北九州点描

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川代・銀座  戸畑区  [2012/11/17]

713(和銅6)年に撰進された風土記のうち、,逸文として残る筑前国風土記に、戸畑は鳥旗と記されています。洞海(くきのうみ、洞海湾のこと)の狭い入口である岫門(くきと)の端のことから「とばた」と呼ばれたと思われます。洞海湾沿岸は、湾内に注ぐ河川の河口を中心に、古くより新田開発のための干拓が行われていました。当時の鳥旗と呼ばれる地域は、洞海湾口に突き出るような地形でした。現在の若戸渡船渡し場の西から南に海が湾入していました。現在の沖台、その北端付近の天籟寺川が海の一番奥で、1786(天明6)年、天籟寺川河口の東岸の海岸、汐井崎が開作されました。鳥旗の北の外海に名護屋崎が突出し、その南の湾口に鳥旗、更に南の湾内に牧山が突き出て、それぞれの間は海が湾入していました。

江戸時代から1889(明治22)年まで戸畑村でした。1889(明治22)年東部の中原村を合併して戸畑村になりました。当時は農業が中心で、一部で漁業が行われていました。しかし、洞海湾の対岸の若松が石炭積出港として発展するとともに、石炭関連の工場が立地しました。1899(明治32)年戸畑町になり、沿岸部に大工場が立地するようになりました。1924(大正13)年戸畑市になり、北九州工業地帯の一角を占めるようになりました。

戸畑の周辺の変遷を見てみます。江戸時代より、米とともに石炭が遠賀川から堀川や江川を利用して洞海湾の奥に入り、その出口に近い若松に運ばれました。底の浅い舟の川ひらた(舟に帯の字でひらた)、別名五平太船で運ばれました。明治になっても川ひらたで石炭は運ばれました。1891(明治24)年若松‐直方間の筑豊興業鉄道(のち筑豊鉄道と改称されます)が開通しました。若松築港会社が設立され、防波堤が築かれ、浚渫工事が進められました。1895(明治28)年日清戦争が終わり、戸畑沿岸改修と葛島(かつらじま)周辺埋立工事が許可されました。

日清戦争後、我国は重工業の発達に力を入れ始めたため、その基礎資材の鉄の需要が高まり、1997(明治30)年洞海湾岸の遠賀郡八幡村に製鐵所が設立されました。同年筑豊鉄道は九州鉄道(現在の鹿児島本線の前身を開通させた)と合併し、九州鉄道になりました。1901(明治34)年製鐵所は操業を開始しました。当時の黒崎ー小倉間は、現在のJR鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。しかし、1902(明治35)年、海岸ルートが開通し、戸畑駅が開業しました。1905(明治38)年日露戦争は終わりますが、その間に船舶・鉄道・工場の動力源である石炭の需要は急速に高まりました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。

上の二つの地図は概ね同一地域です。右の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(小倉)の明治33(1900)年側図です。横書き文字は右からです。中央に河ば(白に斗)嶋がありますが、「かばしま」「かごしま」「かわしま」「かわとしま」と呼ばれ、通称として中ノ島と呼ばれましたが、現在は切り取られてありません。その下は白地になっている所と、その左横の白地の島は埋立られた場所です。島は一文字島と呼ばれましたが、双方とも埋立てられ、現在の銀座に該当します。白地の場所の右横の○の記号は、戸畑村役場、町役場、市役所があった場所です。
左の現在の地図の貨物専用線が海岸ルートが開通した時の路線であり、現在は貨物専用線です。現在の旅客用の路線の鹿児島本線は、戸畑駅と枝光駅の間は山手のトンネルを通ります。

汐井崎の北側、鳥旗の南から西側に、1880(明治13)年漁業者により埋立が行われました。その後、汐井崎、牧山干潟の埋め立てが出願されますが却下されました。1895(明治28)年、若松築港により戸畑沿岸改修と葛島周辺埋立工事が出願され、3工区に分けて工事は行われました。第3工区の葛島周辺埋立は1897(明治30)年に竣工しました。天籟寺川河口の東が第1工区、西が第2工区でした。九州鉄道の戸畑停車場の造成と敷設工事を前に第1工区と第2工区の半分が1900(明治33)年竣工しました。

現在の銀座はかっては築地町と呼ばれていました。戸畑埋築会社により、若松築港の第1工区の埋立と前後して築地町一帯と一文字島の埋立が竣工し、翌1901(明治34)年渡船渡し場付近の海岸一帯の埋立が竣工しました。一文字島は貯炭場として使われました。戸畑駅が開業すると、第2工区の半分に位置する牧山埠頭では石炭が船積みされました。第2工区の残り半分と追加分を合わせて埋立し、1912(大正元)年竣工しました。埠頭には大型汽船が3隻接岸し、埋立地は新川貯炭場になりました。1912(大正元)年の着炭量は177万tで、若松港着炭量の26%に当たりました。第2工区の埋立てにより、牧山の北にあった都島はなくなりました。

1917(大正6)年東洋製鉄が渋沢栄一らによって設立され、1918(大正7)年戸畑製鉄の用地に、東洋製鉄は戸畑製鉄を合併して立地しました。そこは現在の川代の東側から北の飛幡町、更に北の八幡製鐵所戸畑地区構内に当たります。1919(大正8)年に操業した東洋製鉄は、第一次世界大戦後の不況に遭遇し、1921(大正10)年八幡製鐵所は戸畑にあった東洋製鉄を吸収し、戸畑作業所にしました。これが八幡製鐵所の戸畑進出の足掛かりになりました。1922(大正11)年中ノ島と戸畑町の間から名護屋岬を経て沖に到る新航路を浚渫し、その土砂を現在の川代の東の埋立に利用しました。この頃には洞海湾の湾口は北の名護屋岬まで伸びていました。川代の東の埋立の北への延長で、名護屋岬の西まで、八幡製鐵所構内の内浦埋立地が1925(大正14)年着工され、戦時中に竣工しました。名護屋岬の東側の八幡製鐵所構内の外浦埋立地が1921(大正10)年着工され、戦後に竣工しました。その後も戦前から八幡製鐵所戸畑地区構内の埋立は次々と続けられ、昭和50年代まで竣工しました。現在の洞海湾の湾口は、下関市の彦島の北西端から西側3km足らずの位置にあります。

戸畑町の委託で、若松築港が一文字島沿岸の埋立に1922(大正11)年着工し、1926(大正15年)に竣工し陸続きになり、現在の銀座の地形になりました。一文字埋立地に1927(昭和2)年鮎川義介を社長とする戸畑冷蔵が設立されました。製造された氷はトロール船用に下関の共同漁業に運ばれました。本社が神戸で、営業所が下関の共同漁業が、1929(昭和4)年下関から戸畑の埋立地に移転して来ました。一文字岸壁にトロール船が接岸し、一文字埋立地に製氷冷蔵工場、荷揚場、魚市場、加工工場、缶詰工場、事務所が建設され、関係関連会社も建設されました。共同漁業をはじめ多くの水産関連会社が統合され、1937(昭和12)年日本水産が発足しました。

洞海湾の出入船の利便性を向上させるために、若松・戸畑の中間に位置する中ノ島の切取が1940(昭和15)年に行われました。周囲約540mの島には、人家、造船所、貯炭場がありました。切り取った土や浚渫土は、並行して行われていた戸畑商港埠頭築造の埋立に使われました。埠頭は川代から北西方向に洞海湾に突き出すように築造されました。埠頭の東側の商港は1942(昭和17)年に、西側の漁港は1946(昭和21)年に竣工しました。埠頭の漁港側に日本水産の工場が建設されました。ここで1947(昭和22)年魚肉ソーセージの開発を始め、1952(昭和27)年に本格生産を始めました。現在埠頭は戸畑埠頭と呼ばれます。

洞海湾を迂回すれば20kmで、渡船で渡れば3分間の若松の戸畑の間には、戦前より海底トンネルの計画がありました。戦後は国防的見地のトンネル案に変わって、橋梁案が推進されました。1958(昭和33)年4月日本道路公団により着工され、1962(昭和37)年9月若戸大橋は開通しました。当時東洋一の吊橋で、純国産の技術と材料で建設されました。当初片側1車線の歩道付きでしたが、モータリゼーションのスピードは予想外に早く、1984(昭和59)年5月~1990(平成2)年3月の工事により、歩道はなくなり、片側2車線に拡幅されました。若戸渡船は若戸大橋の開通で廃止されることなく、現在も人を運んでいます。

若松と戸畑を結ぶのは若戸大橋のみのため、若戸大橋の渋滞の解消と、若松の響地区と戸畑、小倉との交通アクセスをスムーズに行うとの要望から、洞海湾を海底トンネルで横断する新たな臨港道路として新若戸道路が計画されました。海底部分は沈埋(ちんまい)トンネル工法が採られ、従来のシールド工法に比べ海底を深く掘る必要がなく、陸上部のトンネルが短くて済むため、経済的で、短期に工事で完成することができました。戸畑区新池3丁目から若松区安瀬まで4.5kmの新若戸道路のうち、第1期工事2.3kmが2001(平成13)年10月着工し、2012年9月開通しました。このうち2.1kmを若戸トンネルと呼び、若戸大橋と同額の有料で、戸畑区川代1丁目の料金所から若松区北浜1丁目の間になります。  
2012(平成24)年8月26日、9月15日の開通を前に新若戸道路ウォーキングがありました。若松・戸畑両側から開通前の有料道路を歩くことができましたので、若松区浜町3丁目交差点から若戸トンネルに入って行きました。
若戸トンネルの海底部の沈埋トンネル工法とは、海底をあらかじめ溝状に掘削しておき、鋼鉄でできた函を陸上で製作し、海上に浮かべた状態でコンクリートを詰めて海底に沈め、これらの函を接合したのち、土砂を埋め戻してトンネルを完成させる工法です。 沈埋トンネルでは、海底を海上から掘削し、浅く埋設できるため、陸上部のトンネルの長さが短くて済みます。そのため、経済的で短期間の工事が可能となります。
   
トンネル内の工事状況のパネルを見ながら、トンネルの戸畑側に出て来ました。戸畑区川代1丁目の料金所の前まで行き、そこをUターンして若松方面に進み、トンネルの手前で戸畑埠頭に出ました。  
   
1962(昭和37)年9月26日若戸大橋は開通しました。2012(平成24)年9月25日若戸トンネルは開通しました。2012(平成24)年10月28日、若戸大橋開通50周年記念イベントとして、車両を通行止めにして、1日限りの若戸大橋を歩いて渡る「若戸大橋1DAYレッドウォーク」がありました。
川代1丁目の若戸大橋の料金所です。入口も出口も若戸大橋と若戸トンネルは離れていますが、一番接近しているのは料金所です。この右側の方に若戸トンネルの料金所はあります。勿論行き来はできません。
   
取付橋梁部を含くめて約2.1㎞を歩きました。1987(昭和62)年に歩道が廃止されて以来初めて、若戸大橋橋上を人が歩きました。  
   
1902(明治35)年12月、戸畑駅は開業しました。駅舎は線路の北側にありましたが、1964(昭和39)年、南側に建替えられました。1999(平成11)年120m西側に移動し、現在の戸畑駅は新築されました。駅舎の中央に、地下道の南北公共連絡通路がありますので、駅の南口から北口に向かいます。
駅の南側については、「北九州点描」の「浅生」をご覧ください。
   
戸畑駅北口から道路が真っ直ぐ若戸大橋の橋脚に向かって伸びています。左手西側が銀座です。右手東側の手前が南鳥旗(とりはた)町で、先の方が北鳥旗町です。その境が先の交差点になります。その位置の南鳥旗町9番付近にかって戸畑村役場、町役場、市役所があったといわれています。  
   
戸畑駅北口から北にやって来ました。北九州市営若戸渡船戸畑渡し場があります。人と自転車を運ぶ大人100円の3分間の船旅です。
若松と戸畑の間には、昔から渡船はありました。1889(明治22)年以降若松村・若松町と戸畑村・戸畑町はそれぞれ渡船経営に当たりました。使われたのは二挺艪の伝馬船でした。1910(明治43)年若松・戸畑両町は委員会をつくり、前後両方に推進器と舵のある汽船を発注しました。日本で始めて渡船に汽船が就航しました。1919(大正8)年若松市・戸畑町の共同事業になりました。1930(昭和5)年4月2日若松恵比須祭の初日、第一わかと丸が沈没しました。死者73名の国内最大の海難事故でした。
この後、復元性能が向上した大型で、速力、安全性が向上した渡船が建造されました。1936(昭和11)年から若松・戸畑両市の直営事業になりました。
若松渡し場付近については、「北九州のみどころ」の「若松南海岸」をご覧ください。
渡船の沈没事故もきっかけになり、戦前より洞海湾の海底トンネルや架橋の計画が何度も持ち上がりましたが、1962(昭和37)年9月若戸大橋が開通しました。
橋長680m、橋脚間367m、主塔の高さ83.9m、海上から橋までの高さ40m、取付橋梁部を含む全長は約2.1㎞です。当初片側1車線の歩道付きでしたが、1984(昭和59)年5月~1990(平成2)年3月の工事により、歩道はなくなり、片側2車線に拡幅されました。
手前の戸畑側の橋脚にかかるような位置に、中ノ島はあったといわれています。
渡船渡し場から海沿いを東に向かいます。ここからしばらく川代を紹介します。
戸畑祇園のお汐井汲みの場があります。戸畑祇園大山笠は、昼は幟山笠で、夜は提灯山笠に変わります。祭りは7月の第4土曜の前後3日間行われます。ここで、神職が榊の枝でお汐井を山笠や山笠関係者にかけてお祓いをして、祭りの安全を祈願する神事が行われます。東・西・天籟寺の大山笠のお汐井汲みの神事が行われます。
道路の反対側に若戸大橋の橋台があり、かってその中に歩行者用のエレベーターが設けられていました。その東側は大橋公園になっていて、若戸大橋開通を記念した若戸博覧会の戸畑側会場でした。
戸畑祇園については、「北九州の催事」の「戸畑祇園」をご覧ください。
 
   
渡船渡し場から海沿いの道を東に向かいますと、左手に戸畑埠頭が伸びています。戸畑埠頭の手前の西側から先端を見ています。先方の左手にニッスイ戸畑工場があります。
右手は戸畑埠頭の中央を通る新若戸道路です。新若戸道路の戸畑区川代1丁目の料金所から若松区北浜1丁目までは2.1kmです。この先に若戸トンネルがあります。
   
戸畑埠頭の先端に来ました。この先若戸トンネルは、洞海湾の海底を左に弧を描いて進み、左側の白い建物の左側が対岸若松の出入口になります。
若戸トンネルの洞海湾を横断するトンネル部分は776m、海底部分は557mで、片側2車線で、戸畑区川代2丁目から若松区北浜1丁目の間になります。
 
   
戸畑埠頭の東側を通り、埠頭の東側の根元に行きます。そこから北側の眺めです。左側は戸畑埠頭の東側の岸壁に貨物船が接岸しています。見えませんが手前右側には北に向かって岸壁があります。その先北西に岸壁が伸びています。その部分から新日鐵住金の構内の内浦岸壁で、右遠方に接岸した貨物船や港湾施設が見えます。
   
戸畑埠頭から、埠頭に左折して入って行った海沿いの道の先の方に入って行きますと、先方に川代1丁目交差点が見えます。右は若戸大橋の取付橋梁部で、左は新若戸道路の高架部です。この付近が両者が最接近した部分ですが、左右には連絡はされていません。信号の先に若戸大橋と新若戸道路、若戸トンネルの料金所があります。
川代1丁目交差点左折しますと、飛幡町(とびはたちょう)になり、新日鐵住金八幡製鐵所戸畑地区への飛幡門があります。門を入るとすぐ左に総合センターがあります。八幡製鐵所の事務管理業務が行われていて、1990(平成2)年八幡東区枝光の本事務所から移転して来ました。本事務所は1991(平成3)年解体撤去されました。
 
   
川代1丁目交差点を右折して、若戸大橋の取付橋梁部の南側の道路を渡船渡し場に向かいます。この道路を西鉄電車戸畑線が通っていました。1911(明治44)年九州電気軌道により東本町-黒崎駅前間(北九州本線)が開通しました。その大門と接続して、1912(明治45)年大門-戸畑の戸畑線の全線が開通しました。戸畑電停は渡し場の近くにありました。1929(昭和4)年戸畑線の幸町と北九州本線の中央町と接続して幸町-中央町の枝光線が全線開通しました。1942(昭和17)年九州電気軌道を母体に合併して西鉄になりました。1985(昭和60)年戸畑線、枝光線ともに廃止されました。
信号の左先に北九州身体障害者福祉事業協会の建物がありますが、その位置にかって明治鉱業本社がありました。
安川敬一郎と二男松本健次郎は明治以来筑豊で炭坑経営を行っていました。1908(明治41)年明治鉱業を嘉穂郡頴田村(現在の飯塚市)に設立しました。豊富な資金で1909(明治42)年技術者養成を目的に戸畑町中原に明治専門学校を開校しました。のち国に移管され、戦後は九州工業大学になっています。1919(大正8)年明治鉱業本社をこの地に移しました。木造2階建てでした。1949(昭和24)年本社は東京に移されます。1969(昭和44)年会社は解散します。本社が東京に移転後、建物は福祉施設に利用されますが、1995(平成7)年解体されました。安川敬一郎・松本健次郎父子は明治紡績、安川電機、黒崎窯業等を設立しました。
松本健次郎の居宅は、「北九州のみどころ」の「夜宮公園」をご覧ください。 
渡船渡し場の前を通り過ぎて銀座に入ります。そのまま西に進みますと旧共同漁業ビルがあります。ニッスイ戸畑ビルと呼ばれ、創業100年を記念して、1階に展示施設のニッスイパイオニア館が開設されています。
1929(昭和4)年共同漁業は下関から戸畑の一文字埋立地に移転して来ました。そこはニッスイ戸畑ビルの西側で、漁船が接岸し、建設された工場で加工されました。1936(昭和11)年共同漁業ビルが建設されます。鮎川義介を総帥とする日産コンツェルンにより水産関連会社が統合され、1937(昭和12)年日本水産が発足しました。
共同漁業ビルとして建てられたニッスイ戸畑ビルは鉄筋4階建てで、道路の角が玄関になり左右対称です。屋上の塔屋の上に無線塔が立っています。世界の海に電波を発信していた無線塔は、現在は使われていません。
ニッスイ戸畑ビルの玄関前を東から来て、南に進みます。右手に北九州ニッスイの工場があります。1992(平成4)年より冷凍食品の生産を行っています。共同漁業が一文字埋立地に移転して来て戸畑工場を建設した所です。
1911(明治44)年、田村市郎は田村汽船漁業部を設立します。農商務省から派遣されて欧州でトロール漁業を実地研修した国司浩助を責任者にして、トロール漁業(長い袋網を曳いて大量に魚を捕獲する遠洋漁業)を始めました。1919(大正8)年共同漁業が発足し、トロール事業が拡充されます。さらなる発展の目指して1929(昭和4)年戸畑に移転し、漁業、製氷、冷蔵、冷凍、加工、販売、流通の関連機能が集約されました。共同漁業をはじめ多くの水産関連会社が統合され、1937(昭和12)年日本水産が発足しました。戦中・戦後は困難な時代を過ごしました。
 
戦後、魚肉ソーセージを製造しました。長崎と共に戸畑は以西底引き漁業、トロール漁業、母船式マグロ漁業の一大漁業基地でした。以西漁場では中韓による漁船拿捕があり、アフリカやニュージーランド沖の遠洋トロール漁業に活路を見出しました。1977(昭和52)年米ソ等が200海里漁業専管水域を設定すると、水産会社は事業を縮小し、沿岸国と合弁せざるを得なくなり、日本水産も漁労事業から撤退していきました。現在では総合食品会社を目指して活動しています。
先方にマンションが3棟見えます。戸畑駅のすぐ北の西側です。かっての明治製菓戸畑工場の跡地です。
1906(明治39)年渋沢栄一らによって明治製糖は設立されました。1916(大正5)年汐井崎埋立地に明治製糖戸畑工場は開業しました。1924(大正13)年東京菓子と大正菓子(明治製糖が親会社)が合併して明治製菓が設立されます。1936(昭和11)年明治製糖戸畑工場の隣接地に明治製菓戸畑工場が開業しました。1944(昭和19)年閉鎖した明治製糖戸畑工場を譲り受けて生産しました。戦後明治製菓が多角化する中、戸畑工場は菓子の生産を継続していましたが、2003(平成15)年閉鎖されました。


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