北九州点描

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菖蒲谷池
  若松区小石  [2014/11/08]
 

石炭積出港として発展してきた若松には、水源地がありませんでした。飲料水の確保には苦労し、小石の菖蒲谷に菖蒲谷貯水池を1921(大正10)年に着工し、1925(大正14)年完成しました。菖蒲谷貯水池を菖蒲谷池と呼び、その周辺部は自然公園として整備されています。

洞海湾沿岸の若松市街地を見下ろす高塔山には、中世北九州の西半分を領有していた麻生氏の端城高塔山城があり、城主は大庭隠岐守景種であったと伝えられています。菖蒲谷には大庭隠岐守の別館があり、菖蒲谷南側山中の二重の石垣は、その跡と伝えられています。響灘に面し、石峰山の北東は小石と呼ばれました。海岸に小石が多かったのためと伝えられています。近代になって若松は発展しますが、近世まで集落が点在する地域でした。地名を紹介しますと、現在の若松恵比須神社の付近が若松で、その北側は海岸でしたが、近代になって埋め立てられました。現在の若松区の東半分の中央には石峰山の連山が連なっています。高塔山が東の端になります。かっての若松の西で、現在の若松駅や高塔山を含む山の南側が修多羅(すたら)で、山の北側が小石です。山の南側で修多羅の西隣は藤ノ木、山の北側で小石の西隣は小竹(おだけ)でした。

古くは、小石に入江はなく、農業が中心でしたが、海風による塩害が多かったといわれています。その中では菖蒲谷は農耕に適した土地でした。1662(寛文2)年、福岡藩が菖蒲谷に土手を築き、新田開作を行いました。1764(明和元)年洪水で菖蒲谷の田地が崩れたので、郡夫役で修復工事が行われました。1798(寛政10)年牛馬牧が設置されました。場所は小石と小竹の境界にある標高181.1m灘辺山の小石の本村から小竹の椿の間の北面でした。しかしその仕組は失敗し、1818(文政元)年には終了しました。この牛馬牧仕組は再開され、小石村では灘辺山から菖蒲谷を隔てた菖蒲谷堤上、南側の傾斜地に牛馬牧が1864(文久4)年再開されました。そこでは現在でも堀溝の遺構を見ることができます。菖蒲谷の牛馬牧は明治期まで存続しました。

江戸時代から1889(明治22)年まで小石村でしたが、1889(明治22)年小石・修多羅・藤ノ木村と二島村の本村が合併して石峰村になりました。1906(明治39)年石峰村は若松町と合併して若松町になりました。嘉麻・穂波・鞍手・遠賀の筑前の四郡と田川の豊前の一郡、いわゆる筑豊の石炭は若松に運ばれました。1914(大正3)年若松町は若松市になりました。この年の人口は36,915人でした。1889(明治22)年の若松村の人口は2,764人でした。この年第一次世界大戦が勃発しました。この大戦は欧州が戦場であったため、我国の重工業は発展し、石炭の需要も増加し、北九州工業地帯も発展しました。

1912(明治45)年若松町を全面給水を始めました。それまで、山手の井戸で飲料水を、船舶は対岸の牧山の井戸に頼っていました。1910(明治43)年八幡製鐵所は、拡張計画に基づき遠賀川に用水の水源を求めました。若松町は若松築港、九州鉄道と共に八幡製鐵所に遠賀川からの原水の分与を申し入れました。八幡町の製鐵所鬼ケ原貯水池からの分水を戸畑町牧山山頂近くに築いた浄水池に導水し、浄水した水を洞海湾の海底を横断して若松町に配水しました。しかし、貯水池を持たないため、導水管の途中で陥没事故にあい度々断水しました。このため牧山浄水場に隣接して貯水池を建設しました。1915(大正4)年牧山貯水池の堤防が決壊し、隣の旭硝子の工場に流れ込み多大な損害を与えました。

貯水池の決壊もあり、配水本管が船舶の往来が激しい洞海湾の海底を通っていることなどから、若松市の水道には当初から不安がありました。若松市内に貯水池と浄水場を建設することを計画しました。1921(大正10)年菖蒲谷に貯水池を、畑谷に浄水場を着工し、牧山貯水池の規模を縮小しました。1925(大正14)年菖蒲谷貯水池、畑谷浄水場が完成しました。菖蒲谷貯水池は土堰堤(アースダム)で、有効水深15.2m、堰堤長143mでした。

小石の海岸線は埋立てられて工場用地となり、陸地は昭和10年頃から区画整理が行われ、宅地化されました。小石の小石本村や赤崎の北側は海岸でした。かっての小石に多くの新しい街ができ、昭和30年から60年にかけて、現在の多くの町名が付けられました。それ以降も響灘は埋め立てられました。北九州市の浄水・送水・配水の系統の統廃合が行われ、牧山浄水場は1966(昭和41)年に廃止になり、畑谷浄水場は1967(昭和42)年に廃止になりました。その結果1967(昭和42)年より菖蒲谷貯水池の水は工業用水として供給されることになりました。
中川通りを通って中川町交差点から北西の小石方面に向かい、栄盛川町(えいせいがわまち)交差点を左折します。小糸町交差点を過ぎて、道路が右にカーブし上り坂になる所の左に、菖蒲谷池公園キャンプ場の案内板が出ています。そこを左折しますと、すぐ右にまた菖蒲谷池公園キャンプ場の案内板が出ていますが、のちほど右折して行くとして、まずは直進します。そこから先は、車は一方通行になります。先に5階建ての日立金属の社宅2棟が見えます。突き当りを左折し、次を右折して、社宅の南側の道を進みますと、公園になります。遊具などのある広場があります。その先は菖蒲谷貯水池の堰堤です。左端を昇って行きますと堰堤上に出ます。
堰堤からの眺めです。左手の5階建て2棟は日立金属の社宅です。中央の屋並は中畑町です。中央上の体育館があるのは、若松高校(上原町)です。
1925(大正14)年、旧若松市によって菖蒲谷貯水池は完成されました。
菖蒲谷貯水池一帯とその南側は菖蒲谷池自然公園になっています。菖蒲谷貯水池からは石峰山が見えます。
車では、二つ目の菖蒲谷池公園キャンプ場の案内板から右折して、左の谷間にある堰堤を眺めながら奥に進みます。車一台の幅員の道を進みますと、菖蒲谷池公園キャンプ場の案内板がある分れ道に出ますので、案内に従いキャンプ場のある左の道を下りて行きます。堰堤上の道に出てきました。菖蒲谷貯水池は上と下の二つの貯水池からなっています。先程の下の貯水池の奥が下に見えます。
   
上の貯水池の堰堤上の道です。向うの左手に菖蒲谷池公園キャンプ場はあります。堰堤の下が駐車場になっています。

上の貯水池です。二つの貯水池をあわせて、菖蒲谷池と呼びます。奥の山は石峰山です。  
   
上の貯水池の堰堤上の道の奥の左手が菖蒲谷池公園キャンプ場です。堰堤の下に駐車場があり、そこから上の方にキャンプ場が整備されています。

キャンプ場の申込先 
 若松生涯学習センター 
  若松区本町3丁目13-1
  751-8683
   
上の貯水池の堰堤上の道の奥の左手は菖蒲谷池公園キャンプ場ですが、右手に林の中に入り、人一人が通れる程の山道があります。貯水池沿いに林の中を奥に進みます。この山道を登って行くと、石峰山を通る玄海遊歩道に出ます。
途中から右手下、7~8m程度の斜面を下ります。道も目印もありません。斜面の下を少し水が流れています。反対側の2m程度の斜面を登って林の中に入って行くと、この石垣があります。大庭隠岐守景種の別館跡の石垣と思われます。
 
   
石垣の上に行くと、もう一列石垣がありますが、竹が密集していて暗くてよく見えませんでした。大庭隠岐守景種は高塔山城の城主であったといわれています。1599(慶長4)年、大庭隠岐守景種は若松で亡くなり、その墓は高塔山の麓の安養寺(山手町)にあります。
大庭隠岐守景種については、「北九州点描」の「河伯洞」をご覧ください。
   
山道に戻り、更に登って行くと玄海遊歩道に出ます。玄海遊歩道は高塔山を起点して、石峰山を登り、頓田貯水池を通ってグリーンパークに到る遊歩道です。
玄海遊歩道に出る手前の山道の左手の一段高い所にこのような溝状のものがあります。幕末から明治維新にかけて設けられた菖蒲谷牛馬牧の堀溝の遺構と思われます。玄海遊歩道に出ました。そこの堀溝跡です。
 
   
玄海遊歩道に出ました。高塔山からの玄海遊歩道は東から西に進み、高塔山墓苑を通り、NTT無線中継所の手前から林に入り、高圧線の鉄塔まで登り道で、そこから菖蒲谷からの道との交差点のここまで下り道です。玄海遊歩道はここから石峰山に登って行きます。
堀溝跡は山道沿いに玄海遊歩道まで北から南に進み、玄海遊歩道の北側を遊歩道沿いに西から東に高圧線の鉄塔まで続いています。
高塔山からの石峰山の玄海遊歩道については、「北九州点描」の「石峰山」をご覧ください。
   
菖蒲谷公園に入って来た通りまで戻り左折します。坂道の先すぐの右手に、小石観音寺があります。寺は火事で焼失していましたが、2004(平成16)年に再建されています。これが本堂で、左に不動堂、右に三仏堂があります。
このお寺は、壇ノ浦の源平の戦いの後、平家の部将が一族の追悼のため、念持仏を響灘が望める高台に安置した庵が始まりといわれています。以来、船人の海上安全の信仰を集め、この地に移されました。
 
   
小石観音寺の不動堂です。現在小石観音寺は、無事出産祈願の子安観音として、多くの参詣があります。
   
小石観音寺前のバス通りの坂を上りますと、すぐに下りになり、下りきった所から道は左カーブして坂をまた上って行き、その頂上付近から道は右にカーブしますが、その下りかけの左の電柱に仙凡荘の案内があります。その案内に従って、左に入って行きます。車一台の幅員の道を山手に入って行きますと、仙凡荘趾の石碑が立っている所に出ます。石碑の奥は駐車場になっています。呰(あざ)貞雄夫妻が、この辺一帯に梅をはじめ花木を植えました。自然を生かした美観に仙人も凡人も我を忘れて遊ぶということで、仙凡荘と名付け、一般市民に開放されていました。  
   
早春には紅白の梅の花が咲きます。夫妻が亡くなられた後は梅園は荒れていたようですが、仙凡荘友の会が組織され、結婚や何かの記念に植樹されています。管理は造園業者が行い、駐車場から山手の梅園は、名札が付けられ、たくさんの若木が植えられています。


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