北九州点描

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小竹
  若松区  [2011/10/22]
 

 
小竹(おだけ)の標高171mの白山は、小さな山という意味の小岳と呼んでいたのが、のち竹が密生していたので小竹になったといわれています。中世麻生氏がこの地を治めた時に、白山権現を勧請し白山神社を創建したため、小岳は白山と呼ばれるようになりました。江戸時代になって、二島村から分村して小竹村となりました。村内に脇ノ浦があり、沖合の好漁場の白島は、隣村安屋村脇田浦との双方の領有でした。
1889(明治22)年遠賀郡洞北村の一部となり、1908(明治41)年島郷村になり、1931(昭和6)年には若松市になりました。  
 二島から北西に向かって小山・丘陵地が続いています。その西側を県道177号頓田・二島線が通り、南の国道199号線と、北の国道495号線をつなぎます。
頓田貯水池の畔にある花房小学校が見えてきました。内小竹の信号と花房小学校前の信号の間で、県道を右折し山手に上って行きます。高圧電線の鉄塔が立っているのが白山です。
   
左手に白山神社の鳥居が立っています。鳥居をくぐるとすぐにクロガネモチの大木があります。しばらく行くと竹林になります。300mも歩かないうちに、本殿下の石段に行き着きます。
鳥居の前の道路を上って行きます。右手に標高194mの弥勒山が見えます。右手に児童福祉施設の暁の鐘学園への入口があります。そこを過ぎるとハザマ峠に到ります。小竹は、白山を中心に北西に伸びる丘陵地の南西側の内陸部が内小竹(うちおだけ)、北東側の臨海部が外小竹(そとおだけ)に分かれます。ハザマ峠の先は外小竹です。
県道177号頓田・二島線に戻ります。
   
県道177号頓田・二島線の花房小学校前交差点を右折します。小道が交差する個所を右折し、その先を左折し、道なりに山手に上って行きます。直進と右折の所で、車が離合できない程に道が狭くなりますので、その先は歩いて行きます。
アスファルト舗装の道を登って、森に入って行くと、右手に石垣があります。その奥に島郷八十八箇所の札所のお堂があります。その手前に、若松市時代に立てられた朝鮮鐘の石碑が立っています。ここに神仏習合の安養寺がありました。
麻生氏は朝鮮からの釣鐘を寄進しました。康暦2年(こうりゃく、1380年、南北時代の北朝の年号)の銘があったそうですが、1970(昭和45)年盗難にあり、現在も発見されていません。鐘楼もなくなっています。
   
朝鮮鐘のある所のすぐ先が十字路です。右手に入って行きますと白山神社の本殿があります。その左手に小さな鳥居があり、山頂への参道になっています。右手の石段を下りますと、先程の鳥居に到る参道になります。鎌倉時代、関東より西下した宇都宮氏が山鹿の城主になりました。のち麻生氏と名乗り、この山に故郷宇都宮の白山権現を勧請しました。  
   
十字路に戻り、森の中を先に進みます。坂を登って行くと沖津宮があり、そこから下り坂になります。坂を下ると開けてビニールハウスが右手にあります。そこから少し坂を登ると、財(さい)ノ峠に到ります。その峠には左右に祠があります。
左手の祠の首なし地蔵です。打ち首になった又四郎・助四郎を供養するために、1773(安永2)年に畠田村の庄屋大庭孫四郎が建てたものですが、何者かによって首が取られました。明治の初めに首を付けましたが、それも取られました。
   
左手の祠の中の地蔵も首がありません。
その先峠を下りて行きますと、外小竹になり、脇ノ浦に到ります。しかし、車は通れません。県道177号頓田・二島線に戻ります。
 
   
県道177号頓田・二島線の花房小学校前の信号の一つ先の信号を右折し、坂道を上って行きます。内小竹公民館の先に駐車場があり、その上に「筑前 染と織の美術館」があります。日本の伝統文化の染織の技と美の古布が展示されています。館長の田中種昭氏が永年蒐集されたものを展示するために、退職後の1991(平成3)年9月、この美術館を開館しました。
   
「筑前 染と織の美術館」から真下に頓田貯水池が見えます。夕暮れ時、夕日が水面に映えてとても綺麗とのことです。
頓田貯水池を含む響緑地は整備され、その中のグリーンパークは施設が整った公園になっています。これらの詳細は「北九州のみどころ」の「グリーンパーク」をご覧ください。
県道177号頓田・二島線に戻り先に進むと、下り坂で頓田貯水池の横を右カーブになります。坂を下り切る手前、カーブの手前の信号のない所を右折します。花を販売している花の季の前を通って坂道を上って行きます。道が左に下り、右に山の方に小道があるところの手前の右手に、この様な小さな地蔵が祀られています。この辺りは大字小竹字平川です。
全国的に被害の出た享保の大飢饉(1731〜34、享保16〜19)の時、両親を亡くした幼い姉弟のおきくと千松は、山鹿でお救い米が施されると聞き、山道を越えて山鹿に向かいました。しかし何日も食べてない二人は、途中の山道で力尽きて倒れました。姉弟の菩提を弔って地蔵が祀られたという、平川地蔵の悲話が伝えられています。
 
   
県道177号頓田・二島線に戻り先に進むと、一旦大字小竹から大字頓田に入ります。電源開発の前で国道495号線と交差します。その交差点の少し手前に右手に入って行く車1台分の道があります。そこの坂を上った右手に、こうしんのう古墳群があります。北西に伸びていた丘陵地の北端に当たります。円墳20基が確認されています。5世紀後半の竪穴式石室と6世紀の横穴式石室が発見されています。
   
電源開発の前の交差点を右折して、国道495号線を東に行きます。右手にひびき学園の案内が見えます。この付近からまた大字小竹です。ひびき学園の前の交差点を左折するとひびきコンテナーターミナルです。その交差点の先の左手に「海と大地」という産地直送市場があります。脇之浦漁港に水揚げされた魚介類や若松産の農産物を中心に、産地から直送された海産物・農産物が販売され、それらを食材にした食堂も営業しています。
その先、緑の部分から先が脇之浦です。脇之浦については、「北九州点描」の「脇之浦はだか祭」をご覧ください。
 
   
国道495号線の鬼ヶ坂交差点の手前の右手に浜田遺跡の石碑が立っています。
浜田遺跡は奈良時代末から平安時代の製塩遺跡です。道路が拡張整備された際に発掘されました。海水を汲み、乾していた海草に海水をかけて、濃い海水をつくり、それを煮詰めて塩をつくる藻塩焼きでつくられていました。濃い海水を注ぎ足しながら、長い時間土器を加熱して塩をつくるため、壊れる土器がたくさん出ました。そんな土器が発掘されました。その当時、この当たりは山鹿荘に属していました。山鹿荘は大宰府の観世音寺の荘園でした。
   
国道495号線の鬼ヶ坂交差点を右折して、南側に入って来ました。田圃の中の道の三叉路に出ます。そこから来た道を振り返って北側を見ています。三叉路を左折します。後程、三叉路を直進してハザマ峠を越えて帰ります。
三叉路を左折し、坂を上った所でまた三叉路になり、そこを右折します。
二つ目の三叉路を右折し、突き当たりを右折します。先に行くと道は左右に分かれ、右の道は上り坂になります。そこから北東方向を眺めています。
右の丘陵地の先までが小竹の東端です。左の木立とその右の家並の先までが小竹で、その先はかっては海で、戦後埋立てられました。左に見えるのがひびきコンテナーターミナルの3基のガントリークレーンで、右に見えるのは海岸線に並ぶ風力発電の風車です。これらの埋立地については、「北九州点描」の「響町」をご覧ください。
右の坂道を上ると浄土宗常福寺があります。左手に駐車場があり、寺の境内は右手になります。  
   
常福寺の入口横に鐘楼があります。その横に小竹村の又四郎・助四郎の墓があります。
1661年からの寛文年間、遠賀郡は飢饉に見舞われました。組頭の又四郎・助四郎は年貢免除の直訴をしましたが、捕えられ、1663(寛文3)年処刑されました。遺体は常福寺に葬られました。
1765(明和2)年に小竹村の庄屋・組頭が施主になって建立されたことが刻まれていますが、刑死者は墓を建てることが許されていませんでしたので、地蔵として祀られました。
最初の三叉路まで戻り、白山と弥勒山の間のハザマ峠に向かいます。ハザマ峠の手前で、来た道を振り返っています。ひびきコンテナーターミナルの3基のガントリークレーンが見えます。
ハザマ峠を越えると、白山神社の鳥居の前を通り、県道177号頓田・二島線に出ます。


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