北九州点描

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江川
  若松区・八幡西区、遠賀郡水巻町・芦屋町  [2010/11/06]
 

江川(えがわ)は、北九州市若松区と八幡西区の境界の洞海湾奥と、遠賀郡芦屋町の遠賀川河口を結ぶ河川です。江川の東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川の河口に合流し、遠賀川は響灘に注ぎます。そのため川の流れは、二つの海の潮の干満に影響されます。
江川は、古くから舟運に使われました。神功皇后が洞海湾から江川を通って、芦屋に着いたことが伝えられています。時代は下って、豊臣秀吉も神功皇后に倣って、肥前名護屋に行く際、江川を通って芦屋に着いています。古代、都から大宰府に下る際、陸路も使いましたが、洞海(くきのうみ)を渡り、江川を通って島門(しまど、現在の遠賀町島津)に上陸して大宰府を目指しました。若松区や芦屋町の北側の外海の響灘は波が荒いため、内海の洞海湾と江川の利用ははるかに安全でした。洞海、いわゆる洞海湾(どうかいわん)は、東西に細長いその形状から洞穴が連想されて名が付いたといわれています。湾内の水深は浅く、現在の数倍の水面面積を擁していたと思われます。古い時代、江川の洞海湾側は、現在の河口から上流に遡った部分まで洞海湾の入江でした。当時の遠賀川の河口部は入海になっていて、江川の遠賀川河口側は、現在の河口から曲川との合流点の上流まで遡った所が入海の入江になっていて、そこに江川は流れ込みました。これらのことから江川と呼ばれました。
洞海湾が変容するに従い、江川も変容していきました。それは、江戸時代以来、洞海湾に流れ込む河口付近は新田・塩田として開発されました。現在の洞海湾に近い江川流域も埋め立てられました。洞海湾岸の埋立ては進められ、明治になると、大規模な浚渫と埋め立て工事が行われ、官営八幡製鐵所が建設されると、湾岸に北九州工業地帯が形成されました。エネルギーの主原料になった石炭の輸送に、川ひらた(ひらたは舟に帯、別名五平太船)を使って、遠賀川から江川を通って、洞海湾を渡って若松に運びました。しかし、鉄道が開通し、輸送の近代化が進むにつれ、江川の舟運は利用されなくなりました。
江川は北九州市若松区に接している距離が一番長いので、「北九州点描」の中では若松区に分類します。洞海湾から遠賀川河口に向かい、架かっている橋をすべて当たり、江川を紹介します。
県道279号本城・熊手線の本城東1丁目交差点から二島工業団地に到る道路に入って行きます。左手に洞北緑地があり、駐車場があります。その先に江川に架かる奥洞海橋があります。
奥洞海橋から洞海湾方向の眺めです。右は八幡西区本城の洞北緑地、その先は洞北町です。左は若松区二島の二島工業団地で、両岸とも埋立地です。二島は、埋め立て前に、洞海湾に二子島があったため、その名が付けられました。
奥洞海橋から遠賀川方向です。奥洞海橋の横にJR若松線の橋があり、その先の右手は若松区二島、左手は八幡西区御開(おひらき)です。御開は福岡藩による新田開発で埋め立てられた土地です。右手の建物は、日本板硝子若松工場の跡地に建てられた、イオン若松ショッピングセンターです。その前の栄橋は現在架け替え工事中で、仮橋が架けられています。
二島工業団地の途中で左折して、JR若松線の踏切を越え、東二島3丁目交差点を左折して国道199号線を西に進みます。イオン若松ショッピングセンターの横の二島1丁目交差点を左折して進むと、栄橋に出ます。
栄橋から次の江川大橋の眺めです。栄橋には国道199号線の旧道が、江川大橋にはその折尾バイパスが通っています。江川大橋を左手に行くと、鴨生田(かもうだ)交差点になります。その北西角に若松区役所島郷(しまごう)出張所があります。
島郷は、古くは村名にも使われた地名ですが、この一帯は古くは湾内で、若松半島が島に見えたので、特に若松の西側を島郷と呼びました。
二島1丁目交差点に戻り、国道199号線を西に進みます。鴨生田交差点を左折し、江川大橋を渡った先を右折し、ショッピングセンターの鮮ど市場の横を西に進みます。御開公民館の案内がある所を右折した先に、御開橋が架かっています。公民館の案内があった元の道に戻り、更に西に進みます。道は江川沿いになります。右手に江川が流れています。先方に新払川橋が見えます。
新払川橋は、この左手に、新たに開発された北九州学術・研究都市内に建設された道路に架けられました。このいわゆる学研都市は、若松区の塩屋・小敷、一部八幡西区本城の丘陵地を開発してつくられています。江川は、川幅を広げ、水に親しむように整備されています。現在この付近から小敷辺りまで工事が進められています。
学研都市については、「北九州点描」の「学研都市ひびきの」をご覧ください。
新払川橋まで出て、右折できませんので、左折して信号でUターンし、新払川橋を渡った先で、江川沿いの細い道を進むと、払川橋があります。そこを右折し、県道26号北九州・芦屋線の払川交差点を直進します。交差点と洞北中学校の中間の右手に洞北土地改良区記念碑があり、その奥に魚鳥池(ぎょちょういけ)の石碑が立っています。その奥に井戸があります。
熊襲を平定するため仲哀天皇と神功皇后は西下します。仲哀天皇は響灘を行きます。神功皇后は洞海に入って行きます。干潮のため船は身動きが取れなくなります。崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が迎えにやって来ますが、この様子を見て、恐れおののき、皇后の怒りを鎮めようとします。近くの清水が湧き出る所に案内し、熊鰐は干潟に魚と鳥の池、魚鳥池をつくり、魚と鳥を集めました。これを眺めた神功皇后は気分を直しました。後、この池を石を組んで井戸にしました。
先の洞北中学校の手前に四つ角がありますが、そこを左折し、道成りに進むと右手に鳥居があり、石段を昇ると魚鳥池神社の社殿があります。鳥居の前の田圃の中に石碑が立っています。松方正義の筆による魚鳥池之碑です。
1685(貞享2)〜1688(元禄元)年、蜑住(あまずみ)から竹並の洞海湾岸が埋め立てられ、払川の土地ができました。
払川交差点に戻り、右折して県道26号北九州・芦屋線を西に行きます。塩屋(しおや)入口交差点を左折すると、塩屋橋があります。県道と江川の間に並行して道路があります。そこを進みます。
ここの先で、この道は県道に合流します。前方に見える建物は、県道横の高台にある福岡障害者職業能力開発校です。県道を境に北が蜑住で、南が塩屋で、ともに海に因んだ地名になっています。
塩屋は、海辺で塩を焼いてつくっていたので、この名が付いたといわれています。蜑住は、この辺りに海で生活する海人達が住んでいたので、海人住、海士住とも書かれていたといわれています。
左は県道26号北九州・芦屋線です。県道の大鳥居交差点の正ノ江(しょうのえ)橋は左側にある江川に注ぐ坂井川に架かっています。坂井川は蜑住と大鳥居の間を流れていますので、その境とのことでその名が付いています。先に戸明(とあけ)神社のある小山が見えます。戸明神社は蜑住に本宮があり、天照大神が隠れた天の岩戸を開いた天手力雄神(あまのたぢからお)を祀っています。ここから分霊された戸明神社が、現在ここの大鳥居(おおとりい)の他、安屋(あんや)・有毛(ありげ)・乙丸(おとまる)・高須にあり、若松の西側に点在します。戸明神社のある小山と坂井川、江川に囲まれたこの地は、大字大鳥居の小字で正の江といいます。平安時代、ここに庄家(しょうげ)があり、庄の家が転化して正の江になったと思われます。庄家とは、荘園領主が任じた荘官が荘園管理を行った建物でした。
坂井川を右手、北に行った先に有毛があります。有毛は在家が転化したものといわれています。在家(ざいけ)は荘園内の農民の集落をいいますが、有毛は山鹿荘の有力な集落だったので、この名が付けられたと思われます。有毛の芦屋町との境界近くの海岸に、戦国時代の初め頃まで戸明神社の本宮があったといわれています。
大鳥居交差点の横の江川に架かっているのが汐分(しおわけ)橋です。汐分というのは、この付近が洞海湾と遠賀川の汐が干満でぶつかったり、分かれたりする場所になります。左は若戸病院の建物で、その右にこんもりした木立があり、そこに地蔵菩薩のお堂がありましたが、江川の拡幅工事でなくなっています。先方に学研都市開発により建設された道路に架けられた汐分大橋があります。
この付近江川の北側は大鳥居、南は小敷(こしき)です。中世、麻生氏が小竹(おだけ)に白山神社を建立の際、大鳥居に大きな鳥居を建てたといわれています。もうひとつは、かって大鳥居の戸明神社は有毛の海岸にあった戸明神社の遙拝所で、そこに鳥居を建てたといわれています。
祭礼の際、竈(かまど)に甑(こしき、蒸し器)をかけて、神に捧げる酒食を調理しましたが、小敷は甑が転化したと思われます。
大鳥居交差点から県道26号北九州・芦屋線を西に進みますと、次の交差点が大鳥居西交差点です。そこを左折しますと、汐分大橋が架かっています。
県道26号北九州・芦屋線を更に西に進みますと、小敷橋交差点の手前を左に入ると、小敷橋が架かっています。
小敷橋交差点に戻り、県道26号北九州・芦屋線から離れて、交差点から左に入って行く江川沿いの道を進みます。この先は高須です。江川に注ぐ小川があり、太閤水橋が架かっています。そこから川沿いに江川に進みます。江川に太閤橋が架かっています。太閤橋から遠賀川方向の左手に藤棚があります。中央の掲示板の所です。そこが太閤水の地名の元になった井戸があります。
1592(文禄元)年、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣しました。秀吉は江川を通った折、小敷で村人に井戸を掘らせて、飲み水を補充しました。その井戸が江川の畔のこの藤棚の下にあります。現在は、地下を通る炭鉱の坑道によって、井戸水は枯れています。
入って来た太閤水橋まで戻り、道を西に進みます。先方にポンプ場の建物が見えますが、その手前に高須橋が架かっています。
更に進みますと、先方に浅川橋が見えてきました。橋の所の交差点を右に進みますと、商店やスーパーがある高須の中心になります。川の左手は浅川です。浅川は沿岸の田地の開墾が進んだため、この付近の川は浅くなったとして名付けられました。
江戸時代、米をはじめ物資の舟運に利用された江川は、遠賀郡の農民を動員して、年1回の川ざらえが行われました。遠賀川を下った川ひらた(五平太船)は江川を通り、洞海湾を経て若松に着きました。
浅川橋のすぐ先で、宿ノ内川が江川に合流します。その先の江川に宿ノ内橋が架かっています。その先は江川に沿って、このように道が曲がりくねっています。右の高台が高須で、左は三ッ頭です。三ツ頭(みつがしら)は江川・曲川が合流した所に、遠賀川から満潮の潮流が川を遡り、三つの流れがぶつかる様子からつけられた地名です。
この先方に三ッ頭橋が架かっています。
三ッ頭橋の先を進むと、この向田橋になります。この橋の上が県道26号北九州・芦屋線と県道202号水巻・芦屋線、そしてこの道が交差する向田橋交差点です。
江戸時代以前、遠賀川の本流は現在の曲川の下流を流れ、この付近の入海になっていた河口部に流れ込みました。江川は直接その河口部に流れ込みました。江戸時代の初め、福岡藩主黒田長政は遠賀川の改修に力を注ぎました。洪水の多かった遠賀川の下流では、本流の西側の猪熊と島津の間を開削して、流れを分流しようとしましたが、思ったほど効果はありませんでした。1744〜50(延享元〜寛延3)年、遠賀川の下流の大工事が行われました。もう少し上流で本流を堰き止め、下流を直線にして、開削した西側を本流にしました。前の本流の下流を曲川につなぎました。そして、江川は曲川につながれ、合流した流れが遠賀川に流れるようになりました。この結果、海水の流れが阻害され、江川は次第に土砂が堆積し、狭くそして浅くなりました。
向田橋交差点から県道202号水巻・芦屋線を北に進みます。
向田橋交差点から県道202号水巻・芦屋線を北に行くと、江川橋があります。江川橋の先の眺めです。先の方で曲川が合流します。
江川橋を渡ると鯨瀬排水機場があり、その先の曲川に鯨瀬橋が架かっています。
県道202号水巻・芦屋線を北に行くと、すぐに芦屋町に入ります。右手に3階建ての集合住宅がある手前に、江川自転車道橋が架かっています。人と自転車だけが通行可能な橋です。江川自転車道橋からの眺めです。
江川の右手が芦屋町大君で、左手の土手の左側が遠賀川です。土手の先に見える山が山鹿城跡の城山です。1183(寿永2)年7月、源氏の攻勢により、平氏は都落ちします。8月には平氏は大宰府に入ります。しかし、ここも攻撃され、10月には大宰府を出て、山鹿城に入りました。その時の行宮が大君にあったといわれ、大君という地名もこのことに由来するといわれています。
県道202号水巻・芦屋線を更に北に行くと、道路横に江川河畔公園があります。そこからの眺めです。手前が江川で、先の遠賀川河口近くに合流します。
右に見えるのは山鹿城跡の城山です。源平の合戦の時、城主山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうとうじひでとう)は、平家とともに滅亡しました。その後、関東から西下した宇都宮氏、後の山鹿氏の居城となりました。その山鹿氏は、後、庶流の麻生氏が主流となりました。豊臣秀吉によって、麻生氏は筑後に国替えになり、中世の終焉とともに山鹿城は廃城になりました。
正面が遠賀川の西岸の芦屋町の市街地です。


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