に戸畑区役所が移転新築されました。ここには保健・福祉・医療が一体になった施設や高齢者向けの住宅が併設されています。3階の建物が区役所で、外部が階段状になっていて、戸畑祇園大山笠競演会の観覧席になっています。区役所の奥には保育所・高齢者福祉施設・障害者の活動センターなどがあります。
戸畑区役所の屋上から、戸畑祇園大山笠競演会会場を見ています。中央の三角形の草地が浅生第1公園です。この公園の周りの道路を提灯山笠になった大山笠が運行されます。左側の道路が中央通りです。
戸畑祇園は7月第4土曜を含む前後3日間行われます。その土曜日夕方からの戸畑祇園大山笠競演会で、光のピラミッドの提灯山笠が見られます。
戸畑祇園については、「北九州の催事」の「戸畑祇園」をご覧ください。
戸畑区役所庁舎の屋上は、ふれあいの丘と呼ばれ、こんもりした丘状になっていて、芝が張られています。階段状の観覧席の横を昇って行きます。
そこに戸畑あやめが植えられています。戸畑あやめは10〜15cmの草丈で普通のあやめより小さく、5月上旬から中旬にかけて花が咲きます。戸畑あやめは戸畑に明治末頃まで自生していましたが、その後は姿を消し、幻の花といわれていましたが、1957(昭和32)年大谷地区で株が発見され、地域ぐるみで保護活動が行われ、現在は数個所で栽培されています。
戸畑区役所新庁舎の北側交差点の対角に旧庁舎があります。ここの新町名は新池です。
この建物は1933(昭和8)年旧戸畑市役所として建設されました。東側の玄関側からはこのように2階建てに見えますが、敷地の傾斜を利用していますので、鉄筋コンクリート造り3階建てです。
旧戸畑区役所庁舎の前の北側に国境石が置かれています。豊前と筑前の国境をしめしたもので、1702(元禄15)年頃小倉藩が境川の川中に建てましたが、洪水で流され、1842(天保13)年再建されました。しかし、区画整理事業に伴い、1957(昭和32)年ここに移されました。
国境石の北側に河と(白に斗)島記念石があります。現在の洞海湾の若戸大橋下に周囲500m程の小島がありました。古代には河ご(白に斗)島(かごしま)といわれたようですが、近世では「かわとしま」といわれました。通称として「中ノ島」と呼ばれました。慶長年間、そこに黒田長政が三宅若狭家義に端城の若松城を築城させ、居城させました。しかし、1615(元和元)年一国一城令により廃城になりました。明治になると、コークス工場、貯炭場、造船場が設けられました。1939(昭和14)年洞海湾の港湾発展のため、島の切取工事が始まり、翌1940(昭和15)年に完了し、島の姿は消えました。この石は河と(白に斗)島にあったものです。


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