北九州点描

ホーム


中原
  戸畑区  [2012/01/14]
 

 
中原(なかばる)は筑前国と豊前国の中間にあり、水田はその奥にわずかにある、不毛の広い原でした。そのような様子から中原の地名が付いたといわれています。江戸時代は、両国に同じ中原村の名の村がありました。西の筑前は遠賀郡中原村、東の豊前は企救郡中原村でした。その間を境川が南から北に流れていました。
ここでは西の筑前の中原を取り上げますが、その前に東の豊前の中原についても少し触れておきます。1887(明治20)年中原村は井堀村と合併して、両村名を採って企救郡中井村になります。1889(明治22)年中井村は板櫃・槻田・馬島・藍島村が合併して板櫃村になります。板櫃村は板櫃町になり、1915(大正14)年小倉市に編入されます。現在、中井、井堀の地名は残っても、中原の地名は残っていません。
西の筑前の中原村は、1889(明治22)年戸畑村と合併して遠賀郡戸畑村になり、中原は大字名として残り、境川の西側の中原の地名は現在も残りました。1899(明治32)年戸畑村は戸畑町になり、1914(大正13)年戸畑町は戸畑市になります。かっての境界は概ね現在の西の戸畑区と東の小倉北区の境になっています。
以下、西の中原を見ていきます。昭和初期まで、中原海岸は遠浅で、白島や藍島が望める白砂青松の地でした。現在は埋め立てられています。明治以降、中央資本の工場が多い北九州の中で、安川・松本家の地元資本が活躍しました。安川敬一郎は養子にいっている次男の松本健次郎と共に、石炭の明治鉱業を柱に本拠を戸畑に移し、明治紡績・安川電機・黒崎窯業などを設立します。
二人は企業設立の他に、技術者養成を目的に明治専門学校(明専)を戸畑の中原に創立し、1909(明治42)年4月同校は開校しました。この明専は、1921(大正10)年国に移管され、戦後現在の九州工業大学になりました。
中原は戸畑の西側にあり、北は海岸から南は金比羅山、その西の鞘ヶ谷までの広範囲な地域でしたが、ここでは北側の現在の中原東、中原西とその周辺部を訪ねます。  
JR鹿児島本線の九州工大前駅です。駅前の国道199号線には歩道橋が架かっています。199号線は若戸大橋の戸畑側と小倉北区の砂津付近までは南北2本の199号線が通っています。こちらは北側の市街地を通らない国道199号線です。
1919(大正8)年に操業した東洋製鉄が北にあり、そこへの専用線への切替をここで行っていました。東洋製鉄は八幡製鐵に合併され、戸畑作業所になりました。貨物が増え、上戸畑駅という貨物駅になっていました。旅客列車も止めて欲しいとの地元の声で、土地の余裕がない中で、1970(昭和45)年九州初の橋上駅の新中原駅が新設されました。佐賀の長崎本線に中原駅がありましたので、新が付けられました。1978(昭和53)年専用線は廃止され、貨物線の跡は北九州テクノパークや都市高速になり、駅名も1990(平成2)年から九州工大前駅になりました。
九州工大前駅から南に行くと、すぐに東西に伸びる通りに出ます。この道路の中央を、西鉄電車の戸畑線が通っていて、工大前電停がありました。
   
旧電車通りの西側です。次の電停は三六(さんろく)でした。
1912(明治45)年九州電気軌道(九軌)により戸畑線は開業されました。その後西鉄の営業路線となり、1986(昭和61)年戸畑線は廃止されました。
 
   
旧電車通りの東側です。次の電停は中原でした。
前年の1911(明治44)年北九州本線の門司・黒崎間が開通していました。戸畑線は小倉大門から分岐し、若戸の渡し場の戸畑まででした。幸町で分岐し、本線の八幡中央町に到る枝光線が開通したのは1929(昭和4)年でした。1914(大正3)年には黒崎から折尾まで延伸された折尾線が開通しましたが、現在はすべての北九州線が廃止になっています。
   
旧電車通りを通り過ぎた先の九州工大前通りは、車は一方通行になっています。中原東、中原西は通りが狭いので、幹線道路を除く多くの通りが一方通行になっています。  
   
九州工大前通りを南に来て、南側の市街地を通る国道199号線の先に九州工業大学の正門があります。1909(明治42)年4月開校時に明治専門学校表門として建てられ、奥脇の守衛所の明治専門学校表門衛所もその時建てられました。建物の設計は、設立時の協議員で参画していた辰野金吾が担当しました。安川敬一郎・松本健次郎父子によって創設された明治専門学校の敷地は南北に広く、現在の九州工業大学の敷地の住所は仙水町になっています。
東京帝国大学の物理学教授山川健次郎は48歳で東京帝国大学の総長となりました。辞任後、明治専門学校の設立に協力して総裁になりました。九州帝国大学が設置されると初代総長となり、その後、再度東京帝国大学の総長に就任し、京都帝国大学の総長も兼任しました。
総裁の山川健次郎は「技術に堪能(かんのう)な士君子(ゼントルマン)」を養成するために、教養と基礎科目を重視し、日本で唯一の四年制専門学校を発足させました。教授達は帝国大学から多数迎えました。
1918(大正7)年第一次世界大戦が終わると、日本は大不況に見舞われます。安川敬一郎は明治専門学校の維持は困難と判断し、学校の将来のために国に献納しました。1921(大正10)年戸畑の私立明治専門学校は官立明治専門学校に移行しました。
明治専門学校の南の先の夜宮に松本健次郎の住居が建てられました。辰野金吾の設計によるものです。詳しくは「北九州のみどころ」の「夜宮公園」をご覧ください。
九州工業大学正門前の国道199号線を東に進みます。途中橋が架かっています。くろがね線の跨線橋です。跨線橋の南戸畑橋から南方向の八幡方面です。
1921(大正10)年八幡製鐵所は戸畑にあった東洋製鉄を合併します。戸畑で製造された熔鉄を船で運びました。八幡からはエネルギーの蒸気を製造した燃料の残滓の石炭殻と、鉄の精錬過程で出てくる鉱滓を戸畑に埋め立てる必要がありました。1930(昭和5)年八幡製鐵所は、八幡からの石炭殻と鉱滓を戸畑に、戸畑からは熔鉄を八幡に輸送するために専用の鉄道6qを建設しました。この鉄道は炭滓線と命名されました。
   
南戸畑橋の北に中戸畑橋、北戸畑橋の跨線橋があり、その北に向江橋(むかえはし)があります。そこから北方向、新日鐵八幡製鐵所戸畑地区方面です。かって複線であったことがよく分かります。石炭がエネルギー革命で石油に代わったためか、この鉄道は鉱滓線と呼ばれました。石炭殻と鉱滓の輸送がなくなり、鉄源が戸畑に集中し、大量の銑鉄を八幡に輸送する必要があり、鉄道の改修が必要でした。これを期に1972(昭和47)年、この鉄道はくろがね線と命名されました。現在、銑鉄・製鋼工程が戸畑に集中しているので、圧延材料や製品が運ばれます。  
   
南側の国道199号線を更に東に進みます。境川交差点を左折して北に進み、中原八幡宮入口交差点を右折して、坂を下りると左手に中原八幡宮があります。
古代、戸畑は鳥旗と記され、古代から中世にかけて飛幡・戸幡・戸端・都波多・鳥羽田とも書いて「とばた」と呼びました。それは、洞海(くきのうみ、洞海湾のこと)の狭い入口である岫門(くきと)の端のことといわれています。またその付近の海岸は汐(塩)井崎で、現在の戸畑駅の北側になります。安土桃山時代の天正年間(1573-92)、花尾城主の花尾氏が現在の枝光八幡宮から八幡大神を戸畑村・中原村の産土神として塩(汐)井崎に分祀しました。その後戸畑村から分村した時期なのか、中原村の八幡神社は独立し、現在の中原八幡宮となりました。1579(天正7)年鎮座と鳥居の横には記されています。
江戸時代の1802(享和2)年、戸畑村で疫病が蔓延したため、祭神の須賀大神(須佐之男命)に祈願したところ終息しました。翌1803(享和3)年7月、村人が山笠をつくり神社に寄進しました。このことが戸畑祇園の始まりといわれています。戸畑村と中原村には須賀大神を祭った八幡宮や天満宮がありました。戸畑祇園は飛幡(とびはた)八幡宮、菅原神社、中原八幡宮の三社の夏祭りです。
戸畑祇園の詳細は「北九州の催事」の「戸畑祇園」をご覧ください。
   
中原八幡宮の境内に孝子森惣市の碑が立っています。1897(明治30)年に現在の九州工業大学の正門近くに建てられました。
森家は、中原で陰陽師を業としていました。惣市は両親に孝行を尽くしました。1698(元禄11)年孝子として賞され、福岡藩主より穴生新田の3反が与えられました。書は黒田家当主黒田長成(ながしげ)です。
 
   
中原八幡宮の前を更に進むと、境川に出ます。川の両側の道路は一方通行です。境川は金比羅山の麓の金比羅池を水源とします。
境川の下流の眺めです。左手は中原八幡宮の隣の中原公園です。右手は小倉北区中井です。
   
中原八幡宮入口交差点に戻り、右折して北に向かいます。JR鹿児島本線に架かっている跨線橋になり、先方に上に高架の都市高速が通る国道199号線との中原東交差点が、右手に櫓山荘公園の小山が見えます。交差点の手前を左折します。高架の道路の下をくぐると、道は二つに分かれます。直進すると、新日鐵八幡製鐵所戸畑地区に入る中原門の前に出ます。分れ道を左に入ります。八幡製鐵所戸畑地区への輸送を担っていた貨物線跡地が北九州テクノパークになっています。ハイテク産業の育成を目指した産業支援団地です。手前はゼンリンで、左端の建物は北九州テクノセンタービルです。北九州テクノセンタービルは1993(平成5)年開設されたテクノパークの中核施設です。研究開発、人材育成、交流促進、情報提供を行っています。
国道199号線の中原東交差点の横を境川が流れています。中原東交差点横の国道199号線に架かっている境川橋から北側を見ています。右端が中原八幡宮入口交差点から来た道路です。ここはかっての境川の河口です。右が筑前で、左が豊前で、現在は右が戸畑区で、左は小倉北区です。左端に立っているのは国境石です。この後見に行きます。
見えませんが左側に櫓山荘があった小山があります。現在は跡地が櫓山荘公園になっています。櫓山荘跡の詳細は「北九州点描」の「櫓山荘跡」をご覧ください。
もとの国境石は、八幡東区東田のいのちのたび博物館に保管・展示されています。福岡藩によって建てられたものです。1700(元禄13)年福岡藩と小倉藩は、境川を国境とすることを取決めました。
もとの国境石は1841(天保12)年に改建されたものでした。その前の国境石は、1797(寛政9)年建てられましたが、前年1840(天保11)年洪水で倒れました。その後、ここの国境石は戸畑・若松・平松の漁業基点として利用され、1931(昭和6)年に基台補強の保護工事が施された旨が、基台部分に刻まれています。
 
   
中原東交差点を北に進みます。境川の右岸、西岸を河口に向かいます。境川の両側はずっと沖合まで埋め立てられています。境川の河口部に来ました。境川泊地の奥で、左右に工場が立地しています。泊地を出ると関門海峡の西部に出ます。
ここ中原先の浜に、戸畑祇園中原大山笠のお汐井汲みの場があります。ここで山笠を清める海水を汲みます。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 中原


トップへ

北九州点描へ

ホームへ