北九州点描

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河伯洞
  若松区白山1丁目16-18  [2014/02/01]
 

河伯洞(かはくどう)は河童の棲家といった意味で、火野葦平の住居でした。一時会社の寮として貸されたりして建物が傷んでいましたが、1997(平成9)年北九州市の文化財に指定され、保存されることになりました。
戸籍に従えば、1907(明治40)年1月、火野葦平は福岡県遠賀郡若松町に生まれました。1914(大正3)年若松町は若松市になります。本名を玉井勝則といい、父と母は彼の小説「花と龍」の主人公である玉井金五郎とマンで、その長男に生まれました。金五郎とマンの間には男3人、女7人の10人の子が生まれました。父金五郎は石炭仲仕(石炭荷役夫、この地方では「ごんぞう」と呼ばれました)の親分として玉井組の看板を掲げていました。

若松尋常小学校(後若松小学校、現在若松中央小学校)に入学し、小倉中学校(現在小倉高校)に進学します。中学校では、最初は剣道や柔道に励みますが、文学に興味を持ち、読書に耽ります。その反面、野球の選手として、捕手で3・4番を打っていました。当時中学校は5年制でしたが、4年生の時に早稲田大学の予科第一高等学院を受験し、合格しました。この年1923(大正12)年9月1日関東大震災がありました。この頃には葦平は作品を書いています。作品を持って出版社を訪ねています。しかし、採用されず童話集を自費出版しました。

1926(大正15)年葦平は早稲田大学英文学部に入学しました。早速同人雑誌を創刊し、執筆と内外作家の作品の読書に明け暮れます。この年の暮れ昭和と改元されました。翌年詩の同人雑誌を創刊します。1928(昭和3)年2月、早稲田を休学して、福岡の歩兵24連隊に幹部候補生として入営します。この制度は、1年後の除隊時に、大学出は曹長として見習士官になれるものでした。レーニンの訳本を隠し持って入営し、読んでいるのが見つかり、大事にはなりませんでしたが、軍曹になっていたのが、除隊時には伍長に戻されました。除隊してみると、父金五郎は早大に休学届でなく、退学届を出していました。葦平に玉井組を継いでもらいたいと思っていました。

玉井組は、石炭を陸から船への積み込みをする労働者、沖仲仕を差配する組織でしたので、葦平は労働問題には早くから関心がありました。退学はいい機会で、労働運動に没頭できると思ったようです。1930(昭和5)年芸者徳弥、日野徳七の養女良子と恋仲になりますが、双方の親は反対しました。良子は妊娠し、反対を押し切って駆け落ち、その果てにこっそりと挙式しました。葦平は23歳でした。

筑豊から若松に運ばれた石炭は、人力で荷役が行われましたが、若松港が整備され、大型船が入港するようになると、直接船に積み込む荷役設備が建設されるようになりました。1931(昭和6)年若松港沖仲仕労働組合が結成され、葦平はその書記長に就任しています。父金五郎は若松港汽船積小頭組合長をしていました。大手の三井・三菱・麻生・住友・古河や中小の炭鉱主らの石炭商同業組合に対して、二つの組合は失業に対する転業資金を要求しました。資本側に要求は容れられず、二つの組合はゼネストに突入し、洞海湾の荷役は止まりました。この後仲裁が入って、転業資金が払われますが、その分配を巡って子分の沖仲仕側は親分の小頭側に対してストライキを起こしました。葦平は小頭の立場にありました。この年満州事変が勃発します。

ゼネストの際、葦平は密かに日本共産党傘下の日本労働組合全国協議会(全協)と連絡を取っていました。この頃共産党は全国的に検挙されていました。1932(昭和7)年葦平は特高に捕らえられ、若松署に連行されます。妹婿の中村勉も検挙されていました。中村勉は、パキスタン・アフガニスタンで医療・水源確保・農業の支援活動を行っているペシャワール会の中村哲医師の父です。後中村勉は転向し、実刑を受けることはありませんでした。葦平はストライク当時から共産主義に疑問を持っていました。全協との関係は隠しおおせ、釈放されました。葦平は転向し、文学に戻りました。検挙された日本共産党の幹部達は、獄中で次々と転向しました。

小倉で発行されていた詩の同人誌「とらんしつと」に参加しました。同人に劉寒吉、岩下俊作、星野順一等がいました。この後ペンネームに火野葦平を使います。福岡で発行され、中村勉が同人であった「九州文化」に参加し、さらに原田種夫が同人であった「九州芸術」に参加し、久留米の「文学会議」にも参加します。1937(昭和12)年7月7日廬溝橋で支邦事変が勃発します。この後終戦までの日中戦争が続きます。9月葦平は伍長として応召され、小倉の114連隊に入営し、分隊長を命じられます。葦平が入隊した上部部隊は18師団で菊兵団と呼ばれました。門司港から出発し、杭州湾で敵前上陸し、南京攻略戦に参加し、南京陥落後、南京に入城しました。その後、杭州攻略に出て、杭州に入城して駐屯します。

1938(昭和13)年3月、「文学会議」に発表した「糞尿譚」が第6回芥川賞に選考され、小林秀雄が杭州に派遣されて、戦地での受賞式になりました。葦平31歳でした。4月馬淵逸雄中佐の斡旋で、葦平は中支派遣軍報道部に転属し、徐州会戦に従軍しました。この後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」のいわゆる兵隊三部作を執筆します。この頃には原隊に復帰し、広東(カントン)作戦に従軍し、広東に駐留します。翌年には海南島作戦、仙頭(スワトウ)作戦に従軍します。11月現地除隊になり、12月帰国しました。帰国後は文学賞を授与し、多くの作品を発表し、刊行されました。1941(昭和16)年12月8日太平洋戦争が勃発します。

翌1947(昭和17)年2月葦平を含む数人が集められ、3月フィリピンに向かいます。ジャワやマレーなどにも南方各地派遣軍の宣伝隊として文筆家が派遣されていました。フィリピンには、既に尾崎士郎、石坂洋次郎、今日出海等が派遣されていました。バターン作戦に従軍し、その従軍記を書きました。この後のコレヒドール島攻撃で、マッカーサー将軍は島を脱出します。12月葦平は帰国し、任を解かれました。しかし、この年、国家総動員法による個人企業整備で、玉井組は解散されました。翌年、日本文学報国会が結成され、葦平はその九州支部幹事長に委嘱されました。

1944(昭和19)年3月、インパール作戦が開始されます。報道班員として葦平は、画家の向井潤吉、作曲家の古関裕而とともに従軍します。4月ビルマのラングーンに入り、インパール戦線、雲南、フーコンを廻って9月帰国しました。インパール作戦は、8万余の兵力が投入され、7万余を失うという悲劇的結果に終わりました。12月にはフィリピン従軍を命じられました。翌1945(昭和20)年1月出発予定でしたが、フィリピン戦線の状況は悪化し、中止になりました。6月沖縄が陥落し、本土への空襲が激しくなりました。7月西部軍報道部が結成され、葦平は嘱託になります。東京からや地元九州の文筆家が集められ、米軍が上陸作戦を行うと思われる九州を第一線とする、宣伝報道の体制を整えました。しかし、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦し、8月15日終戦になりました。

1946(昭和21)年「九州文学」が復刊し、河童短編を発表したり、同年から翌昭和22年まで中央の出版社から多くの原稿の依頼がありました。1948(昭和23)年5月尾崎士郎、林房雄等とともに、葦平は公職追放を受けました。しかし、その後も作品の刊行は行われます。翌昭和23年、九州と東京との往復が頻繁となり、東京の拠点として、大田区池上の住宅の2階部分に「鈍魚庵」を設けました。昭和24年10月追放は解除されます。新聞連載、放送、映画、芝居、ラジオなどの制約がなくなりました。昭和25年父金五郎が亡くなりました。昭和27年「花と龍」の新聞連載を始めます。1953(昭和28)年杉並区阿佐ヶ谷に「鈍魚庵」を移転新築しました。5月ヨーロッパに旅立ち、エリザベス女王の戴冠式を見て、アイルランドでの国際ペンダブリン大会に出席しました。「花と龍」の単行本や戦後初の兵隊三部作の文庫本が刊行されました。

1954(昭和29)年米軍占領下の沖縄を訪れます。沖縄返還は1972(昭和47)年まで待たなければなりません。昭和30年インドニューデリーでのアジア諸国会議に出席し、その後、香港から中国に入り、北朝鮮にも行きます。執筆、講演旅行の繁忙な歳月を過ごします。1959(昭和34)年雑誌に「革命前夜」を発表します。この作品は終戦前後を描いたものです。この年、今上天皇と皇后陛下が御結婚されました。翌1960(和35)年1月24日、河伯洞の書斎で、睡眠薬で自殺した葦平が発見されます。享年53歳でした。病死と発表され、自殺だったことは伏せられました。葦平の13回忌に遺族から自殺が発表され、世間に衝撃を与えました。「革命前夜」の発表の直後で、戦争が関係したのか。この年は60年安保の年で、社会が騒然としていました。葦平には将来に心配な持病はなかったのか。その理由ははっきりしません。

火野葦平は、故郷若松を拠点に作家活動を行いました。必要に応じて東京との間を往復しました。葦平は河童を愛しました。高塔山の河童封じの地蔵尊を題材にした小説を書き、高塔山を目指すたいまつ行列の火まつり行事を発案し、若松みなと祭りで唄われる「若松五平太ばやし」を作詞しました。葦平は郷土を愛する作家でした。
JR若松駅の前に若松市民会館があります。その建物左側の若松生涯学習センター1階に、火野葦平資料館があります。入口左、表のガラス越しに川ひらた(五平太船)を見ることができます。1976(昭和51)年川ひらた最後の船匠中西吉兵衛によって製作されました。長さ15m、幅2.5m、高さ1.5m、積載量6トンの大型のものです。
若松市民会館の東側に中川通りが通っています。7月の若松みなと祭りでは、五平太船を模した山車(だし)が練り歩き、木樽の樽太鼓を打ち鳴らし、五平太ばやしが唄われます。「若松五平太ばやし」を作詞したのは葦平です。
火野葦平資料館です。資料館には、河伯洞の書斎で葦平が使ったものが、生前の通りに再現されています。また、原稿や手紙、葦平が好んで描いた河童の絵やその他の資料が展示されています。
   
若松市民会館の前、国道495号線を挟んだ若松駅の駐車場から南側の眺めです。若松駅の南の久岐の浜広場で、若松みなと祭りの最終日の夕方かっぱ祭りが行われ、火野葦平の発案で始まった火まつり行事が行われます。たいまつ行列が河童封じ地蔵尊がある高塔山山頂に向かいます。
若松駅前交差点で、国道495号線が国道199号線に合流します。交差点を北に行けば若戸大橋です。西に行くと、国道199号線の若松駅西交差点です。駅西交差点から北の眺めです。河伯洞の案内が見えます。そこを左に入って行くと、突き当りに山手通りが通っています。そこは左方向の一方通行の通りです。左折すると、変則的な四つ角の手前左に河伯洞はあります。通りを挟んだ反対側に駐車場があります。  
   
河伯洞は、葦平の父で、「花と龍」の主人公である玉井金五郎が、葦平の小説の印税で、葦平が出征中に、葦平の住居として建てました。
玄関には、火野葦平の本名、玉井勝則の表札がかかっています。戦地の戦友達を思って、葦平はこの建物の建築には反対だったようです。1940(昭和15)年竣工しました。玄関を入ると、真っ直ぐ廊下が伸びています。右手は庭で、左手に座敷があります。廊下は桜で、天井は屋久杉が使われています。 
   
庭の灯籠の近くに河童がいて、右の石の上には蛙がいます。出征した兵隊がカエル(帰る)という縁担ぎがあったようです。  
   
河伯洞の座敷で、ここで行われた新年会や映画のロケ隊歓迎の宴会の写真は、この座敷で撮られています。
座敷には、クロガキの欄間に河童の進軍が彫られています。
座敷がある母屋の先は、廊下が狭くなってモルタル2階建てが増築されています。その1階に河童を題材にした鉄工芸家、中原弘の作品が展示されています。その中の一つ、沖仲仕(ごんぞう)達が石炭を船に積み込む作業が、鉄の河童達で描かれています。
   
増築された2階に葦平の書斎はあります。1960(昭和35)年1月24日、葦平はこの書斎で自殺します。作品を生み出した机をはじめ、書斎に置かれていたものは、火野葦平資料館に展示されています。  
   
葦平が埋葬されている玉井家の墓は、近くの安養寺にあります。河伯洞の前の山手通りを先に行くと、右手に正保寺公園があり、その前に日本キリスト教団若松教会があり、その先を左折して、坂道を上ります。坂道の上に安養寺があります。
   
安養寺の門を入ると、右手に「大庭隠岐守景種之碑」があります。黒田家当主の黒田長成(ながしげ)の書ですが、景種が種景になっています。ここは高塔山の麓になりますが、そこには中世高塔山城が築かれていたといわれます。城は中世この地を治めていた麻生氏の出城であったといわれています。その城主が大庭隠岐守景種です。安養寺は、1558(永禄元年)に大庭隠岐守景種によって創建された浄土宗のお寺です。かって白山1丁目に若松病院があり、その裏手に安養寺はありましたが、若戸大橋の架橋により、この地に遷されました。  
   
安養寺の境内には河童の像があり、その横には葦平の直筆の言葉と、河童の絵が描かれた「三禁の碑」が立っています。そしてその先に、傾斜を利用した手入れの良い庭園があります。
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庭園の前に本堂があり、その前を通り過ぎた先に墓地があります。
   
墓地の中に玉井家の墓があります。父金五郎が1927(昭和2)年に建立しました。当時早稲田大学生であった長男勝則(葦平)の名も刻まれています。1月には葦平忌が高塔山山頂下の火野葦平文学碑前で行われます。
若松みなと祭りについては、「北九州の催事」の「若松みなと祭り」を、河童封じの地蔵尊や火野葦平文学碑については、「北九州のみどころ」の「高塔山公園」を、若松が石炭積出港として繁栄した時代については、「北九州のみどころ」の「若松南海岸」をご覧ください。
 


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