北九州点描

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二島  若松区  [2012/07/28]
 

二島の地名は、洞海湾の沖合にあり、大正時代に埋め立てられ、昭和それも戦後になって切り取られた二児島に由来します。
平安時代、遠賀川の河口部の東側から現在の若松全体は山鹿と呼ばれていました。その中の現在の頓田から東側の若松は、大宰府の観世音寺が製塩地として所領し、次第に荘園化したようです。中世、若松は山鹿・麻生氏の領地となり、二島庄の名が出てきますが、現在の若松の半分に相当する広い地域でした。江戸時代から1889(明治22)年まで二島村がありました。1889(明治22)年二島村の一部は小石・修多羅・藤ノ木村と合併して石峰村になりました。二島村の残りは畠田・頓田・小竹・安屋・竹並村と合併して洞北村になりました。1906(明治39)年石峰村は若松町と合併して若松町になり、1914(大正3)年若松町は若松市になりました。1908(明治41)年洞北村と江川村が合併し、島郷村になりました。1931(昭和6)年島郷村は若松市に編入されました。

 
 
1890(明治23)年若松築港会社が設立され、翌1891(明治24)年筑豊の石炭を若松に運ぶために若松‐直方間の筑豊興業鉄道が開通しました。その際創設されていた御開(おひらき)信号所が、1899(明治32)年二島駅と改称し、一般業務を始めました。1894(明治27)年筑豊興業鉄道は筑豊鉄道と改称され、1997(明治30)年筑豊鉄道は九州鉄道と合併して九州鉄道になりました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。鉄道は筑豊の炭鉱のある地域に枝線が延伸され、本線は筑豊本線と呼ばれました。1929(昭和4)年には鹿児島本線の原田まで筑豊本線は延長されました。

明治時代後半、若松築港によって洞海湾の浚渫・埋立が進み、1921(大正10)年藤ノ木から堀川河口までと二島東から江川までが浚渫され、藤ノ木・二島地先が埋立てられました。日米の合弁会社として設立された日米板硝子の工場が島郷村二島に建設され、1920(大正9)年から生産が開始されました。1931(昭和6)年に日米板硝子は日本板硝子に改称されました。島郷村が若松市に編入された後、1934(昭和9)年二島の土地整理事業が行われ、現在の二島駅の北から鴨生田の南に到る東西の道路が開通しました。

鮎川 義介は日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成していました。1934(昭和9)年鮎川 義介は日本炭礦を設立しました。1937(昭和12)年二島地先の埋立地を所有していた貝島鉱業から買収します。社名を日産化学工業に改称します。日産化学工業の用地になっていた二島地先の埋立地の東側に、石油不足に対応するため石炭を原料とした人造石油を生産する日産液体燃料若松工場が建設され、1941(昭和16)年から生産を始めました。1939(昭和14)年二島斜坑が開坑されましたが、戦争に突入したため中断されました。日産液体燃料若松工場の委託で、若松築港は二島地先の浚渫と埋立を行います。福岡県の事業の二島地先の埋立工事を若松築港は請負います。これは数次の事業となり、戦後にも続きます。日産化学工業は一旦は日本鉱業に合併されていましたが、日本炭礦が再設立され、戦後を迎え二島斜坑の開坑が再開されます。

1952(昭和 27)年日本炭礦の経営権は鮎川義介から菊地寛実に代わります。翌1953(昭和 28)年二島鉱は着炭します。二島鉱は日産液体燃料若松工場があった二島地先の埋立地の西側、二児島があった側に位置しました。1958(昭和 33)年浅川の第三鉱と貫通し、二島斜坑から揚炭が始められました。しかし、1960年代世界的にエネルギー革命があります。我国では、1962(昭和37)年原油の輸入が自由化され、エネルギーの主役は石炭から石油に代わっていきました。1971(昭和46)年若松鉱業所(二島鉱は若松鉱業所になっていた)は閉山し、同時に 日本炭礦も閉山となりました。

福岡県による二島地先の埋立地は、1969(昭和44)年地域振興整備公団によって工業団地に整備され、その東側に1970(昭和45)年段谷産業の若松工場が竣工しました(段谷産業は2002年に破綻し、太平工業が譲り受けて操業しています)。西側には1971(昭和46年)東京製鉄九州工場が生産を開始します。一時は板ガラス生産で高い占有率を占めていた日本板硝子若松工場も、技術革新に遅れて能率の低下を来たし、1977(昭和52)年閉鎖されることとなりました。日本炭礦の若松鉱の跡地は、1979(昭和54)年二島工業団地として造成分譲され、当初戸畑沖台地区から集団工場移転がありました。日本板硝子若松工場跡地はしばらく遊休地のままでしたが、近年はショッピングセンターとなりました。二島は市街化が進み住宅地になり、埋立地は工業団地になっています。 
7月14・15日は二島祇園です。二島小学校の前に3基の二島祇園山笠が揃っています。
祇園祭はどこも同じように須佐之男神(すさのおのかみ)が祭神で、後程訪ねる日吉神社に祀られています。
二島祇園の山笠は3基です。東二島に一番山笠と二番山笠で2基、西二島(現在の新町名は二島)に1基あります。お囃子は笛・太鼓・鉦で奏でられます。3基が揃って巡行するのは御神幸の際の御神輿に随伴する時で、それ以外はそれぞれの町内を巡行します。時間は午後から夜8時近くまでです。
江川(えがわ)に架かる国道199号線の江川大橋からの二島の眺めです。下流は栄橋で、国道199号線の旧道が通っています。手前白い3階建の2棟の建物は、響町にあるブリヂストン北九州工場の寮です。手前に市営バスが見えますが、あの建物の位置まで市営バスの二島営業所でした。
江川は、北九州市若松区と八幡西区の境界の洞海湾奥と、遠賀郡芦屋町の遠賀川河口を結ぶ河川です。江川については、「北九州点描」の「江川」をご覧ください。
国道199号線の鴨生田交差点です。国道199号線はここを右折して東に向かいます。
左の建物は、島郷出張所、市民センター、こどもと母の図書館等の市の合同庁舎になっています。平成21年度に建て替えられました。島郷は村名にも使われた地名ですが、この一帯は古くは湾内で、若松半島が島に見えたので、特に若松の西側を島郷と呼びました。
右の建物は二島郵便局で、この先の道路は県道277号頓田・二島線で、二島の西端になります。左に行く道は県道26号北九州・芦屋線です。
国道199号線を東に進みます。二島1丁目交差点にやって来ました。かっては二島新道交差点と呼ばれました。二島1丁目交差点の東南にあるイオン若松ショッピングセンターです。1977(昭和52)年閉鎖された日本板硝子若松工場跡地に、2002(平成14)年にオープンしました。
   
二島1丁目交差点から北に進む道は県道277号頓田・二島線で、先に行くと鴨生田交差点を北に行った道に合流します。しばらく行くと若松商業高校の案内がありますので、右折して行くと県立若松商業高校があります。ここは二島の北隣の片山です。
1949(昭和24)年に若松高校に商業過程が併設されました。1960(昭和35)年若松商業高校は若松高校から分離独立して、校舎が建設されていたここに移転して来ました。
 
   
二島1丁目交差点に戻り、国道199号線を東に行くと、イオン若松ショッピングセンターの東隣は高稜高校です。高稜高校は、1984(昭和59)年若松区白山からここ二島に移転して来ました。移転前年に、青葉ヶ丘女子高から共学となり、高稜高校と改称しました。
   
国道199号線を東に行きますと、高稜高校前までが上りで、その先が下り坂になります。下った所の国道より一段右下にJR二島駅があります。1891(明治24)年8月筑豊興業鉄道によって、筑豊の石炭輸送を目的に、直方−若松間の鉄道が開通しました。その際創設されていた御開信号所が、1899(明治32)年二島駅となり旅客の乗降ができるようになりました。1938(昭和13)年日本板硝子二島工場まで、1952(昭和27)年には日本炭礦二島鉱まで専用線が敷設されました。現在はその専用線もありません。
筑豊本線の折尾・桂川間と篠栗線が2001(平成13)年電化され、鹿児島本線を通って黒崎・折尾・桂川・博多駅間を福岡・北九州・筑豊を結ぶということで福北ゆたか線と呼ぶようになりました。筑豊本線の折尾・若松間は電化されず、若松線と呼ばれ、ディーゼル車が運行されています。
二島駅前交差点を北に行くと二島小学校、その先に二島中学校があります。
 
   
更に国道199号線を東に行きますと、東二島3丁目交差点になります。そこを右折し、JRの踏切を渡ったすぐ右手の二島緑道入口に記念碑が立っています。この先は広大な二島工業団地になります。二島駅を境に新町名では、西が二島、東が東二島、南側の埋立地の南二島です。
炭鉱跡地に二島工業団地が造成されたのは1979(昭和54)年でしたが、その最初の時期、経営者の死亡事故や不慮の死、倒産などが続発しました。この原因調査の中で、炭鉱で不慮の事故や災害で亡くなった下請や外国人などの多数の殉職者があり、その慰霊が疎かになっているのではないかとの声が多数挙がってきました。1985(昭和60)年ここに記念碑を建立し、炭鉱殉職者の慰霊と工業団地内企業の安全祈願を行うようになりました。
   
東二島3丁目交差点から二島工業団地に入り南に進みますと、右にカーブして交差点に出ますので右折し、北に向かいます。左にカーブして西に向くと江川の河口に架かった奥洞海橋に到ります。奥洞海橋から上流の眺めです。左はイオン若松ショッピングセンター、右の奥は高稜高校、手前は身障者療護施設ちづる園です。その前のコンクリートの橋を筑豊本線の若松線が通っています。
奥洞海橋から下流の洞海湾を望んでいます。赤白の煙突のすぐ左までが二島工業団地です。その先が洞海湾の東西の航路になります。
二島工業団地のこの部分に日本炭礦二島鉱がありました。埋立地の先の方に二児島がありましたが、現在はその痕跡もありません。日本炭礦は水巻町を中心に芦屋町や現在の北九州市八幡西区・若松区に炭坑を持っていました。1939(昭和14)年4月二島斜坑を開坑します。戦時中の中止を経て戦後再開され、1953(昭和28)年4月 二島鉱は着炭します。その後、この二島鉱と他の日炭(日本炭礦)高松第二鉱・第五鉱と、更に第三鉱が坑内で貫通し、二島鉱の斜坑から揚炭を始めました。揚炭後、ここで一括選炭され、今船が係留されている岸壁に接岸した船に積み込まれました。ここから見える範囲に、二島斜坑・選炭場・二島区社宅・貯炭場・二島埠頭がありました。1971(昭和46)年3月若松鉱業所(二島鉱を改称)が閉山され、 日本炭礦も閉山されました。
日本炭礦については「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」及び「北九州点描」の「浅川」もご覧ください。
右折した交差点まで戻り、直進して南に進むと、突き当りになりますので、左折して東に向かいます。道路の右手の南側は1971(昭和46年)生産を開始した東京製鉄九州工場です。そのまま東に進むと突き当りの交差点です。左に行くと国道199号線になり、そこまでの右手が若松競艇場です。交差点を右折して南に行きます。途中左折して東に行く道がありますが、この後にして、直進します。
埋立地の中央の南端は二島埠頭になっています。海面は洞海湾の航路です。対岸は八幡西区の三菱化学黒崎事業所です。左の山は八幡東区の標高622mの皿倉山です。
 
   
途中左折する道がありましたが、こちら側からは右折して東に向かいます。この東端には段谷産業若松工場がありましたが、破綻後太平工業が操業しています。途中から左手北側を見ています。この部分の埋立地は、カギ形に洞海湾を東側に張り出しています。海面の西奥に若松競艇場があります。1952(昭和27)年若松市によって若松競艇場は開設されました。
こちらは南二島ですが、対岸は競艇場がある所が赤岩町、その右の造船所がある所は藤ノ木です。
若松競艇場から東側の眺めです。右端は海に張り出した岬の山(はなのやま)です。その手前の山側にかって国鉄若松工場、若松車両センターがあり、海側に藤ノ木駅まで貯炭場がありました。造船所が見えますが、その先から岬の山までの距離は造船所が見える範囲の3倍ほどあります。その間が若松が石炭積出港の時代、広大な貯炭場がありました。
1940(昭和15)年現在若戸大橋がある場所にあった中ノ島が切り取られました。中ノ島にあった造船所がこの藤ノ木の貯炭場の西側に移されました。
岬の山の東側の若松港については、「北九州のみどころ」の「若松南海岸」をご覧ください。
南二島に入って来た東二島3丁目交差点まで戻り、国道199号線を東に行きますと左手道路脇に鳥居が立っています。その先を左折して北に進むと、日吉神社の鳥居が見えます。
日吉神社は、平安時代初期、近江の日吉大社をこの地に勧請したと伝えられています。古代この地は観世音寺の荘園でした。大宰府の観世音寺の背後には日吉神社があり、観世音寺の守護社になっています。他の観世音寺の所領だった所にも日吉神社があることを考えると、その所領地の守護神として分祀したことも考えられます。祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、須佐之男神(すさのおのかみ)、天神地祇(あまつかみくにつかみ)です。中世、この地を支配した花房城主麻生遠江守の崇拝が厚く、神領として田が寄進されました。祭礼も大変盛んで、島郷一円から参詣があったようです。しかし豊臣秀吉により神領は没収されたため、その盛運は衰えていきました。江戸時代に入ると日吉神社は再興され、島郷一円の祈願所となります。明治維新後は二島村の村社になりました。
   
鳥居の前の道を奥に進んで行きますと、神社の裏手に十字路があります。そこを左折しますと、すぐ右手に徳雲寺があります。道路脇に鐘楼があります。
徳雲寺の梵鐘は、室町時代の1430(永享2)年麻生家見(いえはる)が道仙に造らせ、総善禅寺に寄進したものです。道仙のことははっきりしませんが、技法より小倉鋳物師か、それに近い者の作と思われます。総善禅寺についても二島庄にあったこと以外ははっきりしません。江戸時代、この梵鐘は日吉神社に移され、明治維新の頃徳雲寺に移されました。
 
   
日吉神社裏手の十字路まで戻り、反対側に進みます。坂を下った所に井戸の形のようなものがあります。水はありません。紅影の池の跡です。
神功皇后伝説で、神功皇后が洞海湾を通って江川を進みますが、その折、二島で神功皇后は装束を改めようとしました。しかし清水がなかったので、村人の案内で泉のほとりに立ちました。澄み切った水に顔の紅まではっきり映りました。そこでその泉を紅影の池と呼ぶようになったとのことです。昔の人は、小さな池は鏡と同様に考え、神秘的なものとして信仰の対象にしました。
紅影の池の前を進みますと、十字路に出ます。その道は国道199号線の東二島2丁目交差点から北に伸びた道です。かって日本炭礦二島鉱があった時代、道の東側には、日本炭礦二島鉱の道岸(どうぎし)社宅が東西に列をなして南北に何棟も並んでいました。現在は住宅地になっています。


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